夜開く



 なんで。考えたって意味のない反射で俺は拍動を乱した。よく磨かれた黒い車体は夜の中でも輝いて見える。曇り一つないその輝きが持ち主のステータスの高さを思わせ息を飲んだ。
 心臓を乱す悪い予感を押し込めて、四角張ったいかつい車の脇を通り過ぎる。出来る限りの速足で、住宅街の静まり返った道を歩く。
「送りますよ」
 なんで。悪い予感は当たるのだろう。背後からかけられた声に振りかえれずにいる。
「先生!」
 立ち止まっていると後ろから車が迫ってくる。
「乗りませんか!」
「……大きな声を出さないでください」
 まだ学校から遠くない。こんなところを保護者に見られては陰でなにを言われるか分かったものじゃない。周囲を窺い助手席へ乗り込んだ。乗らなければいつまでも付きまとわれると思ったからだ。
「どちらまで行かれます?」
「どこへでも」
 どうせなにを言ったところで俺に選択の余地はなく、決定権すらないのだ。一から十まで伊原の思うとおりになるだけだ。
 暗い夜道を走る車のウィンドウはスモークガラスになっていて街灯の明かりも暗んで見せる。延々と続くこの道が一体どこへ繋がっているのかも知らない。俺はただ持て余した空白に身を委ね、目を閉じる。あの日から俺は俺の肉体の所有権を失ってしまった。関節の駆動も皮膚の引き攣りもただ在るということすら俺には他人事のように思える。これはただの器にすぎない。
 一体どこに着いたのか、車は静かに停止した。伊原はなにも言わない。薄く目を開ける。外光の届かない薄暗がりに停車した車は息を引き取るようにエンジンを停止させる。
「可愛げねぇなあ」
 ポツリと呟き伊原は覆いかぶさってくる。すぐに倒された座席のせいで視界には車内の天井だけになった。
「なにされるか分かってんだろ? 泣けよ」
 俺の顔を覗き込む伊原の顔は苛立ちのためか無表情だった。恐れを感じてもいいはずなのに、俺の心は乱れなかった。
「別に、どうでもいい」
「へえ」
 ワイシャツの上から身体をまさぐり耳や首に唇を寄せてくる。身体は不自由に硬直して、身ぐるみを剥がされていくままになる。こんなところで始める気か。嫌だと言って聞き入れられないのは我が身をもって知ったことだ。顔の上に腕を置き死体のように身動ぎもせずされるままになる。地肌に感じる伊原の呼気は熱く、手付きは乱暴なほど早急だった。
「んっ…、ふ」
「強がってても身体は正直ってやつか?」
 スラックスの上から形をなぞるように扱かれ芯を持つ。ジンジンと快感が身体中に行き渡っていく。
「やるならさっさとやれよ」
「そんな頼み方があるか」
 腕の隙間から見た伊原は苦笑を浮かべ手を止めた。火をつけられた身体はもどかしいほど男の手を求めている。
「パンツ脱いで誘ってみろよ」
「悪趣味だな」
「ケツ振りながら言うことじゃねぇな」
 不愉快を感じつつ俺は下着ごとスラックスに手を掛けた。最早伊原の前で守るべき矜持などない。仕掛けられた悦楽に絡め取られていくまでだ。
「恥ずかしくねぇの、車ん中で勃起ちんぽ丸出しにして」
「うるせぇな、早くしろよ」
 ウィンドウはスモークガラスだがフロントガラスは透明だ。人影のない夜に紛れているとはいえ外からは胸を肌蹴られ、下半身を露出した俺の惨めな姿も見えてしまうだろう。助手席に投げ出した浅ましい身体は取り留めもなく把握しきれない。もうどうだっていいんだ。
「可愛くねぇの」
「……っ」
 剥き出しの性感に唾液を絡めた舌が這う。劣情を誘うようにわざとらしく音を立て、先っぽや裏筋を舐めまわされ吸いつかれる。身体を這い回る手指の感触や直接的な刺激に高められた官能に腿は強張り本能的な仕草で腰を突き出してしまう。伊原は鼻で笑い、俺のピストンに合わせて頭を振り吸い上げてくる。もう限界だった。射精する、その際に伊原は身体を離した。
「悪趣味なんだよ……」
「そんなつもりねぇよ、ほら」
「な……、うっく」
 伊原は俺の腰を持ち上げるとそのまままんぐりがえしのような姿勢にさせた。無理矢理折り曲げられた身体は呼吸が苦しく、眼前に自分の膝と赤く腫れ上がり唾液や先走りに汚れる一物がある。最悪だった。
「こっちもしてやるよ」
 アナルの襞を撫でられてそこがひくついたのが分かった。最悪だ。淡い刺激に煽られてもっと欲しいと身体が疼く。なにも知らなかった頃とは違う。俺はもうそこがどれほど狂おしく快感を甘受するのか知ってしまっている。
「あ、やめろ、やっ、あっ」
 伊原はアナルの襞を伸ばすように尖らせた舌を這わせる。ほのかに冷たい感触に快感よりも怖気が走り太ももを押さえつけられ不自由な足をばたつかせた。伊原の前で動揺するのは嫌だったが、些細なプライドよりも生理的な嫌悪感が上回っていた。伊原は暴れる俺の足を腰を更に高く上げることで制する。黒い靴下が無様に天井を掠るのを俺は諦めのうちに目の端に収めた。
「いい子にしてろよ、せんせ」
 ぎらついた眼差しに射抜かれて、俺は顔を反らしきつく目を閉じた。
 周辺をなぞっていた舌は次第に浅く出入りをし始める。唾液を垂らし込むようにされるせいでそこが鳴らすのに不自然な水音を立てている。焦らすような手付きでペニスを扱かれ、亀頭を擦られると反射的にアナルがひくついてしまう。次第に浅ましい受容体へと変化していく俺の身体を更に高めようと伊原はしつこく愛撫を繰り返す。
「あっあっあっんっ、は、んっ」
 舌の横から指が差し込まれ、二つが異なる動きをする。舌のぐねぐねと煽るような動きとは違って指の動きは直線的に俺の快楽を擦り上げる。焦らされたペニスの先から垂れる先走りはワイシャツや顔の上に落ちて、俺は自らの性感に汚されている。
「はあっ……んっ!」
 揉みしだかれた前立腺の刺激に身体は無様に跳ねあがり、爪先は曇ったフロントガラスを切り取った。欲の満ちる密室に線状の夜が流れ込んでくる。あちら側が正しい世界のはずなのに、俺はもう戻れないと思った。身体に残る痙攣と虚脱感に身を任せシートに手足を投げ出していると伊原に腕を引かれた。
「しゃぶれよ」
 伊原は息を乱しながらスラックスからいきり立ったペニスを取り出す。血管を浮かべ先走りを滲ませるそれは余裕を一つも感じさせず、伊原も俺と同じように堕ちている最中なんだと思わせた。サイドブレーキを乗り越え伊原の腿に手を置き顔を伏せる。動物じみた臭気の中でおよそ知性的とはいえない恰好を取ると、自分の本質がけだものと変わらないのだと知らされる。
「これからどうする」
 伊原は言う。今夜のことだけではないことはすぐに察せられた。
「どうでもいい」
「逃がさねぇぞ」
「それでいい」
 脈打つものに舌を這わせると伊原はなにも言わずに髪を梳いた。切り開かれた向こう側への隙間もいずれまた閉じるだろう。




(13.5.30)
置場