六月のおともだち



 降り続ける雨は永遠の表象のように思われた。
 ビニール傘の向こう側にいる彼は傘も差さず青白い顔色で立っている。朝から降る雨のために全身を濡らし、なにも言わず康弘にうろのような眼差しを向ける。
 康弘は傘を傾け彼に近付いていく。彼のことは昔からよく知っているのだ。
「入ります?」
「君も濡れるよ」
「少しくらい、別に」
 促すとずぶ濡れの青年は康弘の傘の中へ身体を忍び込ませる。白い頬を伝う雨のしずくは濡れたカッターシャツの上に落ちた。触れ合う肩から雨がしみて彼の身体が冷え切っているが分かった。青年もまた康弘の体温を感じたのかその身を離す。思わずその肩を引き寄せると、青年はかすかに笑った。
「笑わないでください」
「だって、おかしい」
 笑いに揺れる肩を抱いたまま康弘は歩いた。やがて青年も笑いをおさめる。確かにおかしいと康弘は思った。右腕はすっかり濡れてしまっている。
 人気のない住宅街を言葉もなく歩く。街は雨曇りに暗んで視界が悪い。その中でも民家の庭先や街路の辻に咲く紫陽花の葉は雨にうたれ青々とした輝きを揺らしていた。
「少し雨宿りしませんか?」
「いいよ」
 白い紫陽花が咲きこぼれる横の、十年以上シャッターを閉めている商店の軒先にとまる。青年は髪の毛から滴る雨水を倦んで両手で顔を拭い、黒く艶めいた前髪をかき上げた。露わになった額の美しさは頬や顎のなだらかな稜線をも際立てた。まつげに絡んだ水滴が目に入るのか目を細める。その仕草はまぶしさに目を眇めるのに似ていた。ハンカチを差し出すと、間に合わないよと笑った。青年の言う通りだと思ったが、康弘はハンカチを押し付けた。
「ありがとう」
 青年は受け取ったハンカチを両手に握ったまま使うことはなかったが、康弘はなにも言わなかった。シャッターに背中を預け、降り止まない雨を眺めている。
「もう会えないかと思っていました」
「僕はそれでもいいかなって少し思ったよ」
「……会わない方がいいんでしょうか」
「それに越したことはないだろうね」
 青年のきっぱりした言葉に康弘は口籠る。青年の言わんとすることは康弘にも分かっていた。この不自然な逢瀬がお互いの為にならないことは明白だった。
 朽ちかけた赤いポストは雨滴を弾く。言葉をなくすと雨音ばかりが耳についた。
 もう二度と会わない可能性は何度も考えたことだった。なんの予兆もなく、なんの痕跡も残さず、彼が現れなくなる可能性だ。その度に康弘は胸が締め付けられるほどの寂しさと哀しみに耐えられなくなるのだ。
「今年は空梅雨なのか雨が少ないね」
 青年は独り言のように呟いた。康弘は泣くのを堪えている。いくつになっても女々しい感受性が抜けないのだ。今となりにいる彼を失うことを恐れている。
「会えて嬉しい気持ちはあるんだ。それは本当だよ」
「でも」
「うん」
「あなたは……谷田さんではないのでしょう?」
「そうだね」
 六月に初めて出会った谷田は衣替えを終えたばかりの糊の残る夏服で、父に促されはじめましてと康弘に目線を合わせた。精悍な顔立ちに浮かぶ柔和な表情に康弘は目を瞬かせ、はじめましてとたどたどしい挨拶を返した。彼は家庭の事情で一時期康弘宅に滞在していたのだ。友人と遊びたい年頃だろうに子守を嫌がらずにやり、居候としては健気すぎるほどに家に尽くしていた。
 彼は十年前に六月の花嫁を貰い今では一児の父である。
 感傷に溺れきった十年前の六月、雨の日に彼は現れた。少年の骨格のまま、あの日と同じ笑みを浮かべ立っていた。雨に濡れる彼が谷田であるはずがないのは康弘にも分かっていた。谷田は康弘と同様に歳月相応に歳を取り、彼の家庭を築いている。
 ならば今となりにいる青年は一体誰なんだ。
 疑問は尽くせずあった。しかし問えば青年を失ってしまうように思えて康弘は確信に触れられずにいる。得体の知れないなにかだと分かっていて、それでも執着は捨てきれなかった。
 毎年六月の雨の日に彼は現れる。たった一日だけ天の川を渡る彦星と織姫のように、得体の知れないなにかとの逢瀬は続く。
「俺の頭がおかしいのでも、あなたがなんであろうと構わないんだ」
「……」
「俺もあなたに会えて嬉しいし、また会いたいと思う」
 青年はなにか言おうと唇を薄く開き、しかし噤んで笑みを作る。雨雲の狭間から日が差して青年の笑みは不思議な神々しさに照らされた。降り続ける雨に反射して光はまばゆいほど輝いている。
 青年はなにも言わず康弘の頭を撫でた。その手の優しさに康弘は泣きたくなった。それは幼い頃、谷田が康弘にしたのと同じ仕草だった。
「雨はいつか止むものだよ」
 青年は静かに微笑んだ。親友のように、兄のように、父のように、康弘の背中を力強く押し出すような愛情深い笑みだった。
 瞬きをした次の瞬間には青年は消えていた。誰もいない軒下でひとり立ち竦む。康弘は脱力したようにシャッターに背を預け、溜息と共にネクタイに指をかけた。その拍子に頭からハンカチが落ちてきて反射的に掴む。突拍子もない彼のいたずらに康弘は笑ってしまう。
 天気雨の空に虹がかかっている。雨はいずれ止むだろう。けれど、雨が降り続ける間は誰も知らない、二人だけの世界が永続されるのだ。
 甘い胸の痛みを抱いたまま、康弘は傘を差し軒を出た。




(13.6.28)
置場