イビルアイ



 極北の森に住むイビルアイは大層な偏屈だと聞かされていた。しかし彼は国中で一番の薬師でもある。皇太后の病には、イビルアイの調合した薬がなんとしても必要だった。
 アレスは馬を駆り、森の奥深くまで進む。目的の館は蔓草に覆われ、一見廃墟のように見えた。懐から王国付きの魔導師に渡された目隠しを取り出す。
 それは一見ごく普通の布に見えた。中央に見たこともない魔道の紋が描かれているが、目元に巻きつけるために畳むと見えなくなった。
「邪眼と対峙されるなら決してこれを外してはなりません」
「しかし、目を隠してしまったらなにも見えなくなってしまうではないか」
「それには及びません。魔道の力により目を隠しても見えるはずです」
 魔導師とのやりとりを思い出す。確かに渡された目隠しをしてもうっすらと風景は見ることができた。とはいえはっきりと見えるわけではないので自然手探りになる。薄暗い視界の中でドアノックを叩く。
 一回、二回、重たいノックを叩きしばらく待っていると軋んだ音を立てて扉が開いた。
「おや、珍しいお客人だ」
「突然の来訪を失礼いたします。私はユスティティア国親衛隊第二隊副隊長、アレス・ミ・ロージアと申します。こちらの書簡にお目通し願いたく参りました」
「まあ、まあ、上がりなさい」
 イビルアイは目隠し越しの不確かな目にも明らかな美男であった。女性的な面差しは感じられるがしなやかな肢体を持ち、こんな森深くに暮らしているとは思えないほど生気に満ちていた。
 アレスは想像していたイビルアイと現実の姿に動揺しつつも案内する背についていった。

 案内された場所は客間とは言い難い部屋だった。そこかしこに薬瓶や干からびたイモリや昆虫、乾いた草花が溢れ、魔術紋や得体の知れない文言を記した紙が壁一面に貼られていた。どうやら薬師の仕事部屋だろうと思われた。
「なるほど、大体のことは分かった」
 宮廷医の記した書簡を読み終えるとイビルアイは簡単に言ってのけた。
「是非貴公のお力添えを戴きたく存じます」
「私の薬は安くないよ」
「謝礼は書簡にある通り、お望みのままご用意させていただきます」
「そう、じゃあ君、目隠しを外したらどうだ」
「えっ」
「できない?」
「いえ、あの、しかし、あなたは……」
「なに、私はなりそこないの邪眼にすぎない。命までは取らないよ」
「しかし、あの、私には勤めもあり……、その……」
「なら仕方ない、この話は縁がなかったようだ」
「待ってください! あの、あの……」
「私は誠意を見せてほしいだけだよ。薬を煎じるのにも時間がかかる。それまでの余興がほしいだけさ」
「わ、私は、国に尽くすと誓っております。どうか……」
「分かっている。ちゃんと城へ帰してあげるよ。なにも心配することはない」
 甘く優しい猫なで声に背筋を震わせ、アレスは固く結んだ目隠しの結び目に指を入れる。もしイビルアイの言うことが嘘で、このまま死んだとして仕方ないと思った。たとえ薬を持ち帰れなくとも処罰を受けるということはなかったが、幼い頃より祖国に身を捧げようと努めてきたアレスにとって、薬を持ち帰れなければ死ぬのと同じことだった。
 震える指で目隠しを外し、恐れから目を閉じたままでいる。怖気づいたアレスの顎が優しい手付きで上向けられる。それがイビルアイの手だと分かりすぎるほど分かってアレスは身を震わせた。
「さあ、怖がらないで。目を開けてごらん」
 浮き出た喉仏を上下させ、アレスは震える拳を握りしめた。イビルアイの誘いにゆっくり瞼を開いていく。
「あっ……、あ……」
 アレスの薄く開いた目を覗き込むイビルアイの白皙の美貌にアレスは目を見開いた。目隠し越しに見たよりもずっと、今まで見た誰よりもずっと、美しい相貌に息をのむ。
 通った鼻筋もしなやかな眉も、薄く形良い唇もなめらかな肌も、すべてが寸分の狂いもない神の寵愛を一心に受けたような完全な美しさがそこにあった。そしてなにより透き通る赤い瞳を持つ眼球に魅入られる。これは禍々しい呪いの目だと知りながらアレスは目を逸らすことができなくなった。
「ああ、君の瞳は翡翠だね。とても綺麗だ」
 両手にアレスの頬を包み、珍しくもない翡翠の目にうっとりと賛辞を贈る。手のぬくもりと言われ慣れぬ世事にアレスは頬が熱くなるのを感じた。
「あの、手を……、あっ! んんっ」
 離してください、そう言おうと口を開いた瞬間、アレスは眼球の奥に感じたことのない掻痒感を覚え息を跳ねさせた。じわりと滲んだ涙に眼球を湿らせても痒みはなくならず、まばたきすることもできない。
「もっとよく見せて……」
 イビルアイの手から逃れようと身を捩ろうにもアレスの身体は押さえつけられているわけでもないのに不自由でままならなかった。
「あっ、あ、んっ、ふっ、あ……」
 掻き毟りたい。引掻きたい。眼球を襲う激しい痒みにアレスの頭の中はそれだけになる。重たい腕を持ち上げ、震える手を眼球にのばす。その手をイビルアイは微笑んで握りしめた。指と指との間にその美しい指先を差し込んで、もう一つ同じように伸びてきた手も同じように拘束する。
 アレスの顔はもう自由に動かせるはずだった。しかし邪眼に魅入られたアレスはその眼から視線をそらせなくなっていた。
 掻痒感に身を震わせるアレスの瞳の奥を覗こうとイビルアイは更に見詰めた。
「ああっ! あっ、なに、なっ、あっ、こんな、んっ!」
 ゾクゾクと眼球の奥に経験したことのない官能が差した。激しい痒みに似たそれは痒みというにはあまりに官能的だった。涙は愛液のようにとめどなく溢れてくる。鼻筋の奥にじんとした痺れを感じ洟も垂れたままになる。閉じられない口からはだらしなく舌が突きだされ、口の端からは涎が零れていた。
 未知の快楽にアレスの肉体は翻弄され眼球の感じる性感を背筋伝いに下腹へ落とす。触れられているわけでもないのに腰は跳ね、熱を持つそこから漏れた先走りに下着が濡れていく。あろうことか、背骨すら感度を上げているような気さえするのだ。
「瞳孔がいやらしく収縮している。気持ちいいのかい?」
「あっ、あっ、あ……」
「もっとよくご覧」
「ふっ、あっ! あっ! ああっ!」
 両手に組み合った手を強く握り、アレスは経験したことのない視神経の官能に身体を震わせ触れもせず精を放った。
「ふふ、君は随分いやらしいんだな」
 パチッとイビルアイがまばたきをするとアレスの身体から力が抜け、逐情に虚脱する身体をソファに預けた。イビルアイは脱力して動けないアレスの横に座ると涙や涎に汚れた顔を手拭いで拭っていく。顎を取られ顔を向き合うようにされると先程の恐ろしい官能が思い出され咄嗟に目を瞑るが、アレスが思うような性感は訪れなかった。
「私はなりそこないの邪眼だけれど、優秀な邪眼でもあるんだよ」
 力の加減ぐらいできる、とイビルアイは楽しげに笑った。
「薬ができるまで滞在するといい。城へは報せを投げておこう」
 イビルアイの提案にアレスはなにも答えられなかった。薬ができるまでに一体いつまでかかるのか、見当もつかない。その間自分は邪眼に玩弄され続けるのか。瞳の奥の覚えたばかりの性感が仄かにうずく。アレスは瞳に涙を溜めて微かに微笑んでいた。



(14.11.8)
置場