夕暮れ


 暑い盛りに部屋へ戻ると、夏着物を着た長身痩躯の男が座布団を枕に魘されている。汗で額にまとわり付く前髪を掻き分けてやると眉間に皺を寄せうるさがる。
 蝉の鳴く声に体力を奪われていた。今すぐ横になりたい気もあった。けれど死んだように眠る画家のために団扇で風を送ってやる。一体どこの物好きだ。他所の家の風鈴の音が開け放した窓から忍び込んでくる。
 団扇から送られる風に心地良さそうに表情を和らげる。こんな風に安らかに表情を弛緩させるところを見るのは久し振りだった。目を開けばまた、生活に苦悩する険しい顔になるのだろう。そう思うと起こすのが可哀相に思えた。

 西日が部屋を赤く染める。煙草を吹かし原稿用紙を睨みつけていたので、河野が目覚めたのに気付かなかった。衣擦れの音の後、パキリと関節が鳴った。
「よく寝てたな」
「おう」
 河野は乱れた着物を合わせてしばらく黙り込んだ。伸びた襟足が汗に濡れていた。手ぬぐいを渡すと黙って汗を拭う。
「描いてるのか、最近」
「なんにも」
 河野は眉間に皺を寄せムッツリと黙る。煙草を揉み消して帰ろうとする河野の腕を掴んだ。右手がその細さに驚いて、一瞬力が緩んだ。
「情熱が失せたか」
「絵具が買えないんだよ」
 吐き捨てるように言った言葉は真実なのだろう。しかし、それは言い訳に思えた。女に生活を頼りきりにしてきて労働を知らぬ男だ。女が郷へ帰り親のいうひとと祝言を挙げたと強がって笑っていたが、内心ではボロボロだったのだ。
「兄がコッチに来ててね。もう道楽を止せと言われたよ」
「そうか」
「俺の絵はそんなにダメだろうか」
「俺は絵は解らぬ」
 そうか、と言って笑う目尻に皺が寄る。いつからこんなに疲れていたのだろうか。才気に溢れ無闇に振りかざしていた自信はどこへ行ったのだろう。
「もう絵を止して兄のいう人と所帯を持つのがいいのだろうか」
「君が考えることだ」
 河野が俯いているので泣いているのかと思った。間を持て余し煙草に火を点ける。河野が小さく笑った。
「君、もてないだろう」
「そんな事はないよ。国が一つ傾くくらいさ」
「傾国の美男かい? そんな風に煙草をやってるようじゃ、疑わしいものだ」
「泣いてる相手に一々うろたえてるようじゃ男が廃るよ」
「嫌な気風だね」
 河野の笑いが伝染して笑う。窓から流れ込んでくる夕日の光線に赤く照らされて河野が小さく見えた。

「俺はおまえのようになりたかった」

 小さく呟いて、河野は部屋を出て行った。
 しばらくして、河野がカフェーの女給と湯河原で情死を図ったと知らされた。女の意識はまだ戻らぬが、二人とも生き残った。
 病院で眠る河野の顔は青白い。河野の寝顔を眺めながら、起きろ起きるなと念が入り混じる。
「薬がよく効いてますのでしばらくは眠ったままですよ」
 看護婦が気遣うように言う。そうですか、と言いまた河野の眠る顔を眺める。眠る顔が好きなんです、と言ったら看護婦はどんな顔をしただろう。幽霊でも見たような顔をしただろうか。
 時勢に乗り遅れた我々には夕日の差し込む部屋が似合いだ。こんな清潔なところは、なんだか居心地が悪いね。
「河野」
 早く目を覚ませ。明るい色の絵具を買ってやる。おまえは病的な色ばかり使いたがるから、心まで落ち込んでいくのだ。
 おまえは疑うかもしれないけれど、おまえの絵が、俺は好きだよ。



(05.5.14)
置場