汚れたいだけ



 限界をとうに超えている。顔相は尋常じゃない。疲労が人間を悪くしている。おまえの言うことがよく分からない。
 切々と人間のありようを説いていたおまえが人間の道を外れてしまうなんて思いもしなかった。金と暇を持て余した醜悪な年寄りにおまえの身体がオモチャにされていると思うと俺は苦しい。
 ベッドで死んだように眠る。おまえはいつも悪夢を見ている。けれど夢の中の方が、安らかなんじゃないかと俺は思う。首筋に浮かんだミミズ腫れ……身体中アチコチにまともじゃない傷を負って、よくない薬のせいで内臓までボロボロだ。
 二十一歳、若い盛りにおまえの肌は老人のように見えた。

 久方ぶりに家へ戻ったおまえをずっと眺めていたいけれど、仕事へ出る。俺には俺の仕事が有るし、おまえのように生きる気もない。

「学校辞めてきた」
 唐突に、笑いながら正志は言った。止める間もない告白に戸惑い、それでどうする、とありきたりな言葉しか出てこなかった。
「しばらくはバイトして、金が貯まったらやりたい事があるんだ」
「教師になるんじゃなかったのか」
 言うと、正志は遠い目をして「それだけが後悔」と言って口元に無理やりな笑みを浮かべた。
 正志との付き合いは、正志が高校生の頃から続いている。元は友人の弟で、大学受験の際に家庭教師をしていたことが始まりだった。
 俺が就職のために、正志が就学のために上京し、時々一緒に飯を食うくらいの付き合いがしばらく続いた。
 正志が学校を辞めると言いに来た 日から、何か様子がおかしくなった。アパートを追い出されたと言ってマンションに転がり込んできて、あっと言う間に俺の心をかき乱した。
 アルコールの効力で正志の色目に酔い、ほとんどグダグダに身体を繋げた。正気になって青褪めたが、それよりも正志に男の経験が有ったことの方が余程ショックだった。
 怒りだか憎しみだか分からぬほど、燃え立つ感情に胸が騒いだ。その日以来、二人の間に性的な空気が流れることを拒んだが、転がる石のように悪く悪くなる正志を救ってやりたい気もして無下に家を出て行けとも言えなかった。
 男娼の真似事だろうと高を括っていたが、正志の様子は日に日におかしくなっていった。一時期正志の上客だった男が、正志に悪い薬の味を覚えこませた。気付いた時にはもう完全な中毒で、正志は薬のためにまた身体を売った。
 止めろと言うと一時は止めるようだったが、すぐにグラグラになった。決して俺に金を強請らないのが正志なりの義理立てだろうと思えたが、俺にはそれが苦しかった。

「陽一さん、俺ね教師になりたいんです。生徒からウザがられるくらいの熱血教師。それで、誰も見放さないんだ」

 あどけない顔で夢を語った。あの日にはもう戻れないのか。
 仕事に没頭し正志を忘れようとする。打ち込めば、正志を思い出すことはなかった。しかし、ふと気を緩めた瞬間、ボロボロになった正志の身体を思い出す。あの日腕の中にあった身体はまだ傷もなかった。今は、目も当てられぬほど傷だらけだ。

「陽一さん、俺はもうちゃんとしたい」

 泣きながら言い、けれどすぐにヘベレケになる。正志を追い込んでいるのが一体何なのか分からない。もしかしたら「ちゃんとしたい」という意識が、正志をより追い詰めているのかもしれない。

「陽一さんみたいに、ちゃんとしたい」

 ガリガリに痩せた身体を震わせ正志は何度も泣いた。マトモな仕事に就いてもすぐに失敗して辞める。その後には決まって言った。正志の中で俺は実際以上に素晴らしく美化されている。苦しんで泣くおまえを抱き締める器量もない男なのに。
 俺はおまえを救えない。その確信から逃れたい。出来る事ならおまえと同じ場所まで行きたい。身体をボロボロにしてダメになって。おまえが苦しむ様を見なくてすむようにしたい。卑怯者と罵られても笑っていられるくらいに、汚れたい。おまえを見捨てて平気な顔をしていられるくらいに、ずるい最低な人間になりたい。
 おまえの苦しみから目を逸らし、仕事に打ち込んでおまえの過剰な美化に苦しむ。おまえが思っているほど、俺はまともな人間じゃない。おまえと一緒に地獄へ行きたい。

 夜になっても正志は眠ったままだった。俺が帰宅したのにも気付かず、目の端に涙が流れた痕がある。抱き締めてやりたい気がした。そんな資格はないと止める。ボロボロの正志を美しいと思う。背中を丸め子供のように眠る正志を見詰め、自分が大層醜く思えた。
 おまえは俺よりもずっと真剣に生きているんだな。ボロボロになりながら、苦しみながら、それでも生きている。おまえは俺に憧れるが、俺はおまえこそが美しいと思うよ。おまえに、憎まれたくなかった。おまえから目を逸らし、おまえが描く理想像のままの俺で在り続けたかった。
 おまえの望むようにしてやる。おまえが苦しまないですむなら、俺は何だってしてやる。だからもう、こんなことは止めよう。身を滅ぼすために身を削るのは止せ。

 おまえの痩せた身体の傷が癒え、悪い薬が内臓から清められるまで、俺はおまえに憎まれ恨まれようと構わない。おまえが前のように笑えるようになるのなら、俺は構わない。俺は決しておまえを見放さないだろう。元気になったらおまえは、俺を見捨てて良いんだよ。
 だから、正志。俺と一緒に地獄へ行こう。




(05.5.18)
置場