はつなつ


 この家の主人は色狂いであったが割合できた人格者であったようだ。使い物にならなくなった俺のようなものでも追い出すことなく家に置いている。
 歳が歳である。普通ならこんな小姓の真似事などせず真面目な仕事に就くのが道理であるのだろうが、俺は生来の怠け者であったし、物心ついたころから可愛がられる以外の仕事は知らぬ。近頃は幼い者の躾を任されるが、俺にそんな器量はない。少年たちも俺を馬鹿にしていたし、俺も別にそんな者たちに嫉妬して心を乱すようなことはなかった。
 のんびりと、うたた寝のように過ぎていく毎日が嫌いではなかったし、このままがずっと続くのならそれが一番だと思っていた。
「よしサン、ちょっとォ」
 奥さんが呼ぶのは決まって男手の必要な力仕事と決まっている。寝たふりをして聞かなかったことにしようか。しかし、奥さんが怒ると厄介だ。普段怒らないだけ底知れず恐ろしい。
「なんでしょうか」
「もうジキに信一郎が着くようなんだけど、よしサン迎えに行ってくれないかしら」
 信一郎というのはこの家の一人息子だった。帰るとか帰らないとか数日前から聞こえてきたが、事実帰ってくるとは思わなかった。奥さんは他に手の空いてる人間がいないと言って半ば無理やり俺に迎えを依頼していった。「アァ、忙し」といって小走りしていく様は少女のように愛嬌があった。

 天頂に輝く太陽が頭を沸騰させる。暑い。初夏というのにこの暑さ。夏となったら俺は死ぬな。
 駅前の木陰に座ってそれらしい人物が出てくるのを待つ。信一郎、どんな顔をしていたか。思い出せない。チラと見た感じ、賢そうな子供だったが。
 駅舎から吐き出される人の群れ。大荷物を抱えた洋装の男を見つける。あれか、と思い立ち上がった瞬間。クラリと眼前が白んだ。
 座り込んで、俯く。頭がクラクラするのと胸が締め付けられるような思いに上体を倒す。落ち着いて身体を起こした頃にはもう、信一郎らしい人はいなくなっていた。別人だったのか。
 しばらく待っても信一郎らしい人間は現れなかった。日の向きも幾らか変わってきた頃合だったので帰る。奥さんも分かってくれるだろう。
 屋敷に戻ると座敷からなにやら賑やかな笑い声が聞こえてくる。忙しそうに早足の下女を捕まえて何事かと訊くと、下女は「信一郎さまがお帰りになったんですよ」と言う。
「ああそう」
 馬鹿らしいような気がした。下女が「挨拶していかれませんの?」と問うが、そんな立場なのだろうか。機会があったら奥さんに帰宅を伝えてもらうよう頼み、与えられた部屋に戻る。
 畳に身体を横たえていると、若い小姓たちが先の短い主人を見限って信一郎へ取り入る策を相談しているのが聞こえた。英国帰りの坊やが陰間に興じるようには思えないが、そんなことを言えば年寄りの妬みと蔑まれるのは分かりきっていた。
 この家の小姓たちはみな奉公代わりに主人に仕える。妙齢になれば自然家を出ていく者たちばかりだ。俺のようにいつまでも居座り家の者と馴れ馴れしく付き合う者は他にいない。主人の閨に呼ばれたとて話し相手を努めるのが関の山であった。
 畳に耳をつけて目を瞑っていると様々な足音が響いてくる。聞きなれない足音を響かせて誰か近付いてくる。襖の開く音がした。少年の高い声。
「悪いけど、ちょっと外してもらえる?」
 初めて聞く声は低く、昔聞いた声音を思い出すのが困難だった。
 少年たちが部屋を出て行く。メンドクサイ。眠ったふりをしようか。さらに襖の開く音がした。少年たちがいた部屋から俺の部屋へ入ってきたのだ。
「起きてんだろ」
 横柄な声に渋々起き上がる。駅で見かけた洋装の男が乱暴に襖を閉めてどっかり座る。ああ嫌だ。面倒だ。
「アンタ、まだこんなことやってんだな」
「ハハ…、長老部屋までもらっちゃった」
 信一郎は舌打ちして「アンタ、いくつになった?」と問うた。さぁ、と答える。実際、俺は年齢を数えるのはだいぶ前に止めていた。
「俺が十の時にはもう居たぜ」
「じゃあ何年?」
「知らねぇよ」
 信一郎はきつい眼差しを向けたまま少し黙り、俺のこと覚えてないだろ、と憎々しげに吐き捨てた。
「俺がこの家にいられなくなったのはアンタのせいだ」
「人のせいにすんなマセ餓鬼が」
 もう何年前になるのか、俺はまだ若く信一郎は幼さを残していた頃のことだ。主人に組み伏せられていた夜。主人の息遣いのほかに妙な気配を感じた。薄く開いた襖へ目をやると、好奇心に輝く片目が浮かんでいた。主人が気付いたら厄介だと思って目を逸らすが、少し遅かった。気付いた主人は立腹し、乱暴に襖を開けた。
 見つかった子供はやけに落ち着いていたが、主人はそうもいかなかった。我が子が己の情事を透き見して自涜に耽っていたのである。主人の怒鳴り声に、何事かと家の者が集まってきて大変な騒動になった。信一郎は親戚筋の家に預けられ、その後英国へ留学させられた。
 十四、五で家を出されたのは憐れと思うが、俺を憎むのはやはり筋違いだろう。
「今夜、俺の部屋へ来いよ」
「嫌だよ、面倒くさい」
「じゃあ俺がここへ来よう」
 迷惑だと言うと、信一郎は笑って「来いよ」と言う。昔に変わらず厄介な餓鬼だ。

 主人が帰宅してから相談してみようかと思ったが、いざ主人の嬉しそうな顔を見ると何も言えなくなった。自らの意思で家から出した息子とはいえ、可愛くて仕方ないのだろう。
 夜が来ても答えは出ないまま、隣の部屋に残った少年たちを思うと、信一郎がここへ来るのは不味いように思えた。重い腰を上げて部屋を出る。憂鬱が足の進みを鈍らせる。
 信一郎の部屋は急に誂えられたこともあり殺風景だった。文机のほかは敷かれた布団くらいしか目に入らない。「遅かったな」と言った信一郎は昼間見た洋装ではなく浴衣に着替えていた。
「こっち来いよ」
 信一郎の手が伸びて、手首をきつく掴まれる。引き寄せるように座らされる。信一郎の手の熱さが手首から伝ってくるようだ。
「アンタまだ親父に抱かれてんの?」
 蔑むような声音だ。しかしあの日以来、主人は俺を抱かなくなった。正確には、抱けなくなった。いざ事に及ぼうという段になると、あの日の息子の顔が目に浮かんでくるというのだ。それを言うと、信一郎は「ざまぁみろ」と言って笑った。
「じゃあアンタ、あの日からずっとヤってないの?」
 信一郎の掌が肩を押す。上体を布団に押し付けられ、口付けの距離に信一郎の顔がある。
「どうなんだよ」
 囁きのあとに唇が降ってくる。啄ばむように唇を吸われ、熱い舌が口内に滑り込んでくる。身体を押し返そうと信一郎の胸を押すが、抵抗は無視される。
 浴衣の裾から手を差し込んで肌蹴られる。すぐに気がすむだろうとノンビリしていたのが不味かった。信一郎の手が身体の上を撫ぜていく。
「ちょっ…! 待てって」
「待つかよ……」
 信一郎の指先が内ももを伝う。久しく感じていなかった性的な動きに身体が震え甘ったるい息が漏れる。信一郎の唇が首を吸い、胸元に下りていく。乳首に歯を立てられ思いがけず声が出た。
「……いいの?」
「んっ…も、止めろって……あっ」
 信一郎の手が俺のものを直に掴んで擦る。強引な手の動きに俺のものは取り返しがつかないほど反応し、液体を溢れさすのであった。
「観念しろよ」
 男の色気を滲ます声音が身体の奥に響いて火を点ける。浅ましい色欲が信一郎を求めている。
 身体の内側に信一郎の指が侵入してくる。久しく感じていなかった痛みに呻き声が零れた。
「痛い?」
「あ、あぁっ! やめっ…」
 指先が浅いところで出入りする。内側にある弱い部分を掠めていくたび身体が跳ねる。止めろ、もっとと滅裂な言葉が自然零れてその言葉の中から真実だけが俺をまた煽っていく。
 足を抱えられる。俺を見下ろす信一郎は誠実な顔をしている。嫌だと思う。真面目な顔をしてる奴ほど質が悪い。いらなくなったら捨てればいいのに、義理だなんだで飼い殺す。信一郎のツラは主人にそっくりだった。
「んっ…う、あぁっ……」
 深く入り込んでくる体積に身体が驚いている。信一郎に縋りつくと、信一郎の苦しげな吐息がまた俺を煽る。
「俺と親父、どっちがイイ?」
 そんな詰らないことを訊くんじゃないよ。口付けで言葉を塞ぐ。突き上げと舌の動きに呼吸を困難にさせる。歳を取ったつもりでいたが、こんなにもはしたない自分は一体なんだ。汗のにおいに情を燃やして信一郎に身体を擦り付ける。
 夏間近の夜はこんなに暑かったろうか。


 朝まだ日が昇らぬうちに部屋へ戻る。役目のなかった少年達がすうすう眠っているのを起こさぬようにそっと歩く。若くあどけない寝顔を見ていると、俺は早くこの家を出て行くのがいいのだろうと思えた。
 信一郎の体温がまだ肌に残っているようだ。
 今日中にでも主人に家を出て行く相談をしようと決めながら、冷たい布団の中に潜り込んだ。


(05.5.30)
置場