ミンミンゼミがミンミン鳴いている暑気。やる気は一切皆無。自室の畳の上にごろりと伸びてヤカマシイ暑さをしのごうと目を閉じている。暑さをしのごうとしている、のにも係わらずそれを察しないお坊ちゃんがひとり。俺の腿を枕に書を読んでいる。
「暑い」
 目を閉じたまま言う。返ってきたのは一言だけ。
「うるせぇ」
 大層な言いぐさだ。首根との接触面が汗で湿る。信一郎とて不快であろうに頁をめくりもせず書を眺めている。恐らく意地になっているだけだ。それなら、と俺も意地になって目を瞑る。口を閉ざす。
 ミンミンミンミン鳴いてらあ。日陰の部屋まで震わせて、七年ぶりの地上に生命を燃やしている。暑いから止せって。
 ぱたぱたと小走りに廊下を走る音がする。この暑い最中にも奥さんは忙しく走り回っている。廊下で行き会ったものに「信ちゃん見なかった?」と訪ねている。ここですよ。ここに居りますよ。何処へなりと引っ張っていってくださいな。当の信一郎は奥さんの声が聞こえたろうに身動ぎもせずにいる。
「……おい、行けよ」
 答えもせずに俺の足の上で寝返りを打つ。接触面が変わり今まで触れ合っていた部分に風を感じ一瞬清涼感を覚える。
 膝。から腿へ。掌が直に肌を撫でた。
「おいおいおい……、止せよ」
「親父に、出て行きたいって言ったんだってな」
 また随分唐突に話を持ってきたもんだ。そして掌は内腿を撫でている。
「言ったよ」
「親父はなんて?」
 信一郎が帰った翌日、俺は主人の部屋へ向かった。そろそろ俺も潮時じゃないかな、と遠回りに話を切り出すと主人はボンヤリした顔で何が? と言った。
「いや、この家に厄介になるのもね、そろそろ潮時じゃないかなって思うわけなんですけど」
「どこかアテはあるの?」
「いや、ないっすけど」
「じゃあ居たらいいじゃない」
「いやいや、男一人生きていこうと思ったらアテなんてなくとも」
「おまえにそんな器量はねぇだろう」
 そう言って主人は大らかに笑った。いやいやいや……と俺は小さくなる声を絶えさせまいと意味のない言葉を吐き続けた。結局、なにもできねえんだからウチに居ろという有り難いお言葉を頂戴し、ぐうの音も出ないほど俺の出来なさをあげつらわれ、俺は小さく肩をすぼめ「はい、有難うございます。これからもよろしくお願いします」と言って主人の部屋を後にした。
 話し終えると信一郎は主人に似た笑い声を発し「それもそうだなぁ」と言った。
「どうせ俺はツラが良いだけの男だよ」
「身体もなかなか」
「ハッ! それだけありゃあ充分生きていけるぜ」
「歳が行き過ぎてるぜ」
「年寄り相手におまえもよくやるよ」
 膝を割る手を押し止めると空いた手が腰に絡んでくる。近付いてくる顔にまばたきもせずにいると信一郎もまた目を閉じることなく唇を寄せられた。
 背を撫でる手が、夏着を肌蹴る手が、下腹に熱を生む。口内で舌先を絡めればなんとなしそんな気分も高まってくるが、居た堪れなさに引っ付いてくる身体を押した。
「こんな昼日中に暑苦しい」
「じゃあ日が沈んだら良いのかよ」
 軽口で答えようとして、言葉を見失った。
 信一郎の執着の正体が、俺には見える。性の目覚め、俺。初めてのひとり遊び、俺。その挙句いまだに俺相手に欲情しやがる。俺地獄。俺尽くし。嫌気が差す。そんな風に一心に向かってくる信一郎に悪い気がしない俺自身にも嫌気が差す。
 恐れている。信一郎にすべて委ねた後になって、信一郎が気付いてしまうのを。なあんだ、というそのさり気なくも残酷な言葉が出るのを恐れている。この家に暮らし続けた十数年のように何も考えることのない生活をこれから先も望んでいるのだ。
 奥さんが廊下を走る音が聞こえる。この部屋が静まり返っているからだ。
「行けよ」
「……じゃあ、今夜」
 思ったより素直に信一郎は部屋を出て行った。そのことに一抹の寂しさを感じていた。俺は欲が深い。
 なあんだ。その一言を受け入れる覚悟さえしておけば、その間、信一郎が俺に向かわなくなるその瞬間までは酔っていられるのだろうか。もう若くないのだ。ヤヤコシイことに頭を使いたくないのだ。自意識に潰されるようなことはゴメンだ。
 なんでもないような顔をして、なにも思わないような顔をして、ひとりきりになった部屋にごろりと伸びて夏の暑気をしのぐ。蝉の鳴く声もやがて消え失せる。



(06.2.10)
置場