月に叢雲



 秋の夜長、正確な刻限は知らぬ。締切った障子に明るさが行き交っている。月に叢雲花に風、なんて考えを秋虫の喧騒が掻き消していく。
「なあ」
 そっと忍び入るような声で信一郎が呼びかける。
「一緒に暮らさないか」
 俺は眠ったふりをした。
 信一郎がそれに気付いていたのかどうかは知らない。それ以上なにも言わず、俺の隣に寝そべって、やがて寝息が聞こえてきた。
 月に叢雲花に風。障子越しに皓々と照る月の前を横切る雲を見る。夏にあんなに喧しく鳴き喚いていた蝉もみな死に絶えた。今隆盛を誇る秋虫どももやがて死に絶える。盛りはいずれ衰えて、終わらないものなどなにもない。
 こんなことがいつまでも続くわけがないのだ。

 信一郎が見合いをしたのは三日前だ。
 帰郷してから主人の仕事を手伝っている信一郎だが、遠くないうちに東京へ出るのだという。仮住まいに伴侶を連れて、修行を終えたらまたこちらへ戻ってくるのだという。その時にはややこも一緒だろう。見合いといいつつ婚約のための顔合わせというのが正しい。
「おまえ、信一郎とはいつからだ」
 昼日中家中をぶらぶら歩いていると手招きする主人に呼ばれ、座について煎餅を齧って早々投げかけられた言葉に俺は息をのんだ。
「そんなんじゃありませんよ。話し相手になっているだけで……、他の小僧らに比べて話しやすいんでしょう」
「話し相手、へえ」
「なんすか」
「いや、信一郎がな、おまえを貰い受けたいって言うんでそういうことかと思ったんだがよ」
「いや、いや……、そんな、まさか」
「おまえが信一郎と、っていうのも俺ぁ正直面白くねぇし、おまえが誑し込むとも思えねぇ。信一郎のバカが治ってなかったのは親として頭が痛ぇが、おまえは道理が分からねぇバカとは思ってねぇんだ」
「はい、はい…あの、はい……」
「間違いがあったとして、間違わないでくれよ」
「はい、はい…それは、もちろん、はい」
 俺の返事を聞いているのかいないのか、主人は煎餅を齧ると気候の話や将棋の話に移ろっていった。俺は気が気でなかった。
 あの時、主人が信一郎を家から追い出したのはなにも俺に対する執着が理由ではなかった。信一郎が俺に懸想するのを恐れていたのは間違いないだろうが、それは我が子可愛さゆえだった。可愛い我が子が俺のようなものに誑かされて道を間違うのを恐れていたのだ。それは正しいことだと思う。
 信一郎は嫁を貰い東京へ行く。そこへ俺がついていくことがどれほどおかしなことか、バカであっても分かる。そんな馬鹿な提案を信一郎が主人にしていたことに苛立ちを覚える。しかし、腹のうちに苛立ち以外の動揺もあるのだ。それが俺には腹立たしい。
 この家のおかしな仕組みは奥さんの諦めと主人の多情の上に成り立っている。誰彼かまわず手を出す主人に奥さんが折れた形だ。もしこれが特定の一人となったら奥さんも認めていなかっただろう。それが道理だ。
 主人の部屋を辞した後、俺は一人で考えていた。どうすればなにもかも上手くいくのだろうか。考え尽くしても、感情が邪魔をした。柄にもない。俺はなにも考えず流れのままに生きていきたいのだ。先のことなど知らん。他人の人生など負いきれぬ。
 結局のところ、俺の恐れは主人のそれと同じだった。前途ある若者の人生を歪めてしまった後ろめたさから逃げたかった。ただ単純に、それだけならまだしも、俺にはそれ以外の感情がある。だから余計に八方塞がるのだ。
 堂々巡りを断ち切って、自室でごろ寝する。頭の中がこんがらがるのも眠たいせいだろう。眠たさの理由をふと思い出して、馬鹿馬鹿しい、なにも考えないように目を瞑る。だから俺はいつまで経ってもバカなんだ。

 夜、屋敷中が寝静まるなか廊下を渡る。約束をしたわけでもなく習慣になった逢瀬に自然足音を忍ばせる。
 ふすまからかすかに灯りが漏れる信一郎の部屋を目指す。
「遅かったな。……どうした、神妙な顔して」
「おまえ、どういうつもりなんだ」
「親父に聞いたか」
「親父の男妾を貰って嫁をとるなんて話、聞いたことないぜ」
「俺もない。……まぁ、どうにでもならぁ」
「なるか。おまえがそこまでバカだとは思わなかった」
「なら嫁を貰うのをよそうか」
「バカをいえ」
 主人にももちろんだが、俺はこの家に大恩ある身だ。俺のために家を絶えさせるわけにはいかない。
「なにをそんなに怒ることがある。親父だってやってることじゃないか」
「あの人は俺だけじゃない。誰彼かまわずなんだ」
「なら俺も誰彼かまわず囲えばいいのか」
「ふざけるな」
「まだ、親父に惚れてるのか」
 突然真顔でそんなことを言うから思わずポカンと気が抜けた。
「あの人とはもうそんなんじゃねぇよ」
「そうか?」
「えっ、あっ……!」
 腕を引かれ信一郎の胸に抱かれた。いきなりのことで驚いてる間に浴衣の上に熱い手が這い回る。背を、尻を撫でまわす手に昨夜の性感を呼び起こされて肌が粟立つ。
「俺に抱かれて誰を思い出してた?」
 耳朶に触れんばかりに近付いた唇は熱い吐息とともに俺を地獄に落とすようなことを言う。
 確かに信一郎は主人によく似ていた。子供の頃よりもずっと、顔も声も仕草までもよく似ている。主人に対して最早未練はないが、俺に色事のいろはをすべて教え込んだのは主人なのだ、信一郎の中にその影を見出さないわけにはいかなかった。
「どうしてあんただったんだろうな」
 言葉を失った俺を抱きしめたまま信一郎は搾り出すように呟いた。
「どうしてあんたは親父のイロで、俺は親父の息子なんだろうな。どうして違う出会い方ができなかったんだろう。俺ぁずっと、あの時よりずっと前からあんたのことが」
 身体を震わせ、涙をこらえるような声がした。
「泣くなよ」
 背を撫でると信一郎は顔を埋めたまま、俺の肩を濡らした。
「どうにもならねぇんだ。仕方ない」
 仕方ない、と信一郎の背を宥めながら、俺自身に言い聞かせているようだと思った。仕方ない。どうしようもない。俺たちはどうにも雁字搦めで行くも戻るもできなくなっているのだ。不自由にしている糸を断ち切るほか方法がない。
 部屋中すすり泣きと秋虫の鳴く声だけになる。俺はずっと信一郎の背を撫でていた。このまま朝になっても、百年過ぎてもいいような気がした。
 月に叢雲花に風。おまえの人生に俺は必要ないものだ。俺は誰かの余興のために生きていて、それ以外できなくて、それでよくて、なんにも考えずポカンとバカのように口を開けて生きていければそれでいいのだ。誰かの人生を、おまえの人生を、台無しにしたくない。
 本当は――。
 不意に口をついて出そうになった言葉を飲み込む。障子の上を流れる雲が影を作る。俺の本当なんてどうでもいいんだ。今、腕の中にある信一郎のぬくもりだけが全部だった。
 鼻筋を通っていく涙の気配を押し殺し、俺はきつく信一郎を抱き締めた。




(14.11.5)
置場