耳の中でガンガン音が聞こえてくる。夜、寝入り端にガンガンと、鉄製の扉を叩く音が、頭の中から聞こえてくる。
 両耳を掌で押さえて、逃げようとするのに音は止まない。ああ、うるせぇな。玄関の鍵は開いている。勝手に入ってくればいい。入ってこいよ。うるせぇんだよ。おまえの好きにすればいい。
 あわいを彷徨って知らぬうち、夜だか朝だか分からぬ時間になっている。目覚まし時計の騒音に驚いて、朝か、と呟く。少しは眠れたのだろうか。眠った気はしないが、しかし、朝に驚いたのだから眠っていたのだろう。

 朝日が目の中に入り込んで視界を狭める。目を細めて遣り過ごすが、いまいち対策になっていない。明るく白んだ眼前に、誰がいようと気付きはしない。カッと脳天に空白が生まれて眩む。大丈夫ですか、という声。大丈夫と答える。そのまま道を真っ直ぐ進んでいく。
 ふらふら歩いて、しばらくして、有難うと言っておけば良かったと後悔する。戻ろうか。今更?
 空中に頭を置いたまま、時間の感覚が希薄になっていた。かけた時間のわりに仕事が片付いてない。嫌になる。いい歳して夜の悪夢を引き摺ってんじゃねぇよ。ああ、だるいしんどいこわいねむい。
 外に出るのが億劫で、社食で簡単に昼飯をすまそうと思う。声をかけると散り散りの応答が返ってきてそのままデスクを離れる。
 冷やしうどんを半分食べて嫌になる。眼鏡を外し、掌に頭を乗せる。まぶたから眼球に向けて熱が伝わってくる。熱い。しばらくそうしている。
「大丈夫ですか」
 朝と同じ声がして、顔を上げ眼鏡をかける。大丈夫、と言う前に声の主を認識して、ためらう。
「夏バテですか」
 水島は向かいの席に腰を下ろし、今日の定食を乗せた盆を置いた。そぞろに頷くと、水島は今日の暑さと近頃の異常気象を語りつつ上手に割箸を割った。
「新しい部署はどうですか」
「営業よりは向いてるみたいだな」
 冗談めかして言ったものの、水島が曖昧な顔をしたので問題ないよと真面目な顔で続けた。
 元々、人事の嫌がらせとしか思えない配置だった。入社して間もない水島にもあっさり成績を抜かれ、上司の嫌味も上手くかわせなかった。けれど、今になって思えば、仕事に悩んでる間はあの忌まわしい幻聴に悩まされることはなかったのだ。毎日泥のように眠り、余計なことを考える暇はなかった。平穏のバランスはどうして保たれないのだろう。
「食べた方がいいですよ」
 端に寄せたうどんを見ながら水島は言う。箸でうどんをすくうが、口まで持っていく気になれない。
「大丈夫ですか」
 また言う。大丈夫だと答え、席を離れた。

 あの夜、殺されるかと思った。殺されたいと思った。
 男は首を絞める手を緩めようとせず、飽くことなく腰を使い続けた。朦朧とした頭の中で、間違い探しをし続けた。
「馬鹿にしてんのか」
 言いながら、男は泣いていた。繰り返し、俺のこと馬鹿にしてんだろうと、泣きながら、複雑な殺意を向けてきた。揺すられながら、己が男を馬鹿にしてきたのだ、と思いあたった。
 男の劣等感を育み、刺激してきたのは自分なのだと、ようやく気付いた。
 新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだとき、言うべき言葉があったのだ。男は部屋を出て行き、それきり行方を暗ました。

 仕事を終え退社する時に水島と行き会った。上手い飯屋を知っていると屈託なく笑うので付き合う。
 水島の旺盛な食欲に驚きつつアルコールで飯を流す。水島の話に相槌を打ち、身体に染み渡っていくアルコールを心地好く思う。
「俺、心配なんですよ」
 文脈は把握できなかったが、水島が真っ直ぐに視線を向けてくるので自分のことを言われているのだと分かった。
「もっと自分を大切にしてくださいよ」
 目付きの具合から、水島も酔っているのだと気付いた。はいはい、と好い加減にいなすと子供がぐずるように「だから」と声を荒げた。
「そうやって一人きりになろうとするとこがですねぇ、良くないんです」
 水島の言葉の意味を考える。水島は真面目な顔をしている。「俺じゃあんたのこと理解できないって思ってんの?」そう言った、男の顔を思い出す。
「おまえ、俺の弟に似てるよ」
 言うと、水島はキョトンとした顔をして「はぐらかさないで下さいよ」と言って少し怒った。
「はぐらしてない。顔がよく似てる」
 グラスの下に札をはさんで席を立つ。待ってくださいよ、と水島が声を上げる。上げただけで、追ってはこない。

 家へ帰り冷えた布団の上に身を投げる。身体を丸く縮こめて目を閉じる。眠りの隙間から扉を叩く音がする。聴覚があの夜の始まりを再現する。
 ガンガンと不愉快な音が耳の中で繰り返される。叩くのを止めて入ってこい。鍵はずっと開いてんだよ。



(05.7.1)
置場