明方の薄明るい空にカラスの黒い羽の色が映える。地上でゴミを突付くものたちを何ということもなく眺めていると、キッと威嚇してきたのでそっと目線を外す。山鳩の鳴き声が頭を狂わすように同じリズムで響いてくる。
倒れるような足取りでアパートになだれ込んでベッドの上に沈む。安物のスプリングが悲鳴を上げた。携帯電話のディスプレイで時間を見る。明るさに目が痛む。
くだらない奴がくだらないまま社会に出てつまんない毎日を送っている。ダラダラ続けてどれだけ歳を取った? 分からない。もう、どうだっていい。
テレビを点ける。爽やかな前奏が段々フェードアウトしていく。「おはようございます」とアナウンサーが言う。横目で眺めた画面の中には髪もスーツもキッチリ整えた若いアナウンサー。テレビに背を向けて今日一番のニュースを聞く。単調な濁りのない発音は落ち着いた声音によって引き立てられる。枕に額を擦り付けて眠る。
バイト先の休憩室で頬杖ついて煙草を吸う。煙は換気扇へ向かって流れて行く。テレビから聞こえてくる声にまどろみを促されながら、まぶたを閉じた。
「あれっ、仲原さん一人ですか?」
突然ふってわいた声に驚いてまぶたを開ける。左手に持った煙草から灰が落ちる。大丈夫ですかーと笑う声が続いた。ちょっと慌てた。
バイトの高校生、小林は手に菓子パンを持って休憩室の扉を閉めた。夕飯それだけ? と問うと家に帰ったらまた食うんすよと言って笑った。
「チャンネル替えて良いですか」
「いいよ」
ザッピングして面白そうな番組を探していたが、時間が中途半端なのかどこもワイドショーじみたニュースかグルメと旅の特集だった。小林は結局もとの局に戻しテレビ画面を見ることなく菓子パンの袋を開けた。
「仲原さんて案外大人ですよね」
「なんだよ案外って」
「いっつもニュース観てません?」
「そうでもねぇよ」
「俺、芸能くらいしか観ないっすよ」
菓子パンを頬張り、小林は横目でテレビ画面を眺める。ニュースは淡々と、粛々と進んでいく。
「まぁ、大人だから」
言うと小林は屈託なく笑った。そりゃそうだ。大人だなんて大きな声で言えるほど大層な人間でもない。小林の笑顔に嘲笑の影は窺えなかったけれど、屈託のない笑いは余計に胸に引っかかった。
二十二時にバイトを上がったら次のバイト先へ向かう。
「ムチャクチャっすね」
別れ際に小林は感心したような口振りで言った。素直な性格なのだろう。思ったことをそのまま口にする。若さ故? なのだろうか。眩しいような健やかさを羨ましいと思った。
「おまえだって高校終わってから来てんだろ? 一緒だよ」
言うと、小林は「全然違いますよ」と笑った。頑張って下さいと言って自転車を押す背中を見送り駅へ向かう。
頑張ってるとかスゴイとか、言われるほどに居心地悪い思いをする。オマエよりは、と言えるような人間に限ってそんなことは言わないのだ。誠実に生きている、褒められるのに足るだけの人間ばかりが労うのだ。だから言葉を失くす。
本当は、理由があって始めたはずの生活に嫌気がさして、理由を忘れ、ワケ分かんないまま惰性で続けているだけだ。
しかし、あなた達が思うほど立派な人間ではありませんと否定するのも惜しく、曖昧に苦労を背負った風を演じていたい気持ちがあるのだ。真人間に肯定されるくすぐったさと後ろめたさに酔っているのだ。
朝、おまえは少しくすんだ顔でまっすぐの眼差しを向けている。高校時代の面影が画面の中の禁欲的な姿を余計に淫靡なものにする。十七八の頃からおちゃらけてても誠実な奴だった。笑い顔の明るい、まっすぐな奴だった。今、真面目な顔して国際情勢を淡々と語る様子がおかしい。正しい発音と発声で己の意見を交えることなく事実だけを伝える。その声を聞きながら眠る。
カーテンの隙間から差し込む朝日がまぶたの上に揺れている。高校時代、窓際の席でおまえの読む英文を子守唄にしていたのを思い出す。卒業後の進路なんて知らなかったけれど、テレビの画面の中に偶然おまえを見つけてから日常になってしまった。
何も入り込む余地のない、何にもなかった日常に、おまえだけが入り込んでしまった。不本意だ。堪らない。関係のない世の中の喜怒哀楽を伝えてくる。うるさいな。手が届かないものはこれ以上いらないんだよ。カラスと山鳩の鳴き声とおまえの声音が混ざり合って頭の中で気持ち悪く反響している。
薄汚れたやり方で熱を放出して自己嫌悪に浸る。そういうナルシシズムがまた嫌で仕方ない。なんにも掴めないのは俺の手が汚れきっているからだ。おまえに叱られたい。
目の中にある影が疎ましい。消えないでやたら精巧な妄想をつくる。高校時代に言えなかったこと、言わなかったことが溢れ出して頭の中で物語をつくる。ありもしない記憶を捏造する気なのか。
時間ばかりが怠惰に過ぎた。若さも情熱も失った。俺が変わったようにおまえも変わったのだろう。なのに何も変わっていない気がするのは何故だ。
おまえとの距離は昔のままだ。十七八の時分からテレビの画面を眺めるように見てきた。一方的に、見ていただけだ。まっすぐな視線は俺を捉えているわけではない。
終わりの挨拶をして薄っすら微笑む。そこはおまえにピッタリの居場所だよ。届きもしない。だから、俺はもう寝る。