ケガレ


 生まれは美しく、とせめて言えたなら、まだしも。汚れた血のさだめと噛み潰した苦虫。売笑の業。右腕に刺した墨はまだ完成には遠く、これが成ったらきっと俺は新しい俺に変わることができると枯葉のごとき脆さで信じている。
 路地の片隅で伸びた襟足を削ぎ落とし、首の薄皮の上をナイフが滑る心地に瞬間肝を冷やす。落とした髪の束を払って、痛みの死の予感に覚えた恐怖に気付かないふりをする。
 ミツ、と呼ぶ声に振り返る。甘くよく通る声の主は決まっている。俺の腕に喜々と墨を刺す彫師だった。
「なんだ、切っちまったのか」
 落ちた毛束を見、また俺の襟足の不恰好なのを見て言った。
「みっともなかったろ」
 そうかな、と彫師カケルが呟くのを無視して自分一人では遣り辛い部分を削いでくれるよう頼む。
「ウチに来いよ。鋏あるし」
「良いんだよ適当で」
 ナイフを渡し後ろを向いて俯くと、カケルは溜息を吐きつつ襟足を削ぎ始める。顔見知りが通り過ぎざま冷やかしていくのを一々応える。カケルは若いが名うての彫師だった。
「なあ、ウチ来いよ。どうせ道ッ端で寝るんだろ」
「いいや、今日はホテルのスィートだ」
「なんだ、客が入ってるのか」
「おう、悪いな。……っ」
 首にチリッとした痛みが走った。わりぃ、と笑いながらカケルは言う。こういうガキじみたことを平気でするのだ。頭を上げようとした矢先、後頭部をきつく押さえつけられる。生温く湿った軟体が傷の上を通り過ぎた。舌だ。舐めたり吸ったりした後で、それは音を立てて離れていった。
「……ふざけんなよ」
「舐めといてやったんだ」
 悪びれもせず言う。仕事が開けたらすぐに来いよ、と勝手を言ってカケルは手にまとわりついた毛を払う。ぶらぶらと無気力に歩く背中と反対の方向へ俺は歩き出す。
 右腕に刺している未完成の墨。その代価は金ではなく愛撫だった。俺の生業を考えれば妥当なのだろうか。染み付いたやり方で男の性を満たしてやる。開いた腿にも墨を入れようか、という悪趣味に鼻で笑う。普段はまともなのに、カケルは時々バカを言う。それが全部マクラゴトの上だけで言われるから俺は益々つまらなく思う。
 手付きも言葉も茶化したもので、俺はまともなカケルでさえ心の底で俺を汚いと思っているのだと分かっていた。

 お高いホテルのスィートルーム。扉を開いたらすぐに犬のように這う。客は二人組み。質の良いスーツを着ていた。エナメルのように輝く革の靴。爪先に忠誠を誓わされる。形だけのごっこだ。バカらしいことが好きなんだろう。
 一人は俺が犬のように扱われるのを黙って見ていた。見ながら笑っていた。ムチャクチャなことがムチャクチャに続いていた。目が回る。
 ずっと眺めていた一人が、俺がされたように自分にしてくれと言い跪いた。さっきまで飼い主然としていた男の顔色を窺うとニヤニヤと笑っているばかりだ。言われたようにすれば悦に入った鳴き声を上げて、四十絡みの男は陶酔する。刺しながら刺されて、俺はこのバカらしい遊びに辟易していた。
 犬と飼い主と両方やらされる。上流階級のワイシャツさんはそうでもしないとセックスもできないらしい。二人だけで完結した関係に無理やり介在させられて、俺は一晩中二人の言い訳になる。
 つまらない遊びにウンザリして、でも顔には出さないで、金を貰って朝帰る。始発を目処に部屋を出て行く。残された二人はもう言い訳の必要がなくなったのか、またしょうもない遊びを始めている。

 まだ日の昇らないうちにカケルの家の戸を叩く。不機嫌が顔を出す。
「……さっき寝たばっかなんだよ」
 小言を言いつつ俺を部屋に招き入れる。ストーブをつけてすぐに俺の服を脱がし出す。まだ寒い部屋で鳥肌が立った。
「傷だらけ」
「もう若くねぇし」
「花の命は短いって?」
「男だしね」
「……どうする? 腕やる? セックスする? 寝る?」
 どうでもいいと答えたら肌を撫でられた。一晩中いじくられた身体は冷たい指先にもすぐに反応した。ベッドに腰を下ろしたカケルの膝を割って口を寄せる。商売気の抜けない舌の動きをカケルは蔑む。それでも勃起してんだからしょうもない。
 メンドクセーメンドクセーと内心思いながらやっていると顔に出ているとカケルは苦笑した。一回果てるともういいよと言って俺の腕を引きベッドの中で身体を抱いた。
 カーテンの隙間から薄ら明るくなっていく窓が覗いている。
 昼過ぎに起き出したカケルにつられて起きる。飯を食った後に作業場へ移って墨の続きをやった。直截な痛みは苦行のようで、終わった後の想像を過剰に美しくする。
「知ってるか」
 とカケルは言う。墨は元々罪人に入れるものだ、と。
「ばあさんの代から淫売なんだ、ピッタリじゃねぇか」
「辞めたいんだろ」
 何気ない風に言われて、何故か気持ちが弱くなる。辞めるよ、と返した答えが思いがけず小さな声だった。ふうん、と返ってきた吐息に頼りたい気持ちまで見透かされているのではないかと怖くなる。俺にできることといったらコレだけで、他になにもないのだ。腕の墨が完成したら、俺は全部捨てる。その決意だけでやってきたのだ。
 生まれは美しく、とせめて言えたなら、新しい生活へ迷いもなく踏み出して行けるのだろう。母は俺をキッカケにしようとして、結局なにも新しいことは始められなかった。買われなくなるまで売り続け、店仕舞いと同時に俺が売り物になった。
 そういうバカな母親の血以外に知らないから、俺はいつも頼りなく思う。色を売る以外の自分を恥ずかしく思う。それでも、それでも、と縋りついている希望はカケルの刺す墨に依っている。
 死ぬのを人一倍恐れていて、なのにダメだったときの手段は死ぬ以外にないと考えている。死にたくないという願望と諦念はどちらが強いか。恐らく、諦めが勝つ。そういう性根だと自分を諦めてしまう。自らへの期待は儚いから、右腕の墨に縋りたいのだ。
「もし」
 カケルは右腕の墨を真剣な眼差しで見詰める。おまえが真剣に、人生をかけて取り組む仕事にあやかりたい。天職と対峙する人間の美しさを俺はカケルから教わったのだ。
「仕事が見つかんなかったら弟子にしてやるよ」
「……やだよ」
 軽口で答えながら、俺は泣いていた。こんなことで泣くのは止せと頭の奥から自嘲が起こる。しかし、カケルのなんでもないような言葉遣いは心地好く、甘えたいと弱い心が表れてくる。カケルならば、それなりに甘やかしてくれるだろうという打算もあった。
 しかしダメなのだ。俺のケガレが漱がれるまでは、まだ、いけない。育ちの惨憺をくつがえし、俺はひとりきりで立っていかなければならないのだ。右腕の墨が成ったら俺は汚れた人生を一からやり直すのだ。あんたみたいに。



(05.12.29)
置場