正体の分からぬものは、なんだって怖い。
 子供の頃から人一倍臆病で、怖いものばかりだったのだ。だから、西川は恐怖の正体を暴いていく癖をつけた。分からないことは調べ、辻褄を合わせることで恐怖を薄めていった。
 なんてことはないのだ。人間相手なら尚更、自分に向けられる感情を見誤らなければ攻略できる。恐れることはないのだ。
 帰宅して、誰もいない部屋に向かって「ただいま」を言う。何処に仕掛けられているかも分からぬ盗聴器に向かって、西川は呼びかける。聞いているかどうかも分からず、決して返事をしない相手に向かって、毎日呼びかける。
「吉本、……もう寝てるかな」
 あの夜以来、西川はあてもなく独り言を続けていた。もう動物を殺すのは止せ、と言ったのが効いたのか、玄関前に憐れな骸を置かれることはなくなった。それだけでも西川の心は随分晴れたものだった。

「おまえのことを許す気はないが、憎みたくもないんだよ」

 寝際に零した本音が吉本に伝わったかどうか、西川に知る術はない。けれど、伝わらなくても良いと思っていた。青白い顔をした若者を救えるとも考えてもいなかった。結果を望まず西川は呼びかけ続けた。自分に出来る生産的な行為はこれくらいだろうと思っていたのだ。
 しばらくそんなことを続けていると、答えは意外な形で示され始めた。
 帰宅すると、家の中の様子が違うのだった。玄関の鍵はかかっていた。ベランダの窓の鍵は開いていた。しかし、それが開けられたものか施錠し忘れただけか判断に迷う所だった。
 物取りかどうか確かめるために部屋中点検して、西川は悟った。吉本だ。吉本が入り込んだのだ。溜まっていた洗濯物を片付けて、部屋の掃除をしていったのだ。不器用な男なりの誠意の表し方なのだろうか。西川は少し考え、ありがとうと言った。無音の部屋に声が響いて居心地悪い気がした。
 夜、布団に潜り込むと日向のにおいが鼻を抜けていった。布団まで干してくれたのかと驚き、西川はまた、ありがとうと言った。この関係がどこに帰着するのか、西川には分からなかった。恐らくは吉本もそうなのだろう。
 翌日、西川はリビングのテーブルの上に合鍵を置いて出た。ファックス用紙に「戸締りよろしく」と書いた上に乗せた鍵は、帰宅するとなくなっていた。自分で書いた文字の下に弱い筆跡で「無用心ですね」と書かれてあって西川は笑った。
「鍵なんてなくても入ってくるじゃないか」

 しばらく文通が続いた。三日経って西川はノートを買ってきて、交換日記の様相を呈しはじめた。吉本は疑っているのか、西川が三行四行書くのに対し、一行だったり一言だけだったりする素気ない返事を書いた。それでも、一方的に語りかけるばかりだった西川にとっては充分に満足できるものだった。
「今度ゆっくり話しをしよう」
 それに対する返事はなかった。

 残業終わりに帰宅すると、部屋の鍵は開いていた。驚くと同時に緊張して、西川はゆっくり扉を開けた。
 暗闇に、吉本が立っていた。
 瞬間的に心臓が跳ねた。今まで一方的な交流だけを図ってきたせいか、いざ吉本を目の前にすると言葉が浮かんでこなかった。電気を点けると吉本は少しまぶしそうに目をすがめ、おかえりなさいと笑った。
「怖いんですか?」
「怖いよ」
「ぼくも怖い」
 二人してチグハグな笑いを浮かべ、西川はグラスを二つ用意してビールを勧める。吉本は戸惑うようにグラスを受け取り遠慮がちにビールを嚥下した。
 話をしよう、と言っておきながら吉本を前にして西川は言葉を失っていた。間を持て余してアルコールを間断なく身体に満たしていく。
 酒が足りないと思って焼酎を取りに立つ。よろけた身体を引き止めるように、吉本の手が腕を掴んだ。それだけだったが、西川の身体はみっともないほど過剰に拒否を示した。
 振り払われた掌を持て余すように開閉させて、吉本は苦笑を浮かべた。
「そんなに怖がってるくせに、どうしてぼくを懐に入れようとするんですか」
 吉本の目が不穏に暗く輝き、西川は再度腕を掴まれた。今度は強く、簡単には振りほどけないように握られる。吉本の熱い手の温度に、西川は嫌悪感とは違う感情が沸き起こるのを感じた。
「あんたズルイな」
 小さく呟いて吉本は手を離した。あっけなさに西川は戸惑い、俯いた吉本を見詰めた。
「……なんですか? また犯してほしいんですか」
 そんな訳はない。頭の中では否定が先立つ。けれど感情はどうだ。西川はただ黙ったままでいた。沈黙は肯定を表してしまう、と分かっていた。だが西川には発する言葉がなかった。
 吉本の顔が近付いてくる。合わせられた唇が震えていた。西川は動かないでいた。
「被害者でいたいんだろ……、バカだ、ぼくは何を……」
 吉本は俯いて右の掌で顔を覆った。震えた声はもう言葉を作らなかった。
 力なく垂れ下がった左手首を取った。怯えたように強張るのを無視して西川は手を引く。不審がる吉本に構わず連れて行く。先は寝室だ。
「おまえだって、加害者でいたいんだろ」
「……」
「続き、やろ」

 日向のにおいのする布団は二人分の体重も柔らかく受け止めた。西川はベッドに座り戸惑いをあらわにする吉本の眉間を見詰めた。二人で座り込んだまま。薄暗い部屋では沈黙が淫靡な空気を作り上げる。
 西川が腕を引くと、吉本は怯えを目に浮かべ、泣き出しそうな頼りない顔をした。
「なぁ、もう止めよう」
「……」
「被害者とか加害者とか、一回なしにしよう」
「……あんた、バカだ」
「知ってるよ」
 合わせた唇の隙間を厭うように深くする。互いの舌を取り合う最中、西川は男相手の違和感を覚えていた。第一、こうすることが一番の解決法だとも思えない。許す、許さないの考えを忘れていた。西川はただ目の前の男に欲情していたのだ。
 壊れ物を扱うように恐る恐る、繊細に肌を撫でる吉本の冷たい指先に己の浅墓さを責めるよりも先に夢中になる。自分以上に自分の身体を大事に扱う手先が堪らなく愛しく思えるのだ。
 絆されているのだろうか。目を瞑り触覚だけに意識を合わせ西川は考える。過ぎたことよりも、今。憂いすら感じさせる吉本の眼差しだけがすべてだった。
 首筋に顔を埋める吉本の髪がくすぐったくて、西川は首を反らした。すると唇と舌が一箇所を丹念に探りだすのだ。薄っすらと白い筋が残る、そこは以前吉本が切り付けた場所だった。
 水気をはらんだ音が立つほど嬲られて、痛みのない傷痕はジンジンと熱を持っていく。吉本の掌は絶えず西川の身体を弄っている。手懐けられるのはこういう感覚なのだろうと思っていた。西川は吉本に身をゆだねている自分に気付いていた。身体中の力が抜け、与えられる刺激に繕いも何もなく熱ばんだ息を漏らしている。ゆっくりとしたまばたきは性感を煽られるたびきつく閉じられた。
 吉本の熱心な愛撫に昂り、先端からは先走りが溢れてくる。荒々しさのない手付きは焦れるほどで、西川の身体は知らぬうち求める動きをしていた。みだらに泳ぐ腰を押さえつけられると背がしなる。吉本は西川の限界をはぐらかすように手と舌の動きを温いものにする。
「うっ…く、…はッ、早く…!」
「なんですか」
「はっ…あ……く、れよ」
 穏やかな快楽は積み重なって、いつのまにか西川を震えるほどの限界へ追い込んでいた。先から零れる液体を吉本の舌が舐め取るたびに羞恥と直接の刺激が走る。
「もうちょっと続けていたいんですよ」
 微笑んで、吉本が言う。
「メロメロになってる西川さん、可愛いから」
「アホかッ…、つ、続きは、今度にしてくれ」
 体勢を変えて舌はそのまま窄まりへ移動し、指と舌とで解される。慎重なやり方に痛みは起こらなかったが、入り込んでくる苦しさはあった。吉本の指が内壁を擦るたび、前立腺を弄るたびに吐息は甘い声になり、そこを無意識に締め付けていた。身体の芯から刺激に陶酔し西川は目に涙を浮かべながら欲しいと強請った。
 開かれる。良いんですか、と今更なことを言う吉本の頭を引き寄せて西川は無理やり口付ける。
「もういいって」
 すべてが慎重に行われた。押し込むのも、引き抜くのも。傷つけまいとする吉本の気遣いは西川を余計に煽った。時間をかけて中を擦られるせいで脈打つのが感じられ、堪らないような恥ずかしさと愛しさが込み上げてくる。西川は吉本の背に手を回しきつく抱き締めた。

「明日、七時に起こして」
 終えてからも引っ付きあって、西川は半分眠りながら言った。吉本は妙に身体を強張らせながら居心地悪そうに頷き、西川に呼びかけた。
「西川さん……」
 声は弱々しく頼りないものだった。西川はとろりとした目のまま吉本の頭を撫でる。吉本の泣き出しそうな目から涙が落ちた。目の前の懺悔の兆しに内心うろたえていたのは西川だった。
「一杯、あるんです……言い訳なら」
「うん」
 用意してきただろう言葉は山のようにあったのだろう。しかし吉本は言いよどみ、ただ謝罪の言葉だけ繰り返した。
 西川は思い出す。保身のための言い訳もできず俯いて謝罪する真新しいスーツを着込んだ吉本の姿を。その後、自分は何と言ったろうか。どんな言葉で吉本を追い詰めていったのだろうか。考えても思い出せず、西川は吉本の頭を抱いた。
「恥ずかしかったんだ。あなたの前で失敗ばかりしていた」
 胸の中でか細い声を出す吉本の背中を撫でて、西川は自分の言うべき言葉を探す。何が正解か分かりはしなかった。
「ゆっくりやってこ。言いたいこと、全部言えばいい」
 でも今夜は寝かせて、とおどけて、西川は吉本の涙を舐めた。素肌を合わせたまま更けていく夜に目を閉ざす。明日の朝、二人で目覚めることから始めていこう。互いの体温で温まる布団の中で西川は吉本の呼吸が整うのを確認してから眠った。



(06.1.10) 置場