飛んでってイスタンブール辺りで情死志願(まりこのために12月)


 そういうわけで情死志願。どこということもなくイスタンブール辺りへ行きたいね、なんて話をしていたわけだ。ベタベタする足の間も構わずに、裸のままでうなだれていた。二人揃って目も見合さず、まりこのために、というそれだけの理由で死にたがっていた。
 まりこのために。それは恐らく嘘だった。閉塞した状況に疲れ果てていた。疲れ果てた挙句セックスまでして、二人して泥のように笑っている。

 まりこは今年で四十になる。四十になってもまだ子供を欲しがった。私は自分の子種が女の腹の中で育つことだけを一番に恐れていた。
「俺の遺伝子は汚れてる」
 なんて格好つけて言ったところでまりこは納得しない。冗談で誤魔化しながら、私は自分の血が次へ繋がるのだけは何より阻止したかった。
 行為があるたび避妊について揉めるので、私はまりこと布団を分けた。まりこが子を孕みたがる訳を私は知っていた。まりこの不幸な青春時代がまりこにドラマのような幸せな家庭を作らせたがるのだ。それについては不憫に思う。けれど今更。
 今更という気持ちが強いのである。二十年近く貫いてきた私のただ一つの信念を、今更どう変えることができようか。五年前からまりこには諦めろ、諦めきれぬなら離婚も受け入れる、と唱え続けてきた。五年間、まりこは嫌だと言い続けた。二人して疲弊していた。愛情がすれ違っていた。
 そんな折にタカシが現れたのだ。タカシはまりこを孕ませたがった。孕みたい女と孕ませたい男、二人いて、姦通して、答えは自ずと出るものだとばかり思っていた。まりこには以前から私の離婚の決意を伝えてあったし、タカシの出現に驚いたものの、まりこのためにはそれが幸せなのだろうと思えばごねる気もなかった。
 しかしまりこはタカシの子種を拒絶する。セックスしているくせに! と私は内心では苛立っていた。私たちは三人で話し合う愚行はしなかったが、それぞれが一対一向き合って泣いたり叫んだり黙り込んだりとドラマチックに空疎な会話に励んでいた。すり合わせがうまく行くはずがなかった。簡単に済むはずの話がこじれて三人揃って意固地になって、どうにもならぬという地平まできてまず私が逃げ出した。

 タカシと同じ年頃で私はまりこと結婚した。出会ったのはそれより前だった。その頃私は社会に馴染むことなくふわふわと頼りない生活をしていた。まともな仕事はどれも肌に合わず、気付けば日陰へ日陰へ向かっていた。まりこと出会ったのは薄汚れた町の片隅に立つ小屋だった。そこでまりこは性器を晒して戸口をしのいでいた。私はその小屋の下働きで、まりこが登るステージの照明をしていた。
 小汚いステージ。まりこの花電車。客の無味乾燥な肌質。濁った目。赤青黄色のライトが熱く、まりこの肌をビニールのように照らしている。その時私はまりこが可哀相で、また己が惨めで、小屋の影でひとり泣いた。
 まりこを連れて最下層の生活を抜け出した今も、まりこに対する愛情は疑っていない。けれど、私はまりこが思っている以上に自分自身を倦んでいる。

 私を最初に見つけたのはタカシだった。タカシも最後に見たよりやつれていた。私たちはこの問題に向き合うようになってみな不健康な顔色になっていた。私を見つけてタカシが一番に言ったのはまりこの今の状況だった。酷く参っているという。
「それはあんたも変わらないみたいだな」
 そう言うタカシの顔色も青褪めているのだ。タカシが宥めすかしてもまりこの情緒は乱れたままで、このままではどうにかなってしまうのではないか、とタカシは小さな声で言った。恋敵にまりこの下へ戻ってくれというのはどれほどの気持ちだろうか。私は頷くこともできずただ黙っていた。
「あんただけだ」
 あんただけ、誰にも拒絶されていない。
 言われて、ハッとした。この問題の根源はおまえだと言われたような気がした。てのひらに顔を埋めて、目を瞑る。泣きたいような気がした。泣くのは卑怯だと分かっていた。二十年近く、私はまりこに対する愛情よりも己とだけ向き合ってきたのだ。自分だけを愛してきたのだ。その挙句に泣こうというのか。結局は自己愛が勝るのか。
「もう疲れた」
 タカシが言った。私も、疲れたと零れた。慰めあう眼差しの遣り取りに倦んで目を逸らす。タカシの手が伸べられる。その手付きでまりこを慰めたのか。陶酔する素肌に嫌悪が募る。
 どうしてこんなことに? 理由はなかった。ただ逃げ出したかった。タカシのやつあたりのような激しさに安堵していた。
 背中から犯されて、苦しさに呻き声が漏れた。腸壁に勃起した性器を感じて、これは罰だと思いすぐに打ち消した。こんな罰があるものか。これ自体、罪にほかならない。苦痛に酔っていた。中でタカシが精を吐き、私も吐精した。女の中で吐かぬものを、こんな所で吐いている。私はタカシに腕を差し伸べ取り縋り、猿のように交わった。無為な行為に身体を熱くし快楽だけに夢中になった。刺されている間、私はまりこを忘れてそれだけに耽り、精を吐くたびまりこを思い出した。
 真夜中になって身体を離すと私たちが身を置いている諸問題が重くのしかかってきて二人して言葉少なくそれぞれの思考にばかり囚われた。タカシが聞いたというまりこの自分を貶める言葉をそのまま伝えられ私はまた押し潰されそうなほど自分の罪について考える。死にたいと、青春時代に捨て置いた言葉が口をつく。タカシが頷く。
「イスタンブール辺りへ行っちゃいたい」
「飛んで、って?」
 白々しい笑いを浮かべると消えなくなって二人してどろどろと泥のように笑っている。まりこのために、俺たちが死ぬのが一番だなぁ、なんて言いながら自分の卑怯を受け入れていた。まりこのために、と言葉に出すことでまりこを裏切っていた。頷くタカシもまた、まりこへの愛情よりもこの無間地獄から抜け出すことを選んでいる。私たちは泣き笑いでまた肌を合わせた。  



(06.1.31)
置場