薄壁一枚隔てた向こうで同棲カップルが珍しくも励んでいる。安アパートの宿命か。耳に付く女の声を避けるべくラジオを点けてヘッドホンで耳を塞ぐ。吸いすぎた煙草の煙にえづいたが構わず新しい一本に火を灯す。吐き出した煙は蛍光灯の光で虹色に変わり部屋の中へわだかまる。
隣人の女の方はなんだか知らないが水商売の女らしい。男は無職だ。壁の向こうからは毎日のように男女の罵声が入り混じって聞こえた。艶ごとに縁のない自分には推し量れない関係に思われる。
ある日帰宅し自室の鍵を捻っている時に丁度出掛けの女と行き会った。女は目が大きく鼻筋は通り、思っていた以上に美しい顔立ちをしていた。こちらを顧みることなく通路を颯爽と歩いていく。華やかな香水の香りを道筋に残して女の背中は見えなくなる。一度まばたきをしたら印象以外の何もかもが曖昧になり、もう正確な顔かたちを思い出せなくなった。
部屋の中は空気がよどみ妙に蒸した。普段開けることのない窓を開け放つ。清涼な夜気に首筋を撫でられ心地がいい。二階の部屋から見下ろす景色はなにも美しいことはない。だからこの部屋の窓は普段開かれない。
部屋の熱気を追い出すためにしばらく窓辺に座り一服する。ボンヤリと煙の行末を目で追うと、どうやら隣人も窓を開けて煙を吹いているようだった。隣の窓から伸びる煙の筋はすぐに空中に霧散、透明に消失してしまう。
「今日は蒸しますね」
声がした。窓に乗り出して隣を窺うと、隣人は煙草を持ったままの右手を小さく挙げた。
「はあ、もうじきに梅雨入りするんでしょう」
「嫌になりますね」
言った後で、唐突に初めましてと言う。驚いて、またはあ、と気の抜けた返事しかできずにいると、続けて「いつからここに?」と問いがくる。
「学生時代からずっと、そのまま」
「じゃあ結構長いんだ」
ええ、まあと答える。内心ではそれがなんだと思っている。それが伝わったのか男はおどけたように「いやね」と高い声を出す。
「隣があんまり静かだから幽霊でも住んでいるのかと思って」
笑いながらすみませんと言う。返答に困る。町の音が耳に付く。久し振りに沈黙を感じた。ほんのわずかの間なのだろうが、そのまたたきほどの時間を持て余す。
「……なにか、本を貸してもらえませんか」
突然の申し出に驚いて、けれど決して不愉快な感じはなかった。
「構いませんが、どういうものがいいんでしょう」
「なんだって構いません」
そう言うからすぐ手元にあった文庫本を差し出す。いつ読んだのかも定かではないシェークスピア。隣人には似合わない気もしたが他に探すのも難しい。構わずにまた窓に乗り出して本を持った手を隣の窓へ伸ばす。隣人も腕を伸ばす。渡した、と思った瞬間、シェークスピアは道路へ向かって落下していった。
拾いに行こうか、と思った矢先、隣の部屋の扉が騒々しく開閉される音を聞いた。また窓辺へ寄り道路を見下ろすと、ひょろりと背の高い男が小走りに寄ってきて本を拾い上げる。こちらに向かってひょいと手を挙げる。
「すみません。ありがとうございました」
笑いながらそう言うとズボンの後ろポケットに薄い文庫をさしてそのままふらりと道路を歩いていく。男がどこへ行ったか、またいつ帰ってきたのかは知らない。
季節は本格的に梅雨染みてきて、部屋の窓はまた開くことがなくなった。隣人たちは毎日のように口論しているようで、壁伝いに金属質な声が響いてくる。不思議なことに以前よりも情交の回数も増えているようで、女の艶めいた吐息も同じだけ伝わってくるのだ。そのたびにヘッドフォンで深夜ラジオを聴き、初めて男と言葉を交わした時の印象と壁伝いに表れる印象の違和感を言語化しようとして行き詰る。
はっと気付いたときには含羞の虜である。孤独が高じてゴシップにまで飛びつくのか。たった一日、たった数分の遣り取りだけで人間ひとり分かった気になっていた。赤の他人じゃないか。壁の向こう側にだけ真実があるんじゃないか。男の本質は善人であると、何故思いたがるのだ。
今まで聞こえた中でも一番くらいの怒声の応酬があった翌日、女は家に帰らなかったらしい。しんと静まり返った壁の向こうが、何故かうるさくされている時よりも気にかかる。他人事であると肝に銘じたにも係わらず、また隣の住人のことを考えている。
コン、と微かに壁が叩かれた。何事か把握する前に、また叩かれる。壁に耳をあてても何も聞こえてこない。男が何も言わないからだ。
窓を開け隣を窺う。隣の窓から青白い男の腕が伸びている。手になにか持っている。男のてのひらから少しはみ出すくらいの大きさの、やや大きめの小物容れだろうか。それが、傾けられる。あ、と思う間もなく中身は零れ落ちる。
指輪、ネックレス、石の付いたものもあればビーズで出来ているようなチープなものもある。それが、バラバラと落下していく。宝石の雨あられ。アスファルトへ向かって落ちていく。「ハハ……」と男の乾いた笑いが耳に響く。綺麗だな、と男は言った。感情の見えない声音が恐ろしかった。
通りを走る車のライトを受けて宝石がチラリと光った。男は宝石箱も道路へと落とした。だらりと力なく投げ出された腕だけが見える。男の顔が思い出せないでいる。あの日貸したシェークスピアの、タイトルは一体なんだったか。
男の腕はずるずると部屋の奥へと消えていく。隣の窓からはなにも窺えなくなったが、それでも目を離せずにいた。早く女が帰宅しないかとそればかり考えていた。地面に宝石の死骸が時折光ってみえる。女はいつまでも帰ってこない。夜が更ける。朝になる。
その日以来、壁の向こうからは何も聞こえなくなった。男は部屋を出て行ったらしい。女は変わらず夜になると仕事へ出て行った。路上に散らばった宝石がどうなったかは知らない。
坦々と季節が変わっていた。壁の向こう側で女が生活を変えないように、こちら側もなに一つ変わることはなかった。
黙りこくった壁が日常になった頃、シェークスピアが戻ってきた。煙草の煙が虹色に漂って蛍光灯に絡みつく。窓辺で男は本を読む。