金曜日は嫌い


 あんまり頭がよくないみたい。人と話すのが、ちょっと苦手。笑うタイミングがよく分からない。頷くのも笑うのもいつも少しずれてしまって、それで誰も怒るわけではないけれど、呆れてんのかな。気付いたら輪の外側にいる。そしていつの間にか誰もいなくなっている。
 そういうポジションの人として定着している自分。「みんな、とあと菊池くん」という定位置。いつからこんな風になったんだろう。昔からこうだった気もする。
「ここ、違ってるよ」
 人差し指がノートを指す。すみませんが咄嗟に口をつく。
「別に謝んなくてもいいけど」
「はあ、すみません」
 家庭教師は苦笑して、それ以上なにも言わず間違った箇所を消しゴムで消す。それをボンヤリ見ている。言葉も出ない。ボンヤリ見ている。
 自分の志望している大学よりもはるかに頭のいい学校の二年生。人当たりもよくて洒落ていて、こんな俺にも親切で、こんな人間がいるのだと己の矮小さを思い知らされる。毎週金曜日、橋田が来る日は憂鬱だ。
 良かったら夕飯食べていかない? と誘う母親に愛想よく答えている。「俺この後デートなんすよー」って。なんだ彼女いるんだ。当たり前か。
 仕事だから。お金をもらっているから。橋田が毎週金曜日にうちへ尋ねてくるのはそれだけの理由だ。俺に対する好意は、ひとかけらも、ない。
 なんだかよく分からない。橋田みたいな人と友達になりたい欲求だろうか。……認められたいんだ、俺は。
 彼に認められたら、俺は大丈夫な人間になれるような気がする。あたりまえのタイミングで笑い、人の輪の中で何にも考えずにいられる気がする。できないこと全部ができるようになる気がする。そんな都合のいいことあるわけないのに。思っている。信じている。確信もなく、それは信仰のようだと俺は思う。
「先生」
 呼びかける。玄関で、橋田は靴を履いている。振り返った顔が少し驚いたみたいで、俺はまた空気を読みそこなったのに気付く。
「なに?」
「……なんでもないです」
「えー、なになに? 気になるじゃんよー」
「なんでもないです」
 困ったように笑う橋田の顔に、なにも言えなくなる。いつも言葉が胸の奥につかえてしまう。居た堪れないくらい恥ずかしくて、身体の芯から震えが走る。沈黙が気持ち悪い。今すぐこの場から逃げ去りたいのに、それもできない。本当は、こんな風じゃなく、もっとちゃんと、当たり前のことを話したりしたいのに。
 こんなときも、橋田は俺を傷付けるようなことは言わない。そこまで深く干渉しない。俺が駄目になっているのに気付いても、見えないふりで笑ってくれる。そうじゃなくて、そんな風じゃなくて、もっと酷く傷付けてほしい。
 母親が素っ頓狂な声をだして玄関先まで出てきたから、入れ違いに部屋へ引っ込む。和やかな会話の雰囲気は俺の部屋にまで伝わってくる。玄関の戸が開いて閉まる、それだけの音に後悔か絶望かなんだか分からない重苦しい感情を引き起こされる。
 金曜日以外も会いたい。友達になってください。俺のこと好きになってください。言えるわけないそんなことは。
 窓から窺った路上では橋田が携帯でメールを打つ姿がある。ほら、もう俺は消えてしまう。「ほら」なんて、言う立場でもないけど。
 金曜日は嫌い。毎週決まって嫌になる。橋田なんか嫌いだ。会えば会うほど辛くなる。息苦しいほどの苦痛がある。どうしたいんだ俺は。どうもしたくない。どうにもならないで。なにも変わらないで。毎回同じ金曜日でいいからずっと続いて無理だって知ってるよもうじきに受験が始まる。



(06.11.15)
置場