Omnia vincit amor et nos cedamus amori


「なんでこんなことするんですか」
 言っている矢先にどうだってよくなっている。引き倒されて強か打ちつけた肘が痛い。荒々しく衣服を剥ぎ取られる合間につけられた引掻き傷も少し。その痛みも霞むほどの快楽が今、芝原の口内からもたらされる。
「やめてください」
 息継ぎの合間合間に言ってみる。抵抗は口先きり。口に含まれ舌を遣われ音をたてて吸いたてる。一体、こんなことをして面白いのだろうか。熱くなる頬から耳へかけて。頭全部が熱に狂う一方でそんなことばかり考えていた。
 肉体と頭と、そのどちらが人間の本質なのであろうか。思ってもいないのに吹く白濁と嚥下した芝原への嫌悪感のどちらが本当だろうか。
 室内が実際よりも狭く感ぜられる。二つの汚らしい息遣いが籠っているからか。急に寒さを感じた。身体が冷えるのと比例して冷静さを失った。芝原の狎れた眼差しが嫌だった。面倒に思うよりも逃避の欲求が極まった。上体に被さってくる芝原の身体を押し返し、蹴るように立ち上がる。下着と一緒にズボンを引き上げ、なんとか事が起こる前と同じ状態に復元を試みる。
 無理に決まっている。呼吸が元に戻った所でずっと緊張を保っていた糸が切れてしまったのだ。上手に結びなおせるとも思えない。顎をとられ唇を重ねられて確信した。
 無理やり口の中に入ってきた舌を噛むのも嫌で、離れていくタイミングだけ計っている。絡まってくる舌は自分の精のにおいがして気分が悪い。息継ぎのタイミングで身体を離す。口を拭う。まったく何もないような顔をして玄関へ向かう。
「待ちなさい」
 待つものか。
「またおいで」
 来るものか。
 玄関を開けると高層階がために視界になにもない。丁度いい、打ってつけだと頼りない気持ちを鼓舞する。子供っぽい歩き方をしないように気をつけながらエレベーターに乗った。ボタンを押す手が震えていた。馬鹿みたいだ。

 何故あんなことが必要なんだろう。憧憬だけで僕は充分だった。精神の世界だけに居たかった。肉体を介さなければ成らないというのか。結局芝原は僕を快楽の手段に用いようとしていただけなのか。
 あ、くそ。どんな考え方をしたって無駄だ。僕は初めから分かっていた。いつかこうなるだろうことは知っていた。火中の栗と知っていながら芝原に寄り添ったのだ。
 嫌だ嫌だ。嫌でたまらない。一体、なにが? 分かっている。

「来たの」
「帰りましょうか?」
「驚いただけ」
 少しも驚いた素振りはない。僕の苦悩も決意も、芝原の想像の範疇なのだ。二日と空けずに訪れた淫売と思っているだろうか。思考の限り武装した勇気はすぐに挫けてしまう。つまらないと分かっているのにどうせ、といじけた気持ちになってくる。
「帰りますよ」
「上がって」
「嫌だ」
 子供じゃないんだからと芝原が言う。子供なんだよ僕は。思い知った。自分で思っていたよりずっと幼稚なんだ。
 芝原と対等にものを考えられると自惚れていた。概念だけで恋を分かったつもりになって、芝原に対する自分の感情は恋などという甘ったれたものではないと思い上がっていた。ままごとだったのだ。
「なにもしやしないよ」
 芝原の苦笑。泣く子をあやす父親と同じ目をしている。嫌だ。
 なにかしていい。なにもかもすればいい。肉体だけを使えば良いんだ。幼稚なこの自尊心すべて壊してくれればいい。どうせ僕たち二人の間に未来はないのだ。
 芝原は僕の未来に憧れている。僕は芝原の過去と戦っている。初めから先のない関係だった。僕が成熟し、未来なんてものが確定し限定され自由を失ったとき、それでも芝原が僕を必要としているとはとても思えない。
 あと、どれくらい?
 何年先か何ヶ月先か、もしかしたら明日かもしれない。芝原の望む美しい未来を持ち続ける間、僕は芝原の慰めでありたい。
 きっと、これは、幼稚で子供っぽい、僕なりの愛であるのだ。



(07.1.14)
置場