彼の爪続き


 どうするんだろう俺は。彼女が出来たこともない、童貞オタクが、こんな風でどうだろう。
 疑問はある。目を閉じて身体を撫でる。その手が、爪の先が、頭の中で黒くプラスチックのように均一な彼の爪と同じになって、あの日と同じ導線で動く。
 疑問はある。一体俺はこれでいいのだろうか。熱を持って膨張していく。目の裏に三次元の過去映像。当事者がゆえ細部まで再現される。他人の息遣いと体臭をあんなに近くに感じたのは初めてだったから。
 ああ、よくない。男の人を思い浮かべてこんなこと。間違っている。だけど、だけどさぁ。
 ……なんだかすごくダメ臭がする俺。
 明日、久し振りによしあき君に会う。すごく気まずいのに、すごく嫌なのに、なんでこんなことしちゃうんだろうなぁ。吐いた溜息が嘘っぽい。カマトトぶって知らんぷりして気付かなければ自分は大丈夫って思いたい。向き合って自分が変わってしまうようで怖い。よしあき君の気持ちなんて、考えてしまったら答えは出せなくなる。現実って難しいな。リアリティっていらないんじゃないかな。そういえば恋とかしたことない気がする。……つまり、そういうことなのか? まさか。
 まさかまさか、だって、ねぇ。とりあえずゲームでもするか。レベルアップし続けるっきゃないか。リビングは誰もいない。夜遅いから。台所で手を洗う。石鹸ないから食器用洗剤で。レモンの香りがふわっと香る。泡立つことなく手はキシキシになっていく。清潔になったような感じがする。けど、余計にしたことの不潔さが際立ってしまった気がする。あの時、最低だって、最悪だって思ったのに。よしあき君に申し訳ないと思った。
 でも、なんでよしあき君はあんなことしたんだろう。
 なんで、なんて、嫌だな。考えられる可能性は限られている。立ったフラグがどちらを指しているか、それだけのことだ。フラグ自体がもう答えであるともいえる。だって、俺だって、触ったもんなぁよしあき君の。
 うわぁ……。
 思い出したらダメなのに。思い出しちゃった今。思い出しただけなのに、なんで。下半身が一瞬ぞわってなった。
 最低だ。最悪だ。明日、会いたくない。会いたくないけどちょっと会いたい。次ってなんだろう。続きって、なにするんだろう。やっぱりアレか? アレってどんな感じなんだろう。入っちゃったり、するのかなやっぱり。いや、入らないだろ。だってあの右手の感触からするに……無理無理、絶対無理。人間限界ってもんがあるだろう。人体の不思議もそこまでは許容しないって。
 Aボタンの連打しかしてないのに俺。レベル上げすぎて殴打の連続でも敵に勝ってしまう。現実はこんな上手くいかないんだよな。よしあき君をぶん殴るわけじゃないけど。好き? というか欲情? よく分かんないよしあき君に対する感情もこんな風に簡単にいなしてしまえれば良いんだけど。
「よ……よしあき君がしたいなら良いよ?」ってのは卑怯だよな絶対。つか寒いそれは。え、じゃあ、「する?」ないわー。「したい」? バカか俺は。大体なんなんだこの悩みは。バカなのか? 俺は。嫌なことに気付いてしまった。
「あんたまだ起きてんの? 早く寝なさいよ」
 と、姉が言う。そっちこそ全然寝る気ないじゃねーか。と、言ってやりたい気もするが言わない。
 ベッドの上で自分の部屋の天井を眺める。目をつむる。会いたい? 会いたくない? 考えている。よしあき君は知らないことばかり教えてくれる。考えている。肉体に関する思索だけではなく、もっと、心のことを考えないと、と、と、…………。

 そしてもう朝。
 眠った気がしない。それはそうか、三時間くらいしか眠れてない。予定よりだいぶ早く起きてしまった。もうちょっと眠れるかな。だけど頭が覚めてしまった。時間の潰し方も思い至らず朝風呂と決め込む俺。やる気満々か、やる気満々なのか俺は。
 一時間、二時間……と時間を消費して気付いたら約束の時間が迫ってきている。怖い。ここ数時間の消費の仕方が怖い。一時間前、そわそわしていた。二時間前、そわそわしていた。三時間前は? もちろんそわそわしていた。そわそわという名の時間泥棒がまんまと盗みおおせたわけだ。なんてこった。目に見えない妖精だろうか。え? 妖精が? 俺の心ポケットから? 時間を盗んで行った? バカヤロー時間に間に合わないじゃないか! いい加減にして家を出ろ家を!
 携帯電話と財布だけ引っつかんで家を出る。準備は万端過ぎるほど万端。やり過ぎたくらいだ。走って駅へ向かう。全速力なんていつもしないから足が絡まりそうだ。爪先の力で、腕の力で、少しでも前へ進もうと身体中で漕ぎ出していく。会いたい? 会いたくない? どっちも本当で、この苦悩と呼ぶにはあまりに馬鹿馬鹿しい悩みから抜け出す糸口はよしあき君に会う以外にないのだから、会いたいんだ俺は。

 目的地に着いて、急に怖くなる。電車の中では平気だった。早くよしあき君に会いたかった。会って話がしたかった。電車を降りた瞬間怖くなる。会いたいことは変わらない。なのに、携帯を握る手が震える。履歴からよしあき君の番号にカーソルを合わせるという、それだけのことにも怖気づく。
 からかわれているだけじゃないか。信じていいのか。じわじわと心が萎縮する。一人で舞い上がりすぎているんじゃないか。よしあき君はそんなつもりじゃなかったのかもしれない。
 昼日中に駅舎内の安っぽい蛍光灯が薄暗い。人ごみのにおいがとても現実を感じさせる。俺ちょっと浮いているかもしれない、と思った瞬間に居た堪れなくなる。リアリティに負ける。
 記憶を都合よく塗り替えて、ただ欲情を恋と呼ぼうとしていた。きっと、だから、こんなにも現実の渦中に馴染めないんだ。よしあき君のことを知らないから、知ろうともしなかったから、俺の物語の中でよしあき君はフィクションに変わってしまった。改札を抜け階段を下っていく。携帯は握ったまま、足だけ勝手に進んでいく。
 太陽の白い光線が黒目の中までさしてくる。
 ああ、そうだ。知るのが怖かった。現実が怖かった。リアリティという名の絶対者に傷付けられるのを恐れていた。日差しに慣れた目の先にいる、俺を見つけて手を振っている、変わることない笑顔を向けてくれる、彼が俺を傷付けるなんて、きっと、多分、ないことなのにね。
「遅くなってすみません」
「早すぎたんだよ俺が」
 笑っているよしあき君の顔がちょっと照れたように見える。と、意識した瞬間になんだかこっちも恥ずかしくなる。メシどうする? とかなんとか話しながら肩を並べて歩いているうちに、段々どうでもよくなって、知らないうちに現実の、呼吸している町並みに馴染んでいく。きっとこの感じ。間違っててももういいや。これはちょっと恋っぽい。



(07.4.23)
置場