アベルカイン


 ああ、俺は狂っている。
 そう自覚して、今、自分が十数年ぶりにまともであることに気付いたのだ。十数年ぶり? いや、もっと、ずっと前から、正気でなかったのだろう。
 今、中空に置き去りにしてきた身体は思考と切り離されて、魂だとか、プラズマだとか、よく分からないけれど、ああ身体なんて器にすぎないんだなぁと感慨深く悟り、コンマ何秒という世界で俺は今まで生きてきたのと同じだけの時間を感じている。

 小学五年のとき、俺は兄貴を殺したいくらい憎んでいた。理由は毎日色々にこじつけて、だから俺はあいつが嫌いだと確信をより強いものとしていった。
 中学時代の夏休み、兄貴の股座に顔を埋め、頭上から降る嗚咽を聞きながら俺はいたって正気だと感じていた。あまりに自分が冷静で、なんだこんなものかと拍子抜けするくらいだった。
「……っく、……うぅ……」
 高校生にもなって兄は泣いていた。泣いているくせに抵抗はしなかった。亀頭の先から滲む先走りを舌で掬いながら、何故甘んじるのだろうと不思議でならなかった。ごめんごめんと兄は謝る。てのひらで顔を隠しながら、謝罪と自虐を繰り返す。俺はいたって冷静だった。蝉の声が遠くに聞こえた。俺の五感はその時、兄のためだけにあった。普段体臭の薄い兄でも、そこからは濃い雄のにおいを発していた。舌先で感触を確かめながらにおいを嗅ぐと、嗅がれることに羞恥を覚えるのか兄の陰茎からはトロトロと先走りが垂れてくる。
「……いやらし」
 中学生だった夏休み。勉強机に向かう兄の足元で、精を飲み下した。罪悪感も背徳感も全部兄が背負ってしまって俺は何一つ思いはしなかった。

 訊けば馬鹿馬鹿しい話。俺にとって他愛もないことを兄はすべての遠因と捉えていた。小学生相手に劣情をもって行ったことが今更傷となって自分に罰を与えにきたと思っているようなのだ。
 確かに小学生の頃、俺は兄貴が殺したいほど憎かった。しかし、兄が言うような行為はなかったのだ。俺が気付きもしないところで兄は俺に欲情していたというのだろうか。

 知らないまま十年兄に自由を与えなかった。

 古い家の慣わしどおり兄は早くに結婚した。二人の子をもうけた。俺は兄にセックスを強いることをやめなかった。
 家人に聞かれるのを恐れ、行為の最中兄は息を殺していた。俺はそうしないから、兄は毎回俺の口を塞いだ。
 口を塞がれ突き上げられ、兄の苦渋に満ちた顔を眺めていると、時折殺されるのじゃないかしらと思うことがあったが、兄に殺されるという妄想は俺をおかしくさせるだけだった。兄の手の中に籠る笑いは次々と笑いを呼ぶ。殺される。兄が殺す。この俺を兄貴が殺す。有り得ないとはいえない。むしろ、有り得そうな話だ。
 馬鹿のように笑っていると、兄は不審そうに俺の口から手を離す。
「絞めて。殺せよ」
 身体の中で兄のものは萎えなかった。罪滅ぼしでセックスしてるくせに、殺したがっているのだこの男は。小さく震えている兄は殺意に満ちていて愛しい。兄の手が首にかかり、緩やかにその手に体重が乗せられる。喉の奥から息が漏れた。兄の荒い呼吸に反し、俺はまともに息すらできずにいる。結合した部分から卑猥な音が漏れてくる。兄の放った精が泡立てられ弾ける音だ。嬌声すらまともに上がらなくなっているのに俺はそれまで感じたことのないようなオルガズムを感じていた。
 快楽の極みの中、俺は死ねるのだろうか。高まりの中で吐精していた。俺の身体が緩んで、兄は途端正気に戻ったように手の力を抜いた。空気に噎んだ俺に驚いたようにまばたきを数度。みるみるうちにその表情を強張らせる。抜かれた兄の陰茎からも、とくとくと精が零れていた。
 白々とさめていくのを感じていた。兄はまた負わなくていい罪を負う。
「キスして」
 兄の顔が恐れと苦悩の色に染まる。俺たちは十年こんな関係を続けていて口付け一つしたことがなかった。長い沈黙。兄の手が恐々と伸べられる。償いのためなら唇も許すのか。殺しそこなったという、それだけのことで。
「嘘だよ」

 あの時の、兄貴の顔といったら。

 家を出たのは別に兄のためではなかった。急になにもかもが面倒になっただけだった。
 セックスを売って数年生きて、それから年増でもいいという物好きに飼われた。物好きな男は須原といった。金と暇を持て余していた。悪趣味な遊びを好んでいた。取り繕わない俺が一体どんな人間であるか、本性を知っていた。俺を愛しはしなかった。声が兄に似ていた。
 互いに都合のいい相手だったのだ。俺たちを知る者が美しげな物語を作ろうと、そんなものになんの意味もなかった。
 衣食住を保障してもらうかわりに俺は須原が望むままセックスをした。打たれ縛られ知らない男たちと、獣と、セックスをした。ライトを浴びながら蝋を垂らされた。種々雑多なものを挿入した。あらゆることをやって、俺は俺の精神に限界がないことを知った。心が壊れないということではなく、俺に心と呼べるほどの精神の機微がないからだろう。

 高校を中退してきたという甥が突然連絡を寄越してきたのは須原との生活がなれて新しいことが何一つなくなった時期だった。兄が俺のもとに我が子を託すとも考えられない。なにせ自分によく似ているという長男よりも、俺に似ているといわれる次男を溺愛しているのだから。大方なにも知らない兄貴の嫁の差し金だろうと察しがついた。
 お世話になりますと恐縮する姿が須原の眼鏡に適ったのか、須原は度々俺とのセックスを甥に見るように強いた。無理やり参加させるということはなかったが、縛り方や鞭の振るい方を懇切丁寧に説明する様子はどこか異様だった。
 甥は拒絶することなく須原の言うとおりにしていたが、犬の真似をする俺を見る目はやはりどこか兄に似た面差しがあった。
 須原は甥が俺に似ているというが、俺にはそうは思えなかった。
 何年かは三人で暮らしたが、そのうち須原が衣食住を残して消えた。仕事の都合で海外に移るから、という建前で俺を捨てた。甥に渡された連絡先を俺が知ることはなかったが、須原に対する未練はなかった。毎日誰ともなくセックスをしていたが、気持ちは実家を出たときと同じように冷えていた。飽きていた。海綿体の充血は機械で定められているかのように、意思もなく機械的に行われた。一体こんなこと、なにが楽しくて悦んでいるのだろう。

 兄の夢をみた日、寝ている甥に跨った。甥は眉根を寄せて、困惑か苦悩か知れぬが顔をしかめただけで抵抗もせず、声も出さなかった。兄のようだった。俺は数年ぶりに昂るのを感じていた。
「嫌か? でもな、こんなものオモチャみたいなもんで勃たせるのなんか簡単なんだよ」
 くびれを擦り竿を摩擦するとそこに血が集まってくる。亀頭を撫でると全身が小さく震えた。育った陰茎を無理やり挿入する。中で擦るとそこはどんどん硬さを増していく。奥歯を噛んで耐えている。その顔が、兄によく似ていた。
「キスして」
 言うと甥はなにも言わず唇を寄越した。舌を絡めながら、俺は吐精していた。吐精してもまだ腰を振った。身体の中を濡らされる感覚があったが構わず続けた。家を出て以来、はじめて兄の夢をみた日だった。

 いつからか月日の感覚が分からなくなって、時間の感覚が分からなくなって、誰が誰だか分からなくなって、甥とセックスをしながら兄を思い出して、今なにをしているだろうと考えて、気付いたら橋の上にいて、橋を渡りきれず中腹で、下を眺めていて、橋の下には大きな川が流れていて、地獄に繋がっていそうだとほんの少し思って、気付いたら空中にいて、ああ、俺は狂っていると思いながらまだ兄のことを考えている。
 兄さん僕は今まであなただけを愛し続けました。
 言ったところで誰も信じないだろうか。
 意識と、身体と、ひとつになって、落下していく。落下していく。罪の意識などひとつもありはしない。ただ、あなたを置いていくことだけが気がかりだ。



(07.8.15)
置場