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 劣等感に負けて叫び出したい。助けてくれと口の中で呟いてみる。声にならぬ吐息は霧散。空にも消えず、ただ胸にわだかまる。
 眠っている隙に誰か殺してくれないだろうか。暗い和室はしとしと雨に暗んでいる。チカチカと雷のように、隣のマンションの切れかけた通路灯が明滅する。窓越しに、カーテンの隙間を縫って明滅がまぶたの上をチカチカと明、暗、明、暗……脳髄を削っていく。
 畳の上で原稿用紙が腐っていく。
 投げ出した手足がばらばらに散らばっているようだ。

「誘っているのか? ケツを突き出して」
 薄暗闇にぼんやり浮かぶ白い腿は若いだけあって筋張っている。尻へ向かって指先を伝い上げるとぴくりと筋肉が強張った。
「嫌だ」
 口ばかりの拒絶に猛ることもない。こんなものは作業だ。無駄なことは削いでいって構わない。想像力の欠如。天啓のようなひらめきは創作の神のお恵みなんかじゃなく、己の内から表れるものだ。なにもなければ、なにも表れない。なにもないのに閃いたなら、それは人真似以外のなにものでもない。
 おまえを装飾する言葉ならいくらでも存在する。言葉によって作られるおまえは実際よりも素晴らしく現れる。そんなおまえに酔いしれることが、最早無理のように思われる。
 身を埋めた窄まりは誘うように締め付けてくる。苦しい? このままでいい。痛いくらいでないと、なにも感じられない。
「く……っ、ふ」
 かわいそうにね。可哀相。こんな俺に好かれて本当に憐れだ。
「あぁっ…あっ、あいしてる」
 なんて、言うわけない。
 暗闇でのたうつ背中。浮き上がる肩甲骨が内に外に、めちゃくちゃに動いている。腿を押し上げると腰に皺が寄る。人間の身体は案外よく動く。開いた分もっと奥へ。奥へと進めていく。荒い息が言葉のように、意味のあるような響きをもつ。人間が発しているだけで獣の唸り声も言葉になるのか。――ダメだ! なにもかも、なににもならない。
 吐き出した精が手の内で温度を失っていく。
 畳の上には腐敗した原稿用紙。カーテンの隙間から等間隔の雷。殺してくれ。言葉にもならなかった。

「もしもし」
「なんだよ」
「愛してるよ」
「……俺は、あんた嫌い」
「俺も」
「……なんなんだよ」
「うん、俺、諦めたよ」
「は?」
「俺がまともになったら、愛してくれる?」
「まともだったらあんたじゃねーよ」
「そっかぁ……、うん、そうだね」
「なんなんだよホント」
「うん、寂しいんだ」
「あっそぉ、甘えないでくれます?」
「ごめんね」
「……」
「ちょっとだけ、喋らないけど、電話切らないでくれる?」
「電話代……」
「そんなことはどうでもいいんだ」
 携帯電話を耳にあてたまま目を閉じる。さっきまで頭の中で汚していた男は電話の向こうでなにも言わない。通話も切られない。
 明日について、まともに生きる方法について、様々なことを考えようと思って、頭になにもなくて、時間が経つうち焦ってきて、焦りながら眠ってしまって、目が覚めても電話は繋がったままで、不意に目頭が熱くなって、泣いたのか、と自覚したら本当にどうしようもなくなって、俺は泣いた。
「……泣いてんの?」
「ずっと側にいてくれたの? 優しいね」
「スピーカーにしてたから……」
「ありがとう、嬉しい」
「本当に今日はどうかしてるよ、あんた」
「うん、でも、ちゃんとするから」
「……」
「まともになるから。諦めるから。諦めるよ、全部」
 声が震えてちゃ本当のことに聞こえないかな。本当のことに聞こえないとダメなんだけど。嘘や冗談の余地を残してちゃ諦めることを誤魔化してしまいそうだ。
 小説のような美しさのない俺の生活と、小説のように美しい、俺を大嫌いな男。全部諦めたなら美しくない俺の人生だけが残る。夢も希望もない人生は恐ろしい。たった一人で生きていく余生は長い。けれど、もう無理だ。夢や希望に縋る根拠だったものがなくなってしまった。歳月に殺されてしまった。どうにもならない。なんにもならない。
「電話を切っていいよ。長い間付き合せて悪かったね」
「……泣き止むまでいいよ」
「泣いてないよ」
「うそつけ」
「……あんま優しくしないでよ」
「うるせー。そんなら弱ってる時に電話してくんなバカ」
「ごめん」
「……別に、いいよ」
 装飾されない現実が電話口から漏れてくる。修飾されない優しさが、どうかしていた俺の半生を傷付ける。才能なんて漠然としたものは信じてこなかった。天才なんてこの世にいないと信じていた。間違っていたんだろう。
 俺に才能があればこんなくだらない一瞬も劇的に描写することができるんだろう。イマジネーションの翼そんなものはない。鶏ほどの跳躍すこし。主役になれなかっただけだ。ヒーローになれなかっただけだ。愛という概念をもって物語を構築できるかと思えたが、それも無理そうだ。
「今までありがとう」
「どういうこと?」
「じゃあね」
 携帯の電源を切る。彼は傷付いたろうか。その傷は彼の人生のエピソードの一つになるだろうか。俺は彼の人生の脇役くらいにはなれるだろうか。最低だ。まだ諦めきれずにいる。けれど残念だ。言いたい言葉がひとつもない。彼が家まで訪ねてくる筋書きは俺に似合わないな。野垂れ死にの予感だけ。構うものか。人生の筋書きを考えるのすら億劫だ。雨がまだ降っている。



(08.2.4)
置場