その手は菓子である


 日本の夏はダメね。蒸し暑くって敵わんね。かといって海外の夏なんかしらないけれど、こんな陰湿な暑さではなかろう。
「でっさー汗のにおいに昂奮するっていうんだけどー」
「へー」
「俺は汗臭さには昂奮できねーつって」
「へー」
「おまえマジ変態だなーって」
「そっかー分かった、もう切るぞ」
「ちょ、待てよー…あ、今キムタクじゃね俺」
「うっさい知らんボケカス喋んなもう」
「それ酷くなーい」
「真剣にウザイわ……携帯が熱持ってきてんだよ。地球に優しくしたいんだよ俺は。エコバッグとか持ちたいんだよ!」
「持ったらええが」
「持ってやらあボケが……じゃーね」
「待て待て、たまにはゆっくり喋ろうじゃないか」
「うっさい用件ならメールしてこいシカトしてやっから」
「冷たいこと言うなよー」
「マジ勘弁して。明日5時起きなんだよ。5時に起きてビス巻くんだよ。底辺慮って。な。じゃーねー!」
 一方的に通話を終える。携帯を持つ手と耳にじっとり汗をかいていた。河島に伝えたとおり携帯が恐ろしいほど熱い。このまま充電器に挿して良いのかしら。爆発したりしないよな。と、メール着信。
『明日夕飯』
 意味が分からん。口ばっかり達者でなんでメールの文章はまともに打てないんだあのアホは。返信させようという魂胆だろうが宣言どおりシカトする。今からダラダラメールの遣り取りを始めたら本当に寝る時間がなくなってしまう。今から寝ても四時間ちょっとしか寝られないというのに。
 俳優を目指している。とはにかんで言えたのも二年前までだ。深夜のファミレスで頑張っていたのも二年前まで。生きてる理由を見失って二年経つ。夢を捨てて得た誰でもできる仕事の身の丈にあったことときたら。なにになるかも分からない機械の一部がベルトコンベアで流れてきて決まった箇所のネジを巻く。それを延々、延々続けて消費されていく一日に伴う感情はただむなしいというだけのことだ。
 それにしたって俺は恵まれているのだろう。毎日メシが食えて屋根のある部屋で眠れるだけで充分じゃないか。くだらない電話をしてきくる友人がいるだけでも大変なことだ。だからまだ、大丈夫だ。……だからまだ、と誤魔化し続けられるうちはまだ大丈夫なんだ。
 夢を持つのは大罪だろうか。
 実家で暮らす両親の顔を思い出さないように努めても自分の年齢がそれをさせない。就職してほしいという親の願いを裏切って、好き勝手にやってきて勝手に挫折して今更なにも取り返しがつかないと思い込んでいる。現実的に考えて取り返しがつかないなんてことはないのだろうが、一度捨てた両親をもう一度背負う覚悟がどうしてもつかない。
 苦痛だ。
 ネジを巻く仕事は俺の性にあった。ベルトコンベアに支配された一定のリズムは俺の脳をバカにする。
 過去に二回、テレビに出た。二回ともエキストラだった。次こそは、と意気込むには歳をとりすぎた。舞台からきっかけを掴もうとした。演劇は一人で出来ぬと知った。それなりと思っていた己の顔さえ十人並みと知り、日々劣化していく最中にも若く才能に溢れた若者が俺の欲しかった場所に立つ。俺はネジを巻く。
 憂愁の牢。衆生済度。なるほど俺には関係ない。
 毎日同じ。同じところで一度止まる。ほんの少し狂って戻る。同じように繰り返しながら狂っていく。時計はやがて用をなさなくなる。
『うちにはなにも食べ物がないよ』
 三時。惰弱を叱る俺がいない。心が弱くなっている。携帯を握ってなにか言葉を欲している。眠ってしまったろうか。己より歳若い青年に俺はずっと頼りきりだった。
 何年前であろうか。はじめましてとはにかんだ新人のバイトはまだ高校生だった。高校を卒業して大学生になった。大学を卒業してサラリーマンになった。俺が挫折した順当な人生を苦もなく朗らかにやってのける。それはとても素晴らしいことだ。
 始まりそうな自虐を押し込める。なにか別のことを考えないと。それ以前に眠らないと。五時になる。眠らないと。ベルトコンベア。レンズ。素舞台。学生服。父親。他人の台本。汗のにおい。携帯電話。ネジ。オーディション。生年月日。時計。ふざけたがるおまえの口調。

「じゃーん! 揖保の糸!」
 玄関を開けた早々目前にソウメン。
「あとネギ! 袋いりませんって言ったらえらいことになった」
 鞄の中に直にネギ。
「どうしよう提出書類がネギ臭かったら」
「俺はネギのにおい好きだよ」
「俺もー奇遇だねー」
 へらへら笑いつつ鞄を置き腕をまくって手を洗う。冷蔵庫を覗くとふへっと馬鹿のような声を出す。
「ほんとになにもねーじゃん」
「ねーよ。メールしたじゃん」
「冗談だと思うじゃーん。朝見て笑っちゃったよ」
「俺は冗談を言わない男なんだよ」
 なんだかんだ言いながら湯を沸かしソウメンを投入する。ネギを刻む間に鍋から泡が溢れてくる。
「ビックリ水! 急いで!」
 俺の仕事らしい。急いでコップに入れた水を鍋に投下する。……というか、なにもしないのにソウメン茹でるの見てたらそりゃあビックリ水係りにもなるわ。沈静化した鍋を見ながら己の体勢の滑稽さにむなしさが込み上げてくる。
「ザルどこ?」
「あ、今出す」
 じゃあじゃあ流した水道水にあげたソウメンをさらす。それを冷蔵庫に寄りかかって眺めてる。水を差しただけでソウメンが完成してしまった。河島は手際よく麺つゆの準備もしていく。濃縮麺つゆを水で薄めて刻んだネギをぶち込んで完成。大変安上がりだ。
「麺つゆ持ってって」
 言われるまま渡された麺つゆ入りの器を二つ持ってテーブルに載せる。台所から目と鼻の先なんだから自分で持って行けよ、と思わないでもないが俺もなにもしないわけにはいかないから素直に従う。
「麺つゆに氷は?」
「えーっと、一個」
 ソウメンを盛った皿と氷を持ってくる。右手から出てくる氷一個。なんだか懐かしい。
「なんかおかず買ってくればよかった」
「買ってこようか?」
「買ってきましょうか?」
「俺はソウメンだけで足りるけど」
「俺も大丈夫です。ビスケット食べたんで」
「ビスケット? なんでビスケットなんだよ」
「食べます?」
 鞄の中から出てくるビスケット。なんでも入ってるな、この仕事鞄は。本当に仕事してるのか?
「ガムもありますよ」
「……あとでいいわ」
「はい、じゃあいただきまーす」
 馬鹿話をしていてもいざソウメンを啜り始めるとお互い黙る。無言で食べるソウメンは食べきるのに十分もかからない。食べ終えた後は河島家の慣わしに習い麺つゆを湯で割って飲み干した。「うちのお袋、ソバの食い方と混同してるんすよ」と河島ははにかんだが、我家では割らずにそのまま飲んでいた。食文化のレベルでは圧倒的に河島家の勝利と思える。
 食後はだらだらしてコーヒーを飲みつつビスケットを齧り週末のテレビ映画を観た。不思議だった。隣に河島がいるのが不思議だった。映画に感動したわけでもないのに涙が出そうだった。もたれていたベッドに顔を伏せる。
「寝てていいですよ」
 敬語で喋られると昔を思い出す。ほんの数年前のことなのに昔と思えるほど遠い。河島が馬鹿みたいな喋り方をするのは俺に対する一種の気遣いだと気付いている。
「眠れない時は電話してくれていいのに」
「余計寝られなくなるわ」
「子守唄うたってあげる」
「いらねーよジャイアン」
「えーだって朝メールに気付くのとか寂しいじゃん」
「……知らないよ」
 圧倒的に負けている。河島は朝開いた携帯電話に点るメール受信マークですべて悟る。受信時間に心を痛める。俺は依存しないようにする。なんだかとても恥ずかしい。
「睡眠何時間? しんどくない?」
「しんどくないし別に眠くないし」
 嘘。本当は超眠い。眠くって涙が上がってくる。でも寝ない。絶対寝ない。なんか恥ずかしい。
「ねーんねーんー」
「うるさいよ!」
 ベッドに身体を横たえるのは眠たいからではなく単に身体を楽にさせたいだけだから、と念押しして寝転がると肩が布団に張り付いていくように沈んでいく。電灯がまぶしいから目を閉じる。
「ねーんねーんーころーりーよー」
「起きてるから! 寝ないから! 目閉じてるだけだから!」
 でも多分寝ちゃうな。うとうとするのが気持ちいい。ふざけて笑っている間も目は閉じたまま。河島が黙ってしまって、悩み事に頭を使うこともなくって、家庭の音がする。舟が出る。



(08.9.14)
置場