扇風機と首筋と


「おはようございます」
「ああ、うん……?」
「アルコール買ってきたんで」
「うん? 何時?」
「零時ですよー」
 首根にじっとり滲んだ汗が冷える。部屋の隅で扇風機が首をふっていた。起き抜けに河島は他人行儀にみえる。声がひそやかだからだろうか。
「なに買ってきたの?」
「チューハイと我らが発泡酒」
「じゃ、発泡酒ください」
「かしこまりました、少々お待ちください」
 慣れた口調で言うと身体を伸ばして冷蔵庫を開ける。接客仕様の声を出しておいて随分雑だ。手渡された缶はてのひらに滲みるほど冷えていた。
 500ml缶二つで乾杯する。テレビでは芸人が身体を張っている。冷たい液体が喉を通って内臓を熱くさせる。そういえば酒を飲むのは久し振りだった気がする。そんなことを思いながら内容のない会話をする。ペナントレース、サッカー、芸能人のゴシップ、最近みたテレビの内容……生活の外郭をなぞる、会話をしているという状態を維持するための会話が続く。
「……そう! 体臭の話」
「ああ、昨日言ってたやつ?」
 昨夜の電話が思い出される。河島は夜更けに電話してくる時は大体テンションが異様に高い。会って話す分には年相応に落ち着いているのに、電話越しだとなぜかタガが外れたようにアホである。それを指摘すると照れたようにはにかんで「少しお酒を飲んでからかけてます」とのたまう。なぜ飲む必要があるんだ。
「いや、そんなことより体臭なんだって」
「ああ、うん。体臭フェチ? あるんじゃない? 身体のにおいに昂奮するってことでしょ?」
「しますか、昂奮」
「俺? 俺は別に……意識したことない? かな?」
「緒方さんにおいしないですよね」
「え? 俺? そう? 臭いよ」
「ちょっと嗅いでいいっすか」
「え、やだ」
 と、いうのも聞かず河島の鼻は俺の首根の辺りに近付く。嗅いでいいですかの段階で身を乗り出していたんだから狭い部屋でのこと、避けるタイミングを失しては嗅がれるままになる。
「ん?」
「なんだよ、汗臭いだろ」
「いや、なんか甘いにおいがする」
「なんでだよ」
「俺が知りたいんすけど」
 洗濯洗剤? シャンプー? 石鹸? ヘアワックス? 様々な憶測を言い合ってる間も河島は俺の身体を嗅ぐ。襟足、首根、胸と順々に嗅がれて俺としては居心地が悪い。
「ちょっと俺にも嗅がせろよ」
「えぇ? 嫌っす! 絶対嫌っす!」
「はぁ? 俺は良くておまえはダメなんかよ」
「いや、違くて、汗臭いんで俺」
「いや、分からんよ。すっぱいにおいするかもよ」
「最悪じゃないっすかそれ」
 体勢を入れ替えて河島の体臭を嗅ぐ。河島は身体を引いて逃げるので、なかなか身体の内側に入るのが難しい。嗅がれている間は気付かなかったが手のポジション取りがなかなか難しい。おのずからのしかかるような微妙な体勢になってしまう。
「んん? なんか付けてる? 香水?」
 胸の辺りに鼻を近づけて嗅いでみるが体臭といえるのかよく分からないにおいがする。
「はぁ…、香水……みたいなもんは付けてます……」
「生意気に色気づいてんな」
「違いますよ……嗅がないでくださいよ」
「よう分からんな」
 鎖骨の辺りから首に掛けてにおいの調査範囲を広げていく。なるほど、香水のにおいに混じって汗のにおいもするか。汗臭いというのとも少し違う、これが河島の体臭か。
「うん、なんかサラリーマンっぽいにおいするな」
「……なんすかそれ……サラリーマンっすもん……」
「いい意味で」
「フォローになってないっすよ」
 体勢を戻した時、ようやく視認した河島の顔は真っ赤に染まっていた。その赤さに俺も恥ずかしくなってきて500ml缶にまだ残る発泡酒を一口呷った。なんなんだこの空気は。
「はは…昂奮するな、体臭って」
 冗談めかして言ってみても河島は大きく溜息を吐いただけだった。
「思ってもないくせに言わんでください」
「いやーまじまじ」
「そうっすね。俺も昂奮しました」
「そういうこと言うなよな!」
「自分が言ったんじゃないっすか!」
「うるさい!」
「理不尽だ!」
「ゲームしようぜ!」
 妙に気まずい空気を脱するために無理やりゲームのコントローラーを握らせて起動。河島は缶チューハイを飲み干して、俺は腕まくりをする。夏の終わりになにをやっているんだ大の大人が。やけに近付いてしまった距離を離す間もなくゲームスタート。首ふり扇風機の風の角度がちょうど身体を冷やした。



(08.10.16)
置場