にんにんは怒っている!



 心頭滅却すれば火もまた涼し。但し火傷はするだろうがな。
「にんにんジュース買ってきてー」
 昼休み、スマホ片手におとりまき連中と駄弁っていた春原柊吾はこちらを見もせず言った。俺はにんにんなどというふざけた名前ではないので無視する。
「おい、忍者! クライアントの言うことは?」
 ぜったーい……、クソが。椅子を蹴って自販機へ向かう。心頭滅却せよと念じつつ、蓄積されたストレスに奥歯が磨り減っていく。
 俺は春原のパシリになるために転校してきたわけではない。親孝行、ひいては俺自身のため、顔がいいだけのバカの言いなりになっているにすぎない。
 親父が忍者なのだ。忍者の親父が春原の親父の護衛になったのだ。息子の護衛にいい忍者はいるか、と問われた親父は一も二もなく俺を推挙した。偶然同学年だった俺は嫌々これを引き受けた。報酬が破格なのだ。忍者マニアの春原の親父は通常のSPの給与に合わせて忍者手当をつけてきた。それも二人分だ。その額を聞いて嫌だと言えるほど俺も頑なではない。なにせ家が貧乏なのだ。親父が忍者に拘るあまり貧乏なのだ。忍者の求人じゃなきゃ嫌だと抜かしやがる。なんのために鍛えてるんだフランスで軍人にでもなってこいと思わないでもないが、息子の俺に親父の生き方を左右することなどできない。運命的に忍者マニア同士が出会えたのだ、俺の一存など塵よりも軽い。
 転校初日、トイレよりも自販機に行く方が多い。どんだけ喉乾くんだよあいつ。病院行けよ。湧いて出る苛立ちに自販機のボタンを押す勢いがきつくなる。あいつからは一銭も金を渡されていない。しかし俺は経費で落とす! 手帳の今日の日付に正の字を書く。俺にたかっているつもりだろうが全部おまえの親父の金だ。愚かな!
 教室内でバカらと集うバカなお坊ちゃんへジュースを届ける。
「遅ぇよ、ってオレンジかよ。俺コーヒーが飲みたいんだけど」
 ジュースって言ったのはどこのどいつだ。憎しみを込めて机の上に缶コーヒーを叩きつける。この俺に抜かりはない。
「わーお、有能〜」
 思ってもないような口振りで言うと缶コーヒーを開けて一口呷る。ありがとうの言葉もない。
「いつまで辛気臭いツラ見せんだよ、散れ!」
 死ね! 心の中で叫びつつ俺は大人の対応で自分の席に戻った。
「ねぇねぇ、大友くんって忍者なの?」
 隣の席のギャルい感じの女子が友達らと話しかけてくる。
「いや、俺は」
「ルミちゃーん、そいつと話すと忍者がうつるよ〜」
「えーやだー柊吾くん面白ーい」
 面白くねぇよ。忍者は感染症じゃねぇよ。死ねよ。クソが。俺はこんな学校大嫌いなんだよ。戻りてぇよ地元の高校に。にわとりとか飼ってるし。女子とか超純朴だったし。スカート短くても下にジャージ穿いてたし。なんでここの学校の女子は普通にパンツ見せてくるんだよ。意味わかんねぇ。
「ねぇねぇ、彼女いる? 忍者紹介して!」
「いや、あの、忍者とか……」
 知り合いにいねぇし。ていうかこの女ブラ紐見えてる。乳を寄せ谷間を強調してくる。どういうつもりだ。痴女か? 痴女であり俺と軽率にも愛のない肉体の交接に至ろうというのか。いやしかし、相手のことをよく知らないうちからそういうことをするのは如何なものか。痴女を気取りつつ本当は心の優しい女性なのかもしれない。誠実に付き合えばいずれ分かり合う日も……。
「にんにんホモの童貞だから無理だよ〜」
「はっ?」
「えーマジでぇ。ショックー! ホモじゃない忍者紹介して!」
「いや、俺は、ホモじゃ……」
「童貞は否定しない、はいにんにん童貞決定〜!」
「はっ?」
「えーやだーうぶ可愛い〜! お姉さんが教えてあげようか?」
「止めなよルミちゃん、童貞がうつるよ」
「うつされた〜い!」
 キャハハ、って男女が揃って笑う。いじめだ。転校初日にいじめが始まってしまった。最悪だ、この学校。ホモだとか童貞だとか忍者だとからかわれて残りの学生生活がまともに機能するとは思われない。終わった。俺の童貞卒業がまた遠のいた。別に。別に高校時代に捨てなくたっていいけど別に。可能性を潰したのが春原だということに腹が立つ。
 あんまり居た堪れなくて椅子を蹴って席を立った。
「どこ行くの?」
 春原はにやにや笑って俺を見る。護衛の俺が離れるのは職務放棄に当たる。だがしかし、労働者の権利だってあるはずだ。
「お昼休憩いただきますぅ」
 ぶん殴りたくてうずうずする拳を握りしめる。
「えー殺されたらどうしよぉ」
 ギャハハ、と笑いが起こる。知るか。精々殺されないように気を付けることだな。

 人目を避けて歩いていたら校舎裏へ辿り着いてしまった。この学校で俺一人学ランなのだ。新しい制服が間に合わなかった、という理由で。そのせいでどこへ行っても居心地悪く馴染めないのだ。それもこれもすべて春原のせいだ。
 校舎裏の、せめて陽当たりのいい場所で残りの時間を過ごそうと歩いていると日向で丸くなる猫がいた。幼い頃より忍者修行に励んできた俺に気配を消して近付くなど造作もないことだ。
 そっと近寄っていくと猫はハッとして俺を見た。
「おまえすごいな」
 大概の猫ならば撫でられるまで俺の存在にすら気付かないものだがこの猫は撫でられる前に警戒態勢に入った。忍者猫として育てれば立派に育つだろう。もう既に俺を無視して日向ぼっこを再開させているけれど、それは集中力の問題である。己の欲望よりも任務を優先するよう仕込めばものになるだろう。
 どこにも行き場がない猫ならば俺が拾ってやろうとも思うが、どうやら餌を与えている人間がいるようだ。猫の近くに空になった容器が置かれている。野良とは思えないほど毛はつやつやして栄養状態も良さそうだ。
 撫でてやると嫌がるでもなく身を任せている。人慣れしているのだろう。顎の下を撫でてやろう。おーおー、ごろごろ言いなさる。こしょこしょしようね。ぽんぽんもしよう。猫はすっかりじゃれつきモードでにゃんにゃん甘えた声を出して身をくねらせている。あー可愛い。連れて帰りたい。しかし餌を与えている先人のこともあるし安易に連れて帰るわけにもいくまい。ならば俺はこの一時の逢瀬を楽しむだけだ。
 ひとしきり猫と戯れ時を過ごしていると遠くで予鈴が鳴る音が聞こえた。全力で楽しんでしまった。
「明日カリカリ持ってくるから……」
 別れがたいが俺は一介の学生で任務中の忍びである。学生の本分も任務も放棄して猫と戯れ続けたいがそうもいかない。名残惜しいが嫌なやつがいる嫌な教室へ戻る。
 嫌々戻った教室では嫌なやつが殺されることなくアホ仲間らと馬鹿笑いをしていた。それはそうだ。こいつが狙われている様子なんてまるでないのだから。
 残りの授業では春原は居眠りに励み、俺は偏差値の差に息を詰まらせていた。
 どういうわけか編入試験の類もなくするっと入学してしまったが本来俺はさほど勉強が得意ではないのだ。この学校はただの金持ち私学だが、このクラスはどういうわけか特進クラスなのだ。何故俺がこんな目に、というより何故春原が、更にいえばクラスの大半を占めるアホチャラい男女が、俺よりもずっとお勉強ができるという理不尽を味わわなければならないのだ。
 教師は皆早口でなにを言っているか分からないし、板書はほとんどされない。されたとしても速攻消される上になにを書いているのか分からない。理解しようという間に授業は進行していき俺は完全に後れを取っている。このままでは卒業できないのではないか。ただでさえ普通な俺のおつむの程度がどんどん下がっていくのではないか。おのれ春原、貴様のせいで俺の高卒資格が危ぶまれているではないか。俺が人より勝っているものといったら体育か。体育の成績だけで卒業まで持っていかなければならないのか。持っていってやろうじゃないか。どんな手を使ってでも、春原のせいでおちぶれるわけにはいかない。
 苦行に満ちた授業を終えた放課後、ホームルーム終了直後に影の薄い担任は俺を手招いた。
「転校初日はどうだった?」
「転校したいです」
「うん、大友くんもクラスに馴染めているようで僕も安心だよ」
「馴染めてないです。転校したいです」
「部活は決めたのかな」
 聞けよ人の話を。なんなんだこの男は。春原の犬か。四面楚歌か俺は。いや、校舎裏の野良だけは俺の味方だな。全力でじゃれてきたし。よし、猫見て帰ろう。
「おい」
 ダメだ。春原が不機嫌そうに顎をしゃくっている。俺は春原と帰ることを義務付けられているのだ。不本意だが癒されないまま帰るしかない。
 担任に会釈して春原のもとへ向かう。こいつはアホほど金持ちで送り迎えに長い車が用意されている。恐らく既に校門前にはピカピカに磨かれた黒く長い車が停まっているのだろう。
「あーうぜぇ。忍者くせぇ」
 臭くねぇよ。死ねよ。長い車の後部座席に隣り合って座り、春原はスマホ片手に俺を罵倒してくる。目はスマホにかかりきりで俺を見ずして言葉だけが矢のように降ってくる。うざいのはこっちだ。
「見てんじゃねーよ」
「見てねーよ」
「見てただろうが。涎垂らして抱いて、みたいな目して」
「してねーよ!」
「おまえ初めて会ったとき俺に見とれただろ」
「ねーし! はぁ! キモ! キモいんですけどー!」
「必死過ぎ。図星じゃん」
「図星とかないし。おまえなんかに見とれるとかマジないし」
「あー忍者が必死うるさい」
 こいつは……。
 煮えくり立つはらわたを鎮めるべく奥歯を噛む。心頭滅却、素数、猫……。己を鎮めるため深呼吸する。
 腹立たしいことに、確かに俺は初めて会ったときこいつに見とれたのだ。今まで見たことがないくらいの美形で、王子様がいるとしたらこんな風かな、と思ったものだった。育ちのよさそうな気品ある顔立ちや振る舞いに全力を賭して守らなければ、と思ったものだ。口を開いた瞬間にすべての第一印象は撤回したが。
「あーあ、忍者小屋潰してぇなあ」
 聞えよがしの独り言を言ってくる。俺だって潰してぇよ。
 車は音もなく停車して、待つ間もなくドアが開く。広大な春原邸に着いたのだ。
 俺が先に降り、春原が後に続いた。春原が屋敷の玄関をくぐるのを見届けて俺は家に帰る。親父が任務に就くと決まってから春原邸の敷地内に急造された一軒家だ。まさか敷地内に住まわされるとは俺も思っていなかった。急ごしらえで悪いね、と春原父はすまなそうにしていたが俺ら一家が以前住んでいたアパートより断然広いのだ。おふくろはシステムキッチンに喜んでいた。俺にも個人部屋が与えられ、そこにはロフトがついているのだ。親父は一国一城の主だと笑っていたが、他人の敷地内に他人の金で建てた家になにを言っているのだ、と言いたいが俺にはなにも言えない。言ったところでどうにもならない。俺は無力だ。


「あーあ、朝っぱらから辛気臭ぇ忍者のツラ拝むとかマジねぇわ」
 朝、登校中の車中で延々罵倒を繰り返される。今日は一限目から体育だったからてっきりサボるのかと思いきや、約束の時間通り家から出てきたので内心驚いた。出てこなかったら俺一人で登校できると期待していただけに裏切られた気持ちで一杯だ。
 どうやら春原は家族の前で猫を被っているらしい。朝はきちんと登校し、夕飯までには帰宅する。その後家を抜け出して夜遊びしているのかもしれないが表面上は品行方正なお坊ちゃまとして振る舞っているようだ。
 そのストレスが今、すべて俺に向かっているんだろうな。可哀相に。俺の胃粘膜。磨り減り続ける奥歯。そのうち禿げるかもしれない。いやっ、俺の頭皮は頑張れる子だろう。なにがなんでも頑張ってもらいたい。
 学校に着き、長い車が見えなくなると春原は教室とは違う方向へ足を進める。
「おい、どこ行くんだよ」
「便所だよ。着いてくんなホモ忍者が」
「ホっ……、ぐっ、先教室行ってるからな! サボるなよ!」
 俺はホモじゃないが一々相手をするのも疲れる。構ってやるからしつこく続けるのだ。無視だ無視。
 便所と言いつつどうせ煙草でも吹かしてくるのだろう。未成年の分際でヤニが足りねぇ〜とか言うのだろう。ダサい! クソダサ御曹司め。構ってられるか。
「にんにんおはよぉ」
 教室に入ると名前は忘れたが昨日のブラ紐女が気安く挨拶をしてきた。悪くないな。にんにんだとかいう不本意なあだ名が定着していることは気に入らないが。
「柊吾くんは?」
 おはようと答えるとすぐさま春原の行方を問われた。もしやそれが聴きたかっただけか。
「うんこです」
 便所へ行くと言っていたんだ。その目的がなんであれうんこの可能性だって無きにしも非ずだ。やだぁまじでぇキャハハとブラ紐女が笑う。ざまぁ。
 予鈴が鳴る頃に春原は教室に入ってきた。正直一限からサボるのだろうと思っていただけに驚いた。探す手間が省けて助かったが。
「早かったな、うんこマン」
「殺すぞ」
 俺の机を蹴って隣の自席に座った春原からは意外なことに煙草臭さは感じなかった。本当にうんこだったのか…? ならばからかって申し訳なかったと後悔しているとホームルームのために担任が教室に入ってきた。謝る言葉が見つからないままタイミングを逃して後味の悪さだけが胸に残った。
 ホームルームを終えると女子は体操着に着替えるために教室を出て行った。教室内に残った男連中が着替え始める中、春原は微動だにしない。まさかサボるつもりか。
「早く着替えろよ」
「めんどい」
「めんどいじゃない、サボるな」
「いいよ、どうせ体育でしょ」
「よくねぇよ。おまえがサボると俺までサボらないといけなくなるだろ」
 さすがに一時間丸々目を離すわけにはいかない。春原がサボる、というなら俺もついていなければならないのだが俺は体育の単位だけで卒業しなければならないのだ。引きずってでも春原を体育の授業に連れて行かなければ俺の卒業がますます危うくなってくる。
「にんにん必死過ぎー。どうせ体育以外取り柄ねぇから体育だけでもってんだろ」
 その通りだ。ただでさえおまえのせいで俺の人生破綻しかかっているんだ。せめて体育くらいは出させろよ。
「貸しだからな」
 悪辣な笑みを浮かべ春原はブレザーを脱いだ。
 俺は一体なにを借りたというのか。体育の単位か。しかし高校生は授業に出て当然なのだ。俺はなにも借りていない。よってなにも返すつもりはない。だがなにかを貸したつもりのお坊ちゃんにそれを言って気を損ねられても困る。俺は体育に出たいのだ。
「おう!」
 爽やかに答えるとキモッ、の一言が返ってきた。本当に可愛くねぇな、こいつ。
 体操服も制服と同じように以前通っていた学校のものをそのまま着用しているが、この学校の体操服は膝丈のハーフパンツ仕様で俺一人太ももを晒した短パンなのは異常に恥ずかしさを感じた。しかも体操服の胸にはガッツリ名前が書かれている。俺一人名前と太ももを晒している状態だ。
「短パン忍者」
「やめろ!」
「大友短パン忍者」
「ぐっ……」
 嫌いだ。春原は一人生理中の女子がごとくジャージを着込み体育など参加する気がありませんという見学体勢だ。転校生だから、と体育教師に春原と準備運動をするよう促されたが当の春原はジャージの袖に両手を隠したまま準備をする気がまるでない。
 おまえのせいで浮いているのだ、と腹も立つが機嫌を損ねて体育をサボられても困る。太もも忍者、などと中傷を受けながらも俺は春原を無視して一人準備体操に励んだ。
 この学校には体育館が五つあり、男子は第一体育館でバスケ、女子は第二体育館でバレーをするそうだ。俺の活躍を横目に見てときめく女子が現れにくい金持ち学校の無駄に恵まれた施設が憎い。
 とはいえ、一時間バスケを通してだいぶクラスメイトと馴染めた感はあった。春原のおとりまき連中と思っていたやつらも案外気のいいやつらばかりで、体育館の隅でつまらなそうに座っている春原を余所に俺たちは健全な汗を流したのだった。
「にんにんすげぇな! 忍者だけあるよ!」
「いやいや、そんな……」
「何気筋肉すげぇ!」
「鍛えてるから……」
「さすが忍者!」
 昨日までは春原の隣でヘラヘラしてただけのやつらが急に俺をチヤホヤしだす。スポーツにより育まれる精神のなんと健全なことか!
「調子乗ってんじゃねぇよ」
 相手にしてもらえずにお坊ちゃんが拗ねていやがる。斜に構えて俺、カッコイイとか思っているのだろうが実際の筋肉の前には意味を為さない。鍛え上げられた筋肉には肉体的な魅力のみならずそこに至るまで鍛錬に励んだ精神性すら滲むのだ。筋肉は裏切らない。俺は体育だけで卒業してみせる。
「もやしっ子め!」
「殺すぞ」
 それしか言えねぇのかよ。呆れた気持ちになりつつも、俺は筋肉の余裕で受け流した。


 そんなこんなで一週間、忍者忍者とからかってきたクラスメイトも忍者忍者と慕ってくるようになった。元より育ちも良くて頭のいい連中揃いなのだから問題児はほとんどいなかったようだ。聞いた話によると素行不良は特進クラスに選別されないらしい。意外にも厳しい学校なのか。ならば俺という素行優良バカという特例はなんなのだ。金の力か。春原という権力の力か。どんだけ金持ちなんだよ。
 春原は、といえば一週間経って慣れ合うどころかツンケンするか無視するかのどちらかで、言うなればツン無視といったところか。別にデレろとは言わないがもう少し心にゆとりを持てないのかと腹が立つ。
 俺を癒すのは校舎裏の野良猫だけだ。
 昼休み、校舎裏で弁当を食べるのがすっかり日課になった。クラスメイトとは馴染んできたものの一日中春原と顔を突き合わせているのは息が詰まる。昼休憩と称して一人猫と戯れる時間だけが癒しのひとときだ。
「ほーらオモチャ持ってきたぞぉ」
 今日はネズミ型のオモチャを持ってきた。野良の目の前でフリフリ挑発的に振り回すと夢中になって飛びかかってくる。黒毛に白マスク白手袋白靴下というカラーリングはいかにも忍者っぽい。忍猫にしたい。この瞬発力は伊達じゃない。こいつは忍びになるために産まれてきたんじゃないだろうか。連れて帰りたい。そう思うが俺より先に餌を与えている誰かを思うと考えなしに俺んちの子にするのにも躊躇いが生まれる。
 きっと清楚で優しい女子が家庭の事情で飼えないけれどせめて腹だけは満たしてやろうと餌を与えているのだろう。恐らく朝一番に、俺は昼以外に来られないから分からないが放課後も来ているのだろうか。春原のお守りさえなければ俺だって朝一番に訪ねたいところだがそうもいかない。見知らぬ清楚で優しい可愛いおしとやかな美人で知的な反面お茶目なところもある黒髪で胸のでかい女子を思う。一度会って野良の処遇など話し合いたいところだ。俺が飼うから時々俺んちに遊びに来て猫と戯れていくというのはどうだろうか。それはいいな。それはいいよ。すっごくいいよ。そうしよう。だが、どうやって一度会うのだ。今まで一度だって遭遇していないのだ。これからも偶然会えるとは思えない。しかし俺に許された自由時間は限りなく少ない。ネックは春原だ。おまえはこんなところでも俺の邪魔をするんだな。
 いずれ出会いたいものだ、と思いつつ野良との逢瀬を重ねていた数日後、のっぴきならぬ悪天候にいずれだなんて言ってられなくなったのだ。
 前日からの予報で大型台風の接近が報されていたものの、進路が逸れる可能性もあった。
 しかし放課後が近付くにつれ黒く厚い雲が空を覆いつくし風が窓を揺らし始めた。猫はどうしただろうか。巨乳清楚が保護しているだろうか。いやしかし、彼女は家の都合で猫を飼えないのだから俺が保護しなければならないだろう。
 いるのかいないのか分からない担任が必要なのかなんなのか分からない話をするのを急いた気持ちで聞いていた。雨はもう降り始めているのだ。
 ジジジ、と放課のチャイムが鳴る気配に椅子を蹴った。
「解散!」
 どうでもいいホームルームの解散を告げ教室を駆け出す。チャイムが鳴っている。風が強い。
 猫が! 泣いている! 俺の助けを求めて!
 急いで校舎裏へと向かう。誰かが助けるのを待つなんて俺らしくなかった。俺が助けてやればいいんだ。おまえの名前はもう決まっている。イヌ丸。そう、三代目イヌ丸の名をおまえにやろう。待ってろ、今すぐ俺んちの子にしてやる!
 傘も差さず校舎裏へ駆けていく。生ぬるい風に雨粒が混ざってすぐにびしょ濡れになる。しかし吹き荒れる風に傘など無意味だ。
 校舎裏に野良の姿はなかった。けれどみゃーみゃー助けを求める声がする。伊達に忍者をやっているわけではない。声のする方、気配のする方を探る。
「そこだ!」
 巧妙に隠れてはいるがこの俺の目は誤魔化せない。躑躅の陰に身をひそめているが、ずぶ濡れじゃないか。
「よーしよーし、おいでおいで」
 声をかけてもまるで無視してくる。あんなに楽しんだ時間もお構いなしか。だが関係ない、強硬手段だ。
「そぉら!」
 抱え上げてもまるで動じない。にゃーんと鳴いただけだ。胆が太い。
「その猫、どうするつもり?」
 声に驚いて振り向くと春原が執事の小池さんに傘を持たせ立っていた。傘くらい自分で持てよ。
「飼う……」
「ふーん」
「別にペット禁止じゃねぇだろ」
 一応あの家は春原家の金で建っている。家主といえばそうなのだろう。
「別に、勝手にすれば」
 素っ気なく言うと背を向けて歩き出す。俺は猫を懐に抱いたまま後を追った。
「それで車に乗るつもり?」
 ずぶ濡れの俺に嫌な顔をする。おまえだって横殴りの雨に結構濡れてるじゃないか。そうは思うがこの状態であの高級車に乗る度胸はない。
「着替えてくる」
「着替えは持ってきた」
「えっ!」
 思いがけない優しさに驚いていると、小池、と春原が顎をしゃくる。小池さんは俺のジャージを差し出した。
「そこで着替えろ。俺を待たせるな」
「はっ?」
 そこ、とは昇降口で、俺は早くしろというクライアントの理不尽な要求に下駄箱が並ぶ中で着替えさせられたのだった。
「こ、ころす……!」
「うるさい早くしろ」
 俺が着替える間、小池さんはどこから持ってきたのかふんわりとしたやわらかなタオルに包みイヌ丸を抱えていてくれた。時折鳴く声がするがタオルがふんわりすぎてタオルが本体のようだ。
「おまえ猫飼ったことあるのかよ」
 着替えを終え、帰宅するために高級車に乗車すると春原はスマホを弄りながら訊いてきた。スマホの片手間とはいえ珍しいこともあるものだ。
「あるよ」
 その昔、親父が忍者犬が欲しくて欲しくて仕方ないと酔った勢いで拾ってきた野良猫が初代イヌ丸だ。のんびりしていてとても忍猫にはなれない性格だったが甘え上手な猫だった。ちなみに二代目イヌ丸は小学生の頃同級生が繁殖させ過ぎたのを貰い受けたジャンガリアンハムスターだ。こいつは気付けば脱走するタフなやつで初代イヌ丸よりもよほど忍びに向いていた。
 ふーん、と気のない返事をしながらも春原の視線はタオルに包まれたイヌ丸に釘付けだ。
「撫でる?」
「いい」
「いいよ、撫でたいんだろ」
「うぜぇ、いらねぇよ」
 そっぽを向いてしまった。強がっちゃって。本当は撫でたいくせに。
 懐に抱いた猫はぐるぐると喉を鳴らし、捻くれたお坊ちゃんは珍しく俺に絡んでこないで大人しくしている。車窓の外では嵐が吹き荒れていた。

 事前報告もなしに猫を拾って帰ったもののおふくろはなにも言わなかった。動物好きのおふくろのことだから戻してきなさい、なんてことはないだろうことは分かっていた。新しい家にイヌ丸はきょどついていたがそのうち慣れるだろう。
 俺のサイドにはなんの問題もない。気がかりなのは俺より先に餌付けをしていた誰かのことだ。
 考え抜いた末、俺は手紙をしたためることにした。
 猫は預かっている、このまま飼うこともやぶさかではない、あなたの都合はどうか、よかったら連絡してほしいと携帯の番号を記しておいた。別に他になんの目的もない。猫の処遇だけだ。猫の処遇についてのみ語り合いたい、出会いたい、付き合いたい、あわよくば。あわよくば、と願うのは健全な思考にすぎない。本題は猫。あわよくば男女交際。猫好き同士気が合うはずだし。お友達から始めたっていいし。
 翌朝、思いを一杯込めた手紙を懐に春原と登校した。
 毎朝まっすぐ教室へ行かないやつのことだ、その隙に手紙を校舎裏へ置いて来ればいいだろうと思っていたのだが、こんな日に限ってお坊ちゃんはまっすぐ教室へ向かう素振りを見せる。本当におまえは俺の都合を察さないな。
「悪いんだけど先に行ってて」
「は? うんこ?」
「ちげぇよ」
 かくかくしかじか、猫との出会い、交友、親睦、そして俺に先んじて餌を与えていた誰かの存在を簡潔に語った。
「いきなり猫いなくなったら心配するじゃん」
 思惑は色々あれど、一番はそれだ。台風の翌日に猫が見当たらなくなったらきっとすごく後悔するだろうな、と思った。飼う飼わないははともかく、交際するしないはともかく、手紙一つで心配事が減らせるなら意味はあるだろう。
「はぁ、まあ、勝手に行ってこいよ」
「ホームルームまでには戻るから」
「知らねぇよ」
 素っ気なく言うと背を向けて教室へ向かって歩いていく。可愛げのないことだが好都合だ。この時間、もしかしたらいつも餌を与えていた誰かと遭遇できるかもしれない。はやる気持ちを抑えて校舎裏へと急いだ。
 結果から言うと誰にも遭遇はしなかった。肩を落として教室へ行くと何故か先に行ったはずの春原が後からやってきて、おまえは一体毎朝どこを徘徊しているんだと思うが訊ねたところで答えないのは分かりきっている。
 昼休み、手紙が気になって校舎裏へ向かうと朝置いたままの手紙が重しにと載せた石もそのままに残っていた。
 今日は来なかったのだろうか。手紙を拾い上げると封筒に直接よろしくお願いしますとお手本のような丁寧な文字で書かれているのに気が付いた。この文字の綺麗さは女子に違いないだろう。それも相当おしとやかな。きっと安心して俺に猫を託してくれたんだろうな。電話番号は受け取ってもらえなかったけれど。
 まあ、うん。なんだ、よかった。よかったな、ほんと。安心しただろうし。うん。別にそれだけで充分よかった、ほんと。
 猫もいない校舎裏に独りでいてもむなしいだけだ。なんとなく消化不良な気分を抱えたまま教室へ戻った。
「あれっ? にんにん早くない?」
 いつもより早い俺の帰還にルミちゃんが声を上げる。
「俺の癒しは最早自宅にしかないからな……」
「なにそれウケる〜」
 なにがだよ。そう思うが彼女はいつもこうなのだ。なんだかんだ言って転校初日から声をかけてくれたのは彼女だし、気のいい娘さんなのだ。
 ルミちゃんが気付くくらいだから春原にも早い休憩終了をからかわれるのかと思いきや奴はなにも言わなかった。俺が隣の自席に座っても、周りに取り巻いている仲間らが早いじゃんと言うだけで春原はどこか上の空で俺のことなど眼中にないようだった。
 それは別に構わないのだが、謎のおとなしさが不気味だ。
「おまえもしかして具合悪いのか……?」
 思えば朝から様子がおかしかったような気がする。昨日いくらか雨にうたれていたし、お坊ちゃんの軟弱な肉体では風邪でもひいたのかもしれない。
「おまえって、ほんとクソだよな」
 よかった、態度は悪いがいつも通りの春原だ。いや、よくはないか。クソとはなんだ、クソとは。噛みついてやろうかと思ったが春原はそっぽを向いて、やっぱり上の空でその後ずっと無視された。いつもの気まぐれにすぎないのかもしれないが、いつもと違って居心地が悪い。物憂げな春原は王子度が上がって別人のように思える。
 おとなしい王子様の護衛をする方が余程楽だしやりがいもありそうだが、今更春原がキラキラ王子様になったところで気持ちが悪いだけだ。
 教室を出ると春原は昇降口へ向かわず旧校舎へ向かって歩き出した。
「どこ行くんだよ」
「物理のノート提出」
「えっ! ノート? 待て、それ俺も?」
「なんでおまえだけ免除されんだよ」
「マジか」
 物理といえば板書した傍から消していくあの物理だよな。俺ほとんどノート取れてないあの物理だよな。待て。待て待て待て。どうする。え。どうしよう。
「……ノート貸して」
 っていうか写させて、みたいな。テヘ、みたいな。
「嫌に決まってんだろ」
 ですよねー。はーい、分かってましたー。
 ほんと溜息が出る。奥歯磨り減る。ストレスで禿げそう。いや、禿げはしない。なにがあっても頭髪だけは大丈夫だ。信じている。
 旧校舎は人気がなく、ほとんどが空き教室で現在も使用されている区画に各教科の準備室や文系部活の部室が置かれているようだった。
 人の気配がない廊下を会話もなく歩いていくのはなんとなく気まずいと感じながら春原の後ろをついていく。
 ふと違和感を感じて窓の外に目を向けると、俺の鍛え抜かれた動体視力は瞬時に事態を見定めて前を歩く春原を抱え飛びのいた。
「危ない!」
「は?」
 瞬間、ガシャンとガラスの割れる音が静寂を破る。素早く辺りを窺うが追撃の気配はない。
「大丈夫か?」
「はぁ、まあ……」
 事態に驚いているのか春原は気の抜けた返事を返す。咄嗟に壁に押し付けてしまったが、これは所謂最近流行りの壁ドン体勢なのではないか。よりにもよって春原相手に!
 しかし間近で見ると本当に見目だけは麗しい男だ。肌は透き通りまつげが長い。背丈は変わらないが抱えた瞬間細さに一瞬驚いたくらいだ。
「キスでもするつもり?」
「はっ? えっ! あっ! 違う! そんなわけないだろ!」
 ついうっとりしてしまっただけだ。春原とキスとかマジで有り得ない。死ぬ。死んだ方がマシだ。
「えっ、あ、うっ……、んんん?」
 首根を引き寄せられた瞬間、くちびるが、ベロが、ぬるっときて、合わさって、口の中に温度の違うなにかがあって、春原のまつげが触れそうなほど目の前にあって、え?
「あっ、なっ……んっ…ん、う」
 頭を押さえ込まれて口の中ゾクゾクする。これは、なんだ、なんか……。ちょっと、気持ちいい。なんて。でも、これは……。
「分かった?」
「な……なにが?」
 春原は呆れたように笑うと濡れたくちびるをぺろりと舐めて、その仕草に、舌に、心臓は跳ね上がったけれど別にそういうあれじゃない。
 まだ口内に残る違和感に収拾がつかない俺を無視して春原はスマホ片手に電話をかける。
「狙撃された。旧校舎B37ポイント。こちらに襲撃はない。恐らく脅しだろう。ああ、頼んだ。……ああ、思ったより使える盾らしい。ああ、後は任せた」
 電話片手にガラスの中に落ちた凶器を拾い上げる。
「苦無。おまえの仲間かよ」
「し、知らん」
「まあいいや、さっさと行くぞ」
「えっ、どこに?」
「ノート提出」
「は? あ、ああ、そうか」
 しかしこのガラスの散乱した現場はこのままでいいのだろうか。いいのか。なんか連絡してたしな。
 いや。ていうか。なんか普通にするーと流されているが。
「何故キスをした……!」
「知らねぇよ」
「しっ……!」
 知らないだと。ということは理由なき犯行というわけか。理由なき犯行により俺のファーストキスが奪われたというわけか。
「貴様ぁー! 許さん!」
「あー、うるっせぇ」
「うるさいことあるかぁ!」
「もっかいしたいの?」
「そんなわけあるかぁ! 返せ! 俺のファーストキス!」
 言い迫る俺にお構いなしにヘラヘラ笑っていた春原は突然俺の胸ぐらを掴み、やんのかこらと身構えた瞬間またくちびるがバチンときた。
「戻った?」
 触れ合ったくちびるはすぐに離れ、春原はにやにやと笑っている。
「もっ、戻るかぁー!」
 おまえのくちびるの価値と! 俺のくちびるの価値は! レートが違う! おまえのくちびるなどジンバブエドル並みの価値だ。ハイパーインフレーション唇男め! 覚えたてだぞこら!
 心頭滅却すれば火もまた涼し。だが俺のファーストキスは戻らない。失ったときめき一杯メモリアルなファーストキスと教えられた口内のゾクゾクするところとで引き算すれば圧倒的に失っている! いや、どうだろう。失っている! 行き場のない性感帯など必要なかった! 知らなければよかった! 知りたくもなかった!
「マジうける」
 けらけら笑うお坊ちゃんに俺の奥歯がギリギリと擦り減っていくのであった!




完!


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