ライン



 夜明け前の薄暗闇の中、泥中で身じろぐような不自由さで寝返りをうつ。
 覚醒の予感と共に目覚めた頭痛は徐々に痛みを増して目を開くことを阻む。
 もういいか。なにが。分かりもしないがそう思う。もういいや。どうだっていい。眉間に集まる苦しみに気付かないふりをしよう。このままでいい。これよりもっと酷いことばかりなんだ。
 漠然と漂う‘自分’の断片が形を作る前に眠りのまどろみへ帰ろう。

「おはよう」

 え?
 半停止していた脳みそが疑問という活動のため目覚めてしまった。貼り付いた上下のまぶたが意思に反してパチッと開く。

「あはは、すごい機嫌悪そう。起こしてごめんね」
 寝苦しそうだったからさ、と男は俺を覗き込んで言う。
「いや……」
 別にいい、と答えようにも眼球の奥、頭の全部がギリギリ痛む。きつく目をつぶったらもうまどろみは戻ってこなかった。
「すごい汗。シャワーしてきたら」
「ああ……」
 うめき声のような声が出た。ふらつく足で浴室へ向かう。無意識の動作で時計を見る。六時半。残り三十分。熱い湯を浴びているうちに頭痛はいくらか治まった。
 シャワーを浴びて髪を乾かしワイシャツに腕を通す。台所から水が腐ったにおいがする。今日何曜日だっけ。どうでもいいか。自炊しないから生ごみもないし。腕時計をはめて家を出た。
 左目の端でホームに入線してくる快速電車を見た。風が吹く。サブリミナルのように次々と流れていく窓に映る俺に足はあるか。ないか。知らんまま、隙間もない車両に片足をかけて身体をねじ込んでいく。
 ぼんやりと人の動く流れに合わせて降車したり乗車したりしているうちにオフィスにたどり着く。エレベーターを待つ間、セキュリティーカードを首にかける。一体なにを守っているんだろう。ぼんやりとした疑問に思考を用いずセキュリティーカードを解除機に押し当てる。
「おはようございます」
 誰にともなく声をかける。一瞬、なにか思い出しそうになって、しかしすぐに上司の不機嫌な声に意識が塗りつぶされる。
「あれどうなった?」
 知らねぇよ。
 パソコンが立ち上がるまでに高まっていく上司の苛立ちに言葉だけの謝罪を返す。
「もっと早く来れないの」
「すみません」
 まだタイムカードも押してねぇよ。などと言えるわけもなく、型遅れのウィンドウズの起動画面を眺める。
 毎日。高々週五続く日を毎日でくくってしまうのは、土日になんにもしなかったからだろうな。
 始業の鐘が鳴る五分前に出勤の記録をつけるため席を立つ。セキュリティーカードを機械に押し付けるとおはようございますとかすれた音声が流れる。一体なんのためにこんなことをするんだろう。
 今月はこれ以上残業できないから終業時刻に同じように機械にお疲れさまでしたと言われ、仕事に戻る。上司が帰ってからの二、三時間が一番仕事が捗る。なんて思うあたり俺も大概狂っているな。
 こんなバカバカしい会社にいつまでいるんだ。こんなバカバカしい会社しかなかったじゃないか。今俺はいくつだっけ。俺になにができたっけ。毎日毎日、俺は一体なにをやっているんだっけ。夕飯どうしよう。
 駅の階段を降りながら、毎日同じことを考えているな、と気付く。気付くだけだ。どうする気もない。
 朝と違い三分刻みで来ない電車を待ちながらぼんやりしていると向かいのホームに立つ人が俺に向かって微笑んだ気がした。中身のない俺の中身を急に覗き込まれた気がして思わず視線を向ける。アニメのラッピングがされた電車が視界を埋め尽くした。別にどうでもいいか。開く扉に意識をやれば一瞬の気のせいは跡形もなく消え去っていった。
 本日は電車が遅れ申し訳ございませんでした、と車内アナウンスがかかる。電光掲示板に人身事故の文字が流れていく。どうせ今日もなか卯で飯を食って帰るんだろうな。
 いつもより混んだ電車の中でぼんやりと思う。毎日同じものを食べて平然としている。毎日同じことの繰り返しを平然と行っている。俺は立派な大人になれているのだろう。知りもしないが。


 音も立てないかすかな手つきで誰かが俺の身体を撫でている。拍動に似た緩やかさで腰のあたりをとん、とん、と叩く。
「もう朝だよ」
 嘘だ、だって、眠った記憶がない。
 意識は覚醒しているのに目が開かない。頭がなまりのように重い。
「今日も会社行く?」
 行くよ。仕方ないんだ。なんでもないんだ。考えることはないんだ。疲れているんだ。また仕事を探すのはしんどい。また一から仕事を覚えるのがしんどいんだ。また一から人間関係の中に入るのがつらいんだ。嫌で嫌でしょうがない毎日以上にめんどくさいんだ。怠慢をこじらせて死ぬまでこれでいいんだ。俺はもうどうでもいいんだ。
「おはよう」
 誰だ。
 まぶたを開いた先には誰もいない。こじ開けた目が痛い。スマホを見れば六時半。残り三十分。
 いつまで経っても治まらない頭痛のために鎮痛剤をのむ。水もなく飲んだせいか喉に貼り付いて、あとからいくら水を飲んでも違和感はなくならなかった。
今日何曜日だっけ。何日だっけ。なんにも分からないのに仕事へ行く。
「こんな資料で俺になにを喋れっていうんだ」
 やり直せ、と突き返された会議資料をわきに置き、取り急ぎ資料の修正を行う。会議まで残り三時間。三時間分の仕事が押していく。
 フォーマットの見直しを? 別データの洗い出しから? 今から行えと言うのか。
「まだできないのか」
 簡単に言ってくれる。指を的確に動かし、どこからどのデータを引っ張ってくるか、どういう形で作表するか考える。上役の思い付きを形にするために、理解できる形にしていく。
「もういい、さっきの資料出せ」
 言いつけ通り添付した新データは思い描いていたグラフを描かなかったからか不要になる。掘らせた穴を埋めさせる拷問があったな、どこかに。
 上役が会議へ行ってる間に昼食を済ませ、午後は会議のフィードバック対応に終始することだろう。こんなことの繰り返しを何十年と続けていくのか。誰が。俺か。
 駅のホームで立ち尽くしている。夕飯を食べなければいけないのか。食べなくてもいいか。線路へ飛び込むか。それなら俺は恋がしたい。は? 誰が。俺か。
 実感のない欲望について考える。セックスよりももっと単純に、俺は人と会話がしたい。
 というよりも、セックスに至るまでの道が億劫なだけか。好意のパワーバランスを探り合うようなやり取りが面倒くさくてたまらない。
 数少ない友人たちは結婚したり彼女がいたりで昔のように誘えなくなってしまったから、きっと人恋しいだけだろう。彼女が、嫁が、と言われるたびに彼らは人間だったのか、と訳の分からない驚きにつまされた。ならば俺は人間ではないのか、とは思わないが。
 ふと向かいのホームに目を向ける。向こう側に立つ男と一瞬、目が合った気がした。
 ああ、思い出した。
 内容よりも先に実感がきた。言葉にならない感覚に言葉を与え、存在に形を与えていく。
 あれは、夢か現か分からない時間に俺を優しく起こす男だ。今までずっと忘れていたのだから夢なのだろう。何故、そんな夢をみたのだろう。彼のことはなにも知らないのに。
 ぼやけていた印象が輪郭だけ重なった瞬間、ホームに電車が滑り込んでくる。けれど俺は乗車を見送った。向こう側にいる男をもう一度見たかった。
 ドアが閉まります、ご注意ください。
 視界を遮る電車が過ぎて、向こう側には誰もいなかった。これも俺の夢だというのか。


 夢から覚めたあと、もう一度同じ夢を見られないように、男の幻は二度と俺のもとに現れなかった。


 男の幻を失ってから、俺は恋について考えるようになった。俺の求めるものすべてを彼が与えてくれる気がした。実体のない幻想はどれも俺を救う未来に思えた。
 ホームの向かい側のベンチに座ったのは救われたい一心だった。緊張したのは初日だけで、けれど都合よく男が現れることはなかった。
 学生時代から変わらなかった髪型を変えた。俺は俺の現実も変えたかった。こちら側へ行けばなにもかも変わると思っていたのだ。
 数日、そんな日が続いた。彼は現れなかった。
 妄想に生きすぎているな。俺には最低な現実しかない。バカバカしい、もうやめよう。疲労に痛む脚を伸ばしてベンチを立とうとした。
 目の前に印象と輪郭だけの男がいた。黄色い線の内側で線路を眺めている。
 心臓は強く高鳴っている。運命、などと恥ずかしくも感じている。彼は俺に気付くだろうか。驚くだろうか。俺は彼に何と言おう。え?
 彼は俺に気付かない。俺も彼に言うべき言葉がない。俺の夢の中で俺を起こしてくれましたよね、などと言えるわけがない。なにか不思議なファンタジーで都合よく俺を救ってくれるわけもない。
 夢から覚めた。そうとしか言いようがない。どうしてなんの根拠もなく彼が俺に気付き、一方的に俺に都合のいい言葉をくれるだなんて信じていたんだろう。
 失恋のような喪失感がある。失恋なのか。俺は妄想の中の彼に恋をしていた。
 帰ろう。向こうのホームへ。彼は俺に気付かない。当たり前のことに俺は気付いた。
 まもなく電車がまいります。
 ふいに彼の上体が揺れた。ほんの気のせいと思えるほどかすかに。その足が黄色い線を踏む。黄色い線の内側が安全だなんて限らないけど。踏み越えた先に未来がないのは分かりきっている。
 衝動的に彼の腕をつかんでいた。振り返った彼は驚いた顔をしていた。心臓が緊張に縮まる。彼にしてみたらいきなり知らない男に腕を掴まれたのだ。
「あ……すみません、危ないと思って……」
 絞りだした声は羞恥に震えた。今すぐ逃げ出したかった。
「すみません……、俺」
 そのまま走り去ってしまいたかった。彼は小さくなんで、と言った。頬が熱くなる。彼の求める答えが分からなかった。
「あの……」
「なんで、分かったんですか」
 彼はうつむいて小さな声で言った。俺の気のせいじゃなかったんだ。急に世界のすべてがひっくり返った気がした。
 彼は飛び込もうとしていた。それは俺が彼に抱いていた妄想の姿とはかけ離れていた。
 さっきまで座っていたベンチへ彼を促す。ぽつりぽつりと語る彼の現実は俺には分からなかった。俺の生きる辛さとは違う辛さを彼が生きているのだということだけ分かった。電車は何本も入線しては去って行った。
「誰かに気付いてもらえるなんて思ってなかった」
 俺も自分が気付く側になるとは思っていなかった。けれどその誤算は決して不快ではなかった。
「おなか空いてない?」
「ちょっと」
「食べ行こうか」
 明日も朝は早い。だからどうした。終電が何時だか調べていない。別にいいだろう。彼はかすかに微笑んで頷く。それだけでなんだかとても嬉しくなった。
 俺は妄想の中の彼に救われたかった。慰められたかった。許されたかった。けれどそれは俺にもできることだったのだ。
 そんな簡単なことに気付いて、世界は少し広がって見えた。
 今日以降、彼とはもう二度と会わないかもしれない。親友になるかもしれない。恋人になるかもしれない。どんな可能性も残っていて、きっと想像以上のことも想像通りのこともあるのだろう。どんな未来も誰かに委ねる必要はなかった。
 彼におはようと言える可能性だって存在している。想像以上の自分だって、知らないだけで存在しているかもしれない。黄色い線の内側に引き留めた彼の未来が素晴らしいものになるように、俺はなんだってしたいと思えた。




(18.10.28)
(J.GARDEN45発行)
置場