運命的



 運命には逆らえない。
 そんなありふれた言葉になにも思わないほど運命なんて俺には関係のないものだった。
 映画やドラマの中で描かれる運命は特別な才能を持った人々の人生や、オメガでしたとかアルファでしたとか、ごく限られた性を持った人々の激動の恋物語がほとんどだった。
 俺には特別な才能なんかないし、もう一つの性が目覚める兆しもなかった。つまりごくありふれたベータだ、ということだ。
 およそ三十年前、もう一つの性別としてアルファ、ベータ、オメガの三種が政府によって認定された。症例が医学会で報告されたのはそれよりももっと遡る。
 ごく一部の人たちにだけ知られていた第二の性が明るみに出たのは女性の出生率の減少が一般のレベルまで認知され始めた頃だった。
 女性が生まれなくなるのに比例してオメガ性を持つ男性が生まれ始めたのだ。
 男の身体で出産が可能なオメガ性に対し政府民間までが注目を始めた頃、オメガ性の体質を理由とした差別や犯罪が横行したが、色々あって国による第二の性の認定、保護政策の実施、なんだかんだあって三十年。それはもう当たり前の認識として根付きはじめている。
 生まれながらもう一つの性が明らかな人もいれば思春期に兆す人もいる。とはいえほとんどが俺のようになにも目覚めないベータ層だから未だ一部では差別もあるとかないとか知らんけどそんな感じらしい。
 らしい、と言うほど俺には縁のないものだった。
 運命なんてなくたって生きていける。この世のほとんどの人間はなんでもない人生をなんでもなく生きていくのだ。頭ではそう思う。けれど心のどこかで運命にからめとられたいと願う自分がいる。
 上にも下にも突出しない、いてもいなくても構わない、誰でもいいうちの誰かに過ぎない俺が望むにはあまりに夢を見すぎているけれど。

「でもなんかそういう、運命のつ、つがい? だっけ? そういうの」
 ちょっと良くない? みたいな話を安澄にした。なんでそんな話をしたのか自分でも分からない。話の流れもあっただろうが、感傷的にもなっていたのだろう。共通の友人に恋人ができた矢先だったのだ。
「つがいっていうの、今差別用語だよ」
「え、そうなの?」
「パートナーでいいじゃんって感じ、世間的に」
「へー、まあよく分かんないもんな、つがいとか」
「検索したら」
「いや、いいや」
 ふーん、と気のない息を吐いて安澄はスマホの通知に目を向けた。俺もつられてスマホを見る。アプリゲームがスタミナ回復を知らせていた。安澄はなにか文字を入力している。ゲームからの通知ではなく人からの連絡なのだろう。
「なんか、なんかさ、俺って絶対ベータじゃん。しかもモテない方っていうか、なんかさ、絶対、女の子と付き合えるわけないし、ベータの男って生涯独身も多いっていうじゃん。なんか、なんかさ、なんか、さ、寂しいっていうかなんか、ちょっと、どうなんだろう俺って思って」
「子供ほしいの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
 誰かと絶対的なつながりがほしい。それだけなのかもしれない。
 それだけ、なんて簡単に言えるようなものじゃないのも知っている。
 安澄はぐるりと首を回した。つまらない話だろう。
「アルファとオメガじゃなくたって運命? あるんじゃねーの」
「それはさ、お互いの了承のもとっていうか感情的なやつじゃん。そうじゃなくて、もっと、絶対絶対絶対みたいな絶対的なやつがさ」
「絶対絶対絶対みたいな絶対」
「なんか俺恋愛とか分からんし上手にできんし」
「諦めんなよ」
「諦めてねぇよ」
「なんもしてないくせに」
「なんもってなに? なにしたらいい?」
「俺がやろうか、絶対絶対絶対とかいう絶対的なやつ」
「えっ、は、友達じゃん俺ら」
「あっそ、じゃあいいやこの話はおしまい」
「えっ、待って待って待って分かんない」
「友達とは嫌なんでしょ」
「だって、友達だし急にそんな言われても」
「自分で終わらせてんじゃん」
「えっ……、そ、そういうことか! そ……、え? ちょっと、分かんない……」
 友達だけど運命のつがい? パートナー? なんかそういうのになれる。それはそうか。だって運命ってそういうものだしな。
 でもそれって友達は継続できるのか? いや、それよりももっと重要なことがある。
「俺のこと好きなの……?」
「好きだよ」
「え、軽っ」
「おまえ俺が好きだっつっててこれ以上なにを望むんだよ」
「なにもかもが急で理解が追い付いていないというか」
「来週三連休空いてる?」
「えっ、急っ。空いてるけど」
「じゃあ俺んち集合な」
「え、なになになに」
「うるせぇ、デートすんだよ」
「ええ、ちょっと待って待って」
 安澄は話についていけない俺を置いてでさーってもう違う話を始めている。待ってよ。俺を置いていくなよ。サイゼのコスパ最強メニューの話ってなんなんだよ。今そういうテンションじゃねぇよ。
 とはいえ会話は水物で、次第になあなあになっていった。なあなあになっていることに帰宅後寝る前に気付くほどになあなあに流れた話ならあれは冗談だったんだろうと俺は安らかに眠りについた。
 翌週ラインにマップ付きで住所が送られてきてマジかぁと声に出してしまったほど、安澄の言葉を本気にしてはいなかった。
 彼氏ができてしまった。そして俺も彼氏になってしまった。こんな簡単なことなのか。今まで生きてきて恋人など一人もいたことがない。皆が軽々に言う出会いの意味も分からずに生きてきた。それがどうだ。こんなにも簡単に恋人ができてしまったではないか。
 嘘みたいな話だが、案外こんなものかもな、なんて思ってもしまう。安澄の真意をはかろうにも手掛かりはあのふざけた会話と自宅へのマップだけで、これだけを根拠に真実へたどり着けるとも思えない。
 まあ、行けば分かるだろう。と実践主義のようなことを思うが単なる思考停止だ。安澄がどういうつもりなのか、俺はそれに対しどう振る舞うのか、すべて明日の自分にお任せした。

 安澄に指定された三連休の初日、自分のスタンスは決まらなかったもののそもそもは友達である、という関係性を思い出し友達の家へ遊びに行くつもりで行くことにした。
 スマホ片手に安澄の家を探す。最近引っ越した、と言っていたが住所近辺は妙に高級なにおいがして間違いではないかと何度も地図を見直した。
 指定されたマンションを見つけたが、俺ら同世代の一般的な収入から見て背伸びどころではないレベルのマンションだった。事故物件だろうか。怖っ。
 マンションの外観を撮影し、着いたよとラインする。もし間違っていたらそこじゃないと返事があるだろう。と、思ったのも束の間、上がってきてと即レスがくる。ここで正解なのか。こんなすさまじいマンションにおまえは住んでいるというのか。
 言われた通りオートロックを通過しエレベーターに乗る。オフィスや商業ビルでしか見たことがないような階数が平然と並んでいる。大丈夫か俺。得体のしれない不安がもやもやと立ち上がってくる。友達だと思っていた男のことを、俺はなにも知らなかったのだろう。俺の知っている安澄は安澄にとって何パーセントなんだろう。俺は今日今まで知らなかった安澄のことを知る。知らない割合が増えれば増えるほど知らない人に近づいてしまうような気がする。俺は人見知りだ。
 耳がキーンとなるほど上がった先に恐る恐る踏み出していく。フロアに扉は一つしかない。まさかそんなことがあっていいのか。
 違うエレベーターに乗ったかも、とラインを送ると違うエレベーターってなんだよと返事がある。俺にも分からんが違うエレベーターの仕業なのだ。でなければ実家住まいでもない引っ越したての俺の友達が見るからに高級なマンションの最上階ワンフロアに住んでいるなんてありえないだろう。
 迎えにいくわ、とラインがきて間もなく、フロア内にたった一つの玄関が開いた。
「あ? なんだ正解のエレベーターだったんじゃん」
「そ、そぉみたい、へへ……」
 高級マンションの住人はもう普通に部屋着で出てきた。日常って感じ。当たり前って感じ。そこで俺のキャパは越えてしまったんだろう。
 促されるまま上がった部屋も映画のようなおしゃれな部屋で、目の置き所もなく目玉はぐるぐる動いていた。家主はキッチンで湯を沸かしている。これはお茶を出される流れだな。カバンの中に飲みかけのお茶が入っているがこの部屋ではとても出せそうにない。
 座って、と言われようやく自分が立ったまま一歩分の空間を行ったり来たり足踏みをしていたことに気付いた。安澄はトレーに茶葉が躍る透明なポットとカップを載せて視線で俺にソファを促す。
 この部屋に俺の共感がない。一人暮らしを始めてからどころではない。生まれてから今までの生活を振り返ってもこんな部屋、こんな家具、こんな透明なポット、なに一つなかった。
「紅茶? すごいね」
 なにがすごいのか分からないまま言う。
「ハーブティーだけど苦手?」
「ハーブティー飲んだことない」
「ちょっと癖があるかも」
「あー」
 あーって。言う程度にはこの会話の一つも分からない。
 ソファに隣り合って座りハーブティーを飲む。初めて飲むハーブティーの味は飲めないこともない味だったがこの部屋に来てから終始感じている分からなさを凝縮したような分からない味だった。
 温かいお茶を飲んで体内が温められたからかそもそもなんで来たんだっけ? と考える余裕が出てきた。安澄を見遣ればソファに深く身を預けこちらを見ている。なんで見ているんだ。そうは思うが反射で顔は笑顔を作る。コンマ秒の違和感がふと立ち現れた。
「具合悪い?」
 妙に気だるげな様子といい、いつもの切れが感じられないトークといい、なにより顔が赤く、目も潤んでいるような気がする。
「分かる? 今ヒートきてるんだ」
「ひーとってなに?」
「オメガの。知ってんだろ」
「ああ、あのヒート! えっ!」
「そぉ、オメガなんだぁ俺」
「ええっ、あ、ええっ、そ、う、ええっ」
「まーオメガの本能? みたいなのはだいぶ軽い方で抑制剤飲んでればヒートも別に症状でないんだけど、今回は飲まないでみた」
 なんでか分かる? と安澄は俺の目をのぞき込む。正直全然分からん。なんでだ。なんでか分からんけど安澄は俺に欲情を向けている。そういうことなのか。そういうことなのか。そういうことなんだな。これがそういう流れなんだな。
 安澄の顔面が近付いてくる。身構える間もなく唇が触れた。舌がぬるっときた。熱があるせいかハーブティーのせいか、安澄の舌は妙に熱く感じる。
 顔面の近さにビビッて目を閉じる。手はどこに置けばいいのだろう。安澄の手は俺の頬に触れ、後頭部を撫で、首や肩や背中をあやしていく。安澄の手からもたらされる心地いい甘やかしが覚束ない口腔内で舌を絡めあう最中に時折ひらめく性感を高めていく。段々押し倒される上体を支えるため腹筋に力を入れる。いや、腹筋は無理だな。ソファに肘をつく。頭が変なとこいく。息が苦しい。
「あっ」
 唇が離れた瞬間、身体を引き起こされて安澄の腕の中にいた。
「ベッドいこう」
 聞いたこともないような押し殺した声に震えが走る。こんな風に性欲を向けられるのは初めてで、恐怖なのか優越なのかもあやふやな名状しがたい感情が腹の奥で渦巻いている。
 アホほどクッションを並べたベッドの上で安澄の熱いてのひらが物慣れない素肌を暴いていく。キスをして、互いにちんこを扱きあって、しかし初心者の俺とヒートの熱に突き動かされている安澄との間には歴然としたテンションの差があった。
 これがオメガのヒートなのか、と慄きながら自分が紛れもないベータなのだとかすかに寂しさも感じた。アルファにはオメガのヒートに対する感受性がある。俺には物語で見た実は、なんてこともないのだ。きっとずっと安澄のヒートの全部を理解できないまま気持ちよさに翻弄されていくのだろう。
 俺は安澄の運命の相手じゃない。それは安澄も分かっているだろうにどうしてこんなことをしているんだろう。
 太ももの内側に指が滑る。大丈夫、と安澄は俺の前髪を梳いて問う。大丈夫かどうか。きっと一般的なオメガは抱かれることがほとんどで、抱くことはあまりないだろう。運命同士じゃない俺達にはお似合いのちぐはぐなのかもしれない。
 だけどこれでいいのだろうか。
「俺、自分の気持ちが分からないっていうか、流れのままにここまできたっていうか、いいのかなっていうか」
「俺が好きなんだから問題ないだろ」
「す、好きって……ほんとに?」
「なんで嘘つくの?」
 額がつくほど顔を合わせ甘ったるく微笑まれては昔から好きだったような気がしてきてしまう。前からずっと好きだったことにしてしまおうか、もう。そうすれば俺たちは幸せになれるのか。
「だけど俺、興味本位だけだよ」
「それでいいよ」
 いいわけないのにそれでいいと言う。オメガに生まれた運命から逃れようとする安澄と、運命に身を委ねたい俺と、無理やり赤い糸を結び付ければ運命が生まれるのだろうか。
 ゆっくり近付いてくる唇に薄く唇を開き差し出す。まつげが交わる距離にいるのに俺たちはお互いのことをなにも分からないままセックスをする。
 与えられる未知の快楽に陶酔し、開いていく脚の間に安澄がおさまる。
「大丈夫?」
「はやく」
 安澄はかすかに笑ってペニスの先を俺のアナルにあてた。熱く先走りに濡れるそれが焦らされ通しで辛いのを俺だって気付いている。
 ゆっくり挿入しようとする安澄をせかすように腰を突き出せば焦らないで、と余裕めかして言いながら深く劣情のこもった息を吐いた。
「あっ、あ、んっ」
「痛い?」
「へいき」
 平気だと言っているのに安澄は腰を止めてまた深く息を吐く。オメガと違いベータの身体は挿入を助けるために濡れたりはしない。わが身をもってオメガの身体を知っている安澄だからこそ、その不自由さに慎重になるのだろうか。また腰を突き出せば安澄も観念したのか深く腰を突き入れてくる。
「いっ……、んっ」
 少しでも痛む素振りを見せたら安澄が止めそうで、しかし繋がっているところの緊張にすぐに気付かれてしまいそうで、止めてほしくなくて、気持ちよくなってほしくて、俺は安澄の背中に腕を回した。
 抽挿の深さが増して、速くなって、宥めるように身体のあちこちを慰める安澄の手の優しさに、俺の身体は緊張と弛緩のあわいを行ったり来たりする。それが呼吸となって性感を深めていく。
「俺に全部ちょうだい」
「俺もほしい、全部」
 快感で身も心も塗りつぶされたみたいになる。安澄がうなじに唇を寄せる。ハッと息が詰まる。俺と安澄の間ではまったく意味のない行為にすぎない。それでも身体中から歓喜が溢れそうなくらい俺はそのごっこ遊びが神聖なものに思えた。
 うなじに歯を立てられた瞬間、想像していた以上の痛みを感じたが脳天まで突き抜けるような快感に身体が震えた。
 反射的に締め付けたせいで安澄も息をつめ吐精した。こんなに出るのか、というくらい深いところで放出される。すべて出し切ろうと腰を押し付け、噛みついたうなじを慰めるように舌と唇で愛撫をやめなかった。
 運命の外側で俺たちは気持ちいいだけのセックスを延々やっていくのだろう。良いか悪いかなんか知る由もない。
 安澄とキスをする。安澄の黒目に映る俺がどんな顔をしているのか知りたくてじっとのぞき込む。輪郭の詳細をつかむ前に安澄は目を伏せて笑った。俺の真剣な顔が面白かったそうだ。他愛ないことで笑う顔がいつもと同じで俺も笑ってしまう。
 運命でもない、友達でもない、恋人のような、絶対絶対絶対的ななにかになれているのだろうか。答えを誰かが与えてくれるわけでもない。
やたらあったクッションがほとんど落ちた広いベッドの上で俺たちは怠惰な遊びに興じていた。





(21.7.29)
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