「おまえスーツ持ってないよな」
木曜日、俺んちの猫をセカンドバックがごとく小脇に抱え我が物顔で部屋に入ってきた男は当然という風に言い放った。言うまでもなく答えは一つだ。
「持ってませんけどぉ!」
「冠婚葬祭は制服で行けると思ってる顔してるよな」
「行けますけどぉ! そう聞いてますけどぉ!」
冠婚葬祭に制服で行けないなら制服なんてなんの意味があるのだ。毎日の服選びからの解放? すっごいありがたい。なんなら休みの日も制服で許されたい。休みの日に遊びに行くことも最近はめっきり減ってしまったけど。
俺の答えを聞いた春原はこれ見よがしに溜息をつく。小池、とそこにいない執事に呼びかける。
「はい」
「ひぇっ」
そこにいないはずの小池さんはそこにいた。春原が開け放ったままの扉の隙間から目が合った。気配がなかったがこれは俺の油断のせいなのだろうか。
「失礼いたします」
礼儀正しく言って部屋に入ってくる。小池さんの後ろには見慣れぬ男女が二人。
「脱げ」
「は?」
「お脱ぎ遊ばして」
「いやっ……」
「さっさとお脱ぎになって」
「ええっ?」
春原の傲岸不遜な物言いに食って掛かろうとした先から矢継ぎ早に男女が言う。どういう状況なんだこれは。
「採寸いたしますわ」
ピッとメジャーを繰り出して男が言う。
「もたもたしている場合じゃなくてよ」
どういうことなんだ。スーツ? スーツ持ってないとかいう話の流れ? っていうかどういうキャラの人たちなのこれ。春原はと目を向けると床に這いつくばって猫目線で犬丸をじゃらしてる。飽きてんじゃねーよ俺に。
「スーツってなに?」
「えぇっ! スーツをご存知ない? お姉さま、そんな人類がおりまして?」
「ジャージしか知らない若者かもしれなくてよ弟よ」
「知ってるわスーツくらい!」
春原に訊いたものの春原からの応答はなく陽気な姉弟から茶化される。なんの時間なんだこれは。
「来週、パーティがあると聴いておりますわ」
「ぱ、ぱーてぃー」
「そのためのスーツを誂えたいとのご依頼ですわ」
「来週って急だな」
「そうですの急ですの。なので四の五の言わずにさっさとそのダルいパーカーをお脱ぎになって寸を測らせなさい」
「え、いや、ちょっと待って……! あっ!」
という間もなくパーカーに手がかかる。ベルトが外される。仮にも忍者相手にどういう手際なんだ一体。
「あら意外と鍛えていらっしゃる」
「オーダーメイドで正解ですわ」
嵐のような姉弟に採寸されている最中そよ、と風を感じる。窓辺には犬丸を抱えた春原がいる。どたばたと埃が立っていたからか。窓を開け猫と一緒に外の風景を眺めている。なんと平和なことか。軒先のおばあちゃんみたいだ。
あれよという間に身体の四方八方にメジャーを当てられ、オーケィ! という姉の声で二人の仕事は終わったようだ。嵐のように訪れたとは思えない潔さで帰り支度を済ませると痕跡一つ残さず帰っていった。
後に残されたのはパンツ姿の俺と犬丸を抱えた春原だけだ。
それから一週間、パーティとやらの詳細はなにも聞かれず、恐らく護衛任務なんだろうなというぼんやりとした把握で過ごしていた。護衛なんていって春原は一介の金持ちの家の高校生で国の要人というわけでもない。なにか特別警戒するようなこともなかろうというわけだ。
そして土曜日、正午の鐘が鳴るとともに嵐のような姉弟が再び現れたのだった。
「ごめんあそばして」
音もなく扉を開けて姉の方が言った。一体どこの地方の言葉なんだ。
「出来上がりましてよ」
弟の方がキャスター付きのハンガーラックを伴って入ってくる。後ろには見知らぬ女性が二人いた。ちょっと人見知りする。
「サッと着ていただいてサッとヘアメイクを済ませますわ」
「へ、へあめいく」
「ひらがなで喋れば可愛いと思ってらっしゃる?」
「すみません」
戸惑いを可愛さで誤魔化せる気がしたがそんなことはなかった。
「春原は?」
「今着替えをしていただいているところですわ」
「そうですか……」
別に春原などいなくて構わないがまったく知らない人たちの中でどんな風に振る舞えばいいか分からず若干緊張する。言われた通りサッと着替えてしまえばいいのだろうが。
じゃあ、とハンガーラックに吊るされたシャツを手に取る。
「えっ……」
「なにか?」
「出てって」
「まぁ、お気になさらず」
「気になるわ! 出てって!」
まあまあ、などといかにも俺がわがままを言っているような素振りで部屋を出ていく。思春期なめてんのか。
人払いを済ませ早速シャツに袖を通す。正直ちょっと楽しみにしていたりもする。スーツなんて記憶にある限り着たことないし。七五三で着せられていたのを写真で確認したことはあるがあれは俺の意志ではない。今回も別に俺の意志ではないが。
シャツの袖に腕を通したときからあら、と気付いてはいたがボタンを留めるとなおこれは違うなと分かる。なにか知らんが柔らかく、それでいてパリッと感も損なわれていない。フィット感というやつだろうか、変にもたつくこともなくしっくりくる上に腕の稼働を邪魔しない。これがオーダーメイドってことなのか。
ズボンに脚を入れて、ジャケットに腕を通して、その都度都度にこれがオーダーメイドか! と謎の感動がある。ひとまとめにされた小物類を見ていくがよく分からないものも多々ある。ベルトは分かる。ベルト通しを一つずつくぐらせ締める。ネクタイも分かる。分かるだけだ。このひも状のものをどうにかすると丸っとした結び目の下に残りの帯部分が垂れる仕組みだ。どういうものかは重々承知している。構造がまったく分からないだけで。
今の高校はネクタイにブレザーが制服だが俺だけ転校前の制服を着ているので未だ学ランなのだ。そのせいでネクタイのことをなにひとつ分からずここまで生きてきてしまった。というかなんで学ランのままなんだよ俺は。学ランハラスメントなのか。学ハラか? 知らんけど。
ネクタイの結び方が分からず詰んでいるがここはひとつ可愛く分かんないと言えば誰かが結んでくれることだろう。納税者など男子高校生が可愛げを見せればコロッといくに決まっている。可愛げの塊である俺ならなおのことだ。
そっと部屋の扉を開ける。もちろん可愛げを込めてのことだ。守ってあげたくなるタイプ的な開け方でまず顔をちょっと覗かせる。多分その方が可愛いからだ。
「着替えたんですけどぉ」
語尾も伸ばしがちでいく。可愛さとはそういうものだからだ。
「遅いんだよ」
「あ? げっ、……かっ」
春原だ。スーツを着て前髪を上げた感じでシュッとしてかっこいい。思わずかの字が口から飛び出してしまったほどに。しかし俺と春原は別に友達ではないのでお互い揃ってカッケーじゃんなどと言い合うことなどありはしない。というか春原がお世辞でも俺を褒めるとは思えない。
バーンと遠慮杓子もなく扉を開けて春原他多数の人間が部屋に入ってくる。部屋の人口密度的にもうキャパオーバーだ。
「ネクタイは?」
言われてハッと思い出す。そうだ俺は可愛さを盾にネクタイを結んでもらおうと思っていたところだった。
「ねくたい……」
春原相手に通じるとはとても思えないがひらがなで喋れば可愛いはずなのでワンチャン言ってみる。春原に通じずとも脇にいる誰か納税者のうちの一人が察して可愛い! ネクタイ結んであげる! なんてことになることを狙っている。
「は?」
あ、ダメそう。春原にまったくひらがなが通じてない。それどころか脇から誰か出てくる様子もない。
「ネクタイの結び方が分からない」
「そういう顔してるよな」
どういう顔だよ、と食って掛かりたいところだが完全に事実なのでぐうの音しか出ない。春原といえば俺がぐうなどと異音を発していることに触れもせず貸せ、と一言言って俺からネクタイを取り上げる。まさかおまえにワンチャンあるというのか。軽口のひとつも叩きたいところだが人の心を垣間見せた春原の気まぐれを尊重し黙っていた。まさか選挙権もない人間が男子高校生に優しさを見せるなんて思いもしなかったのだ。
ネクタイ片手に俺の襟を立てる。首裏にネクタイを通し長さを調整している。右と左の帯をくるっとしたと思ったら戻し、くるっとしたと思ったら首を傾げている。えっなにこれ無意識でやってんのこいつ。可愛いとこあんじゃん。いや、ええ……? 可愛いのかなこれ。
「できないんじゃん!」
「できるわ。他人のネクタイなんか結んだことないんだよ」
思わず大きな声が出たが春原は気にもせずはいはい分かったと俺の首元を注視したままネクタイの結びを完成させた。できんのかよ。
持ち込まれた全身鏡に姿を映す。ちょっと思ってた以上にシュッとしててあれ、俺結構いけてるんじゃないかと緩みそうになる口元を引き締めてふーんって態度で角度などをつけてみる。丈の確認をしていますという体で半身を返してみたりする。ほーん、って感じ。
「就活生かよ」
「フレッシュ感あるよな」
「褒めてねぇよ」
褒めてるだろうが。口を開けば憎まれ口しか出てこないヤツだが、スーツの似合いっぷりに関してはなかなかのもので喋らなければアイドルか俳優かというくらい様になっている。元々不必要に整った顔をしているところに感じよく前髪をセットしてデコを出しているものだからちょっと大人っぽくもある。
俺もあんな風にいい感じにされてしまうのかしら、とソワソワしていたが毛先を多少遊ばれたくらいでセット完了となった。もっと冒険してもいいんだぜ、という気持ちを残しつつ毛先で遊んだことなどない俺からしたらこんな自分も結構ありかもという気になる。自分で再現できるとは思わないが。
「もっとこうさぁ」
春原の指先がデコをなぞり、スッと流れていく。
「七三みたいな感じで……」
「いーやーでーすー」
「七五三みたいな感じで……」
「いーやー」
「アームカバーつけてる感じで……」
「毛先を遊ばせたスタイルが俺って感じするし」
「もっとダサくてもいいかなって」
「俺と会話しろや」
さっきからずっとヘアセットしてくれたお姉さんと話しやがって。
お姉さんは手際よくシュシュっと俺の髪を濡らすとドライヤーと電熱棒のようなものを駆使しあっという間にしっとりとした真面目ヘアに整えてしまった。
「あとこれ」
と渡されたのは黒縁の四角い眼鏡だ。
「うそ……」
度のない眼鏡をかけて鏡の前に立つ。完全にクライアントが希望する通りのアームカバーつけてる感じになっている。ほんの一瞬現れた遊ばせスタイルの俺は完全に消え去りちょっと勉強できそうな俺がいる。これはこれで、という気がしないでもない。ダサくされたはずなのに見慣れない自分の姿に妙に浮き足立ってしまう。
「どう?」
などと訊いてしまう。どうせ悪態が返ってくるだけと分かっているし俺と春原でやだー似合うーなどと言い合うことは万にひとつもないのだが浮かれ気分が声に出た。
「いいじゃん」
「……あ、そう?」
えっ、意外。いいじゃんとか言うのかよ。意外と言う感じなのかよ。マジか。マジかぁ。さざ波のように動揺が口をもつれさせる。
「そっちもいい感じ、じゃん? 似合ってる……」
なんて言ったらいいか分からないまま正直な気持ちを伝えようと口が動く。気恥ずかしさは後からやってきた。
「は、キモ」
はぁ、とひとつ息を吐く。分かってた。分かってたんだよなぁ俺。全部分かってた。全然可愛くねぇってこと普通に知ってた。
春原は行くぞ、と言うなり部屋を出ていく。さざ波のように沸き立つ怒りをグッと飲み込む。俺はプロの忍者だ。一時の感情に流されたりはしない。
「ばーか!」
先に出た春原を追い抜いて家の前に横づけされた長い車の扉を開ける。これからパーティーに行くのだ。自分だけオシャレかっこよくなっておきながらなおかつ俺を七三眼鏡スタイルにして引き立て役にしようという根性が気に食わない。言うて七三眼鏡スタイルでも結構イケてる俺ではあるが。
長い車の後部座席に向かい合って座る。春原は脚を組み車窓などを眺めている。スーツスタイルだからかいつもより脚が長く見える。物憂げなまなざしは少女漫画に出てくる人みたいだ。
「今日の主催のことは調べたか?」
「は?」
「……」
「主催……とかって、あー、そういう感じの、あー」
調べておくもんなんか。知らねぇよパーティーのことなんか。
「ちなみにどこが主催なんでしょうか」
「別に知らなくていい」
「じゃあ訊くなよ」
「まあ、そうだな」
「どうしたんだよ」
なんかいつもと様子が違う。あからさまにしおっとしている。具合が悪いのか。行きたくないのか。いつもの嫌な感じを出してもらわないとこちらも調子が出ない。守らねばという忍者仕事の使命がむくむくと育っていってしまう。
「十年以上俺の命を狙っているやつだ」
「は?」
「パーティーの主催者だよ」
「は? え? 行かなければいいのでは?」
「そうだな」
「そうだよ! 帰ろう」
「そういうわけにもいかない」
「はぁ? そういうわけって、行かない理由しかないだろ」
なんでもかんでもわがままを通せるお坊ちゃんがどうにもできないことってなんだよ。命を狙われてまで行く理由があるのかよ。
「主催は小児性愛者で俺を剥製にしたがっている。あいつに最後に会ったのは三年前だ。流石にそろそろ好みから外れているだろうというのもある」
「え、分からん。なに、分からんけどそいつの好みじゃないって証明するために行く感じ?」
「まあ、わりとそう」
「まだ全然好みだったらどうすんの?」
「命を狙われ続けるな」
「バカ! おまえが七三眼鏡しろ!」
「やだよダサいし」
「ダサくあれ!」
しょうになんとかで分からんけど剥製にしたがっているから好みのタイプじゃなくならないといけない? ちょっと分からない。剥製って動物の死体から作るんだよな。そんで暖炉の上に飾られたりするんだよな。ライオンとかのやつ。暖炉の上に飾るには春原じゃでかすぎんだろ。じゃあどこに飾るっていうんだ。俺と大して身長変わらないくらいの剥製なんて置場がねぇよ。
「ていうかさ、今までの襲撃とか全部そいつが犯人なら逮捕できるじゃん」
「世の中法の外にいる人間は山ほどいるよ。あいつはブローカーとしても太いパイプを持ってるからな」
マジでなにを言っているか全然分からんけど警察にいってもダメってことなのか。
「じゃあ、えーっと、じゃあ、やっぱ眼鏡しろよ」
「おまえが守ればいいだろ」
「……確かに」
もっともだ。俺は別に春原の友達として同行しているわけではない。護衛なのだ。命を狙われているクライアントを守る。それだけだ。
それだけだが、春原の命が狙われている、ということに今まで特に実感を持っていなかったことに気付かされる。散々危険な目に遭ってきたはずなのに、いつも平然としてクソむかつくことばかり言うから何故だか大したことじゃないような気がしてしまった。大したことあるわ。
三年前に比べて好みじゃなくなってたらいい、って言ったって今日の春原も普通に麗しい。性格がアレなだけで顔は嘘でも美しくないと言えないくらい整っている。絶対命狙われるやつだ。そう思ったら途端に目の前にある存在が酷くはかないもののように思えてきた。
前髪が上がっているせいで伏したまつげが頬に影を落とすのもよく見えてしまう。
「俺が殺せって言ったら殺せるか?」
ほんの一瞬、開いたまつげの奥で瞳が俺の目の奥を覗いた。車はホテルのロータリーに入り、蛇行にあわせて身体が傾く。フロントガラスにはホテル正面玄関前を目指す車が列をなしているのが見える。言葉の意味を噛んで飲み込むことができない。
「法の外側の人間になれるなら」
ふざけたように言えただろうか。春原に向き合うこともできないままフロントガラスを眺めている。
「俺にそんな権力はない」
「なんだ」
顔も見合わせないまま軽口を言い合うように会話を流していく。春原は本当に俺に人殺しをさせるつもりはないだろう。多分。なんか、そういうやつだし。俺を試しただけだ。ただ少し、ほんの少しだけ春原の言葉が「助けてほしい」に聞こえたから俺はできもしないことを言った。
俺はきっと誰かを殺すことなんかできない。きっと春原もそれは分かっている。失望しただろうか。そもそも期待なんかしていなかったか。
春原の敵は殺すことができるやつだ。そんなやつ相手に俺は一体なにができるだろう。緩やかに前進していた車が止まる。礼儀正しいドアマンが頭を下げて扉を開けた。
白いホテルのよく磨かれた窓ガラスは青く空を反射している。人を殺そうとしている人間がいるようにも、命を狙われている人間がいるようにもとても見えない。
先に車を降りサッと周囲を窺う。春原を降車させフロントへ向かう。右に左に、上に下に、エレベーターを待つ間、エレベーターの中、警戒を怠らない俺である。
「緊張しすぎだろ」
「ギッ!」
「なんだよ、ギッ! って」
緊張感だよ。その表れだよ。なに笑ってんだこいつ。
「おまえは緊張しなさすぎだろ」
「してるしてる」
笑いを含んだ声で言う。大体、春原がこんなに笑うこと自体珍しい。
「さっさと終わらせて帰ろうぜ」
急上昇するエレベーターが停止すると背中を押して押し出される。右に左に警戒してるんだから押すなよ。
「あ! 修吾くん、にんにん! 二人ともかっこいい!」
聴き馴れた声のする方を見るとルミちゃんはじめ見知ったクラスメイトが何人かたむろしていた。みんながみんな学校とは見違えるオシャレな服を着ている。
「えっ、みんないる感じ?」
「まあ大体みんないる感じ」
「えっ、なんか思ってたんと違うかも」
「んー、多分思ってる通りだと思うよ」
そういうわりにルミちゃんはあっけらかんとしている。
「鷲野瀬のおじさまが良くないのはみんな分かっているけど家のしがらみってやつね」
「色々あるんだ」
「全然分かってないでしょ」
「全然分からん」
「今度説明してあげる」
説明されても分からなそうだが知らないわけにもいかないだろう。おー、と意味もない返事をする。
行くぞ、と春原に促されてその場を辞す。友達といた方がいいんじゃないかと思わないでもないが用を済ませてさっさと帰りたいのかもしれない。
春原は人だかりに向かって進んで行く。その中心にいるのは人のよさそうなおっさんだった。隣に俺らと同じくらいの男が寄り添っている。息子だろうか。
おっさんはこちらに目線を向けると途端に満面の笑みを浮かべてこちらに向かってきた。
「やあ! 修吾くん、久しぶりだね!」
「お久しぶりです。お変わりなさそうで」
春原も余所行きの笑顔で世間話などを始める。知り合いかな、と邪魔にならないように脇に控えておく。俺は慎み深い忍者なのだ。
春原は年上のおっさん相手にもそつなく会話を行っている。普段のクソ坊ちゃんぶりを思うとその完璧な外面に感心させられる。
俺と同じように脇に控えているおっさんの息子が小さいグラスに入った飲み物を渡してくる。なんか知らんが俺と同じように慎み深いだけでなく気遣いまでできるタイプかと驚くが脇に控えている同士会話を始めるのも違うか、と思い会釈だけして受け取って礼儀的に一口飲む。ピンク色の飲み物はフルーツ感もなくやたら甘ったるい。駄菓子みたいな、外国のお菓子みたいな、人口的な甘さだ。
彼はピンクの飲み物を一口で飲み切ると空いたグラスを給仕に返す。俺の方を向いてグラスを見ているので慌てて俺も飲み切った。
「お友達の彼はいつもと雰囲気が違うんだね」
おっさんが突然俺に水を向ける。いつもと? 初めて会うおっさんだが……、と思った瞬間ハッとする。ハッとしたまま春原を見ると呆れたような顔をしていた。
このおっさんこそが件のおっさんなのだ。
「いつもと変わりませんよ」
春原が素っ気なく言う。
「いつものスタイルも素敵だけど今日も悪くないね」
おっさんは値踏みするように俺の全身を見てにったり笑った。あ、キモいなこれは。
「修吾くんも益々美しくなっているし……、今度二人でうちに遊びにおいでよ」
「行きませんよ」
あはははは、と二人は笑っている。笑っていい感じのやつなのかこれは。春原、おっさん、おっさんの息子と三者の顔色を窺っていく。おっさんの息子はニコリとも笑っていなかった。もしかして息子じゃないのかこの男は。俺と同じ護衛か。
「お話のところ失礼するよ」
ギスりの臨界突破のような空気のなかを割って入ってきたのは春原の親父さんだった。俺の親父は護衛についてない。天井裏にでもいるのか?
「ああ! 楓一さん!」
「相変わらず元気そうだね」
おっさんは春原の親父さんを見るや喜色満面の笑顔を浮かべる。春原のことより親父さんの方が好きそうまである。
春原は親父さんの目配せを受けて失礼しますと一言置いて踵を返した。俺も慌てて後を追う。すっごい足早。
春原は懐からスマホを出して今終わった、と簡単に通話をしている。相手は小林さんだろうか。凄まじい速さでルミちゃんらの脇も通り抜ける。帰るわ、という春原の言葉にお疲れーと三々五々返事がある。
待たずしてエレベーターの扉が開き、早々に乗り込む。
「おじさん来てたんだ」
「会社から直接来るって話だった」
「うちの親父も来てんのかな? 全然話聞いてないけど……って」
ずいっと来る。ずいずいずいずい来るのでこちらもずいずいずいずい後ずさる。
「な、なんだよ」
「敵地で出されたもん飲む忍者がどこにいるんだよ」
「は?」
一瞬なにを言っているのか分からなかったが言われてみれば確かにそうだ。あの甘い飲み物が毒である可能性もあった。とはいえ俺だって伊達に忍者をやっているわけではない。
「多少の毒耐性はあるし、多少身体がポカポカしてる気がせんでもないがその程度にすぎん」
なんせ修行したからな。どこまで大丈夫かは知らんけども。
「吐け」
「は、……ごっ」
いきなり口に指を突っ込まれる。まさかの行動過ぎて甘んじて受け入れてしまう。
「ふざけるのもいい加減にしろよ」
「おっ、おぁ、わって」
容赦なく中指が喉の奥をかすめる。吐き気よりも苦しさとほんの少しのくすぐったさがある。苦しさと痒みのようなくすぐったさに涙が出てきた。
「あって、むい! むいあから」
縋りついても逃げようにも口腔内を支配する春原の指は執拗だった。上顎をなぞる指先のせいでみっともなく涎が垂れる。そんなに怒られることかよ。
そうこうしているうちにエレベーターは一階に到着する。扉が開いた先で待っていた小池さんがおやおや、などと言って目を細めているがそんな微笑ましいものじゃないんだ。
「なにか盛られたかもしれない」
「それはいけません、急いで戻りましょう」
春原の指から解放された俺はというと、急激な眠気に襲われていた。本当に盛ってんじゃねーよ。
「眠くなるやつだこれ」
ちょっと眠いなぁってもんじゃない。上瞼と下瞼が凄まじい勢いでくっつきあおうとしている。そんなことってあるか。まぶたに力を込めてグッと目を見開く。見開いているはず、なのに一瞬ふわっと白くなる。
「おい!」
寝ていた。完全に一瞬寝ていた。俺を支えて春原がつぶれそうになっている。
「すまん」
つぶしてしまうかもしれないが最早抗えるような睡魔ではなかった。修行でなんとかならないこともあるのか。スッと眠りに落ちていく狭間でただただ後悔が募っていった。
ハッと目が開く。なんだ、単にまばたきをしただけで済んだかと思うほどの間隔で目が開いたので錯覚するが完全に俺の部屋であった。
「起きた」
「わ、あ、起きた」
なんだよそれと春原がつぶやく。起きてすぐ枕元におまえがいたらビビるだろうが。
春原は枕元に頭を凭れかけたまま俺の額に手を伸ばす。ひんやりとした手が額に触れる。冷たくて気持ちいい。なんの時間だこれは。
「手、冷たいな」
「おまえが熱いんだよ」
「そうなのかな」
「血液検査と尿検査した簡易検査の結果だと睡眠薬と興奮剤が検出されたそうだ」
「尿検査って……」
血液検査は腕に貼り付いた脱脂綿で察することができるが尿を出した記憶などひとつもないのだが。
「知らん。管でも通したんだろ」
「管……」
知らないうちに管を通されたのか俺は……。想像しただけで震える。通らないだろ、管なんか。通ったのか。マジか。
「後に残るものは今のところ見つかってない。運が良かったな」
「なんか、ごめん」
「反省しろ」
「してる」
「いや、今回は俺も考えが甘かった」
「は、反省してる……」
「思っていた以上におまえがアホだった」
「すみません」
「辞めるか、護衛業務」
「えっ、え、そういう話になるの」
「考えてみたらおまえ別にプロでもなんでもないし」
「やるよ、やる! アマチュアにしかできない仕事をする!」
「なにそれ」
「地元感覚みたいな……地域密着みたいな」
というか今更、春原の忍者じゃなくなるとか意味が分からない。俺が春原を守らなかったら誰が守るんだ。親父か? プロのSP? 小池さん? みんな安心して任せられる人材だけども。春原の護衛を外されてただの親父が忍者やってる高校生に戻れるのか。春原の命が狙われていると分かっていて。敵の正体も分かっていて。気のいいやつらばかりの特進クラスで普通の高校生をやれっていうのか。無理じゃん。全然勉強についていけてないのに。俺だけ地元に戻るのか。なにもかも忘れて。
「頑張るから……」
どう伝えれば伝わるのか分からない。伝えたいのかも分からない。俺は、俺の知らないところで春原が脅かされているのが嫌かもしれない。想像しただけで落ち着かない、居心地の悪さを感じてしまう。
春原はイヌ丸の顎の下をゴロゴロさせていたかと思うとおもむろに抱え上げおなかに顔を埋めた。
「えっ……」
会話の途中で猫を吸い出すという作法を俺は知らない。殊勝な気持ちになっているところに奇行をぶつけられて俺はどんな顔でツッコミをしたらいいのだ。なんでだよ! がスタンダードでいいだろうか。
「……励めよ」
俺がツッコむより先に春原はイヌ丸の腹から顔を上げて俺の忍者業務継続を認めてくれた。前髪に猫の毛がついている。励めよって何目線だよ。雇用者目線か。ちょっと笑ってしまう。
「それ飲んどけよ」
目線で誘導された先には2リットルのペットボトルに入った水が4本置かれていた。
「腹割けそうだな」
「飲めるだけでいいんだよバカ」
春原が立ち上がる。もう帰る感じか。なんだか煮え切らない感じがある。もっとちゃんと話したい感じがある。なにを? と感情を探ってもなにも出てこない。
「あ、ありがとう」
「なにが?」
「えーっと、ここまで運んでくれて?」
「俺が運べるわけないだろ、小池に言え」
「あーそっか、うん」
ポーズなのかどこか不貞腐れたような顔をして春原は扉を開ける。なにかあったら枕元のボタンを押せだとかたくさん水を飲めだとか半分部屋から出ながら一言が多い。合間にイヌ丸はめっちゃ春原の足元に絡みついている。おまえが春原に向ける愛情の半分でも俺に向けてくれたらどんなにいいかと思うよ。
「おい、聞いてんのか」
「聞いてます!」
「じゃあな」
「また明日」
春原が部屋を出ていく。イヌ丸ももちろん一緒に出て行ってしまう。
部屋に一人残されるとどっと反省が募ってくる。
今回の俺はパーティー会場で睡眠薬をうっかり飲んだ見どころなしのうっかり忍者だった。劇画の世界だったら死んでいた。
春原がそんなに怒ってないどころかめちゃくちゃ心配してるのが分かって居た堪れない。俺とおまえはそういうんじゃないじゃんか。おまえはなんかもっと人の心とかないようないけ好かない王子様でいいんだよ。
は。
どうかしている。俺はどうかしている。自覚をしよう。どうかしていることを。いつもなら気を紛らわすために筋トレでもするところだが体内にどれほど薬が残っているか分からん状態で血行をよくするものじゃない。春原が置いていった水を飲む。らしくない俺もなんとも言えん感情も全部流し込むように、リットル単位の水を飲む俺であった……。