<アゲハ蝶>
その蝶が彼の元を訪れるようになったのは、いつの頃からだったのか。
見たことのない真紅の羽はどこか妖しげな美しさを見せ、ひらりひらりと舞いながら、彼の部屋へと向かう。そして閉ざされた窓の外で、いつまでもいつまでも彼が気づいてくれるのを待っていた。
(その扉が開かれることはないのに)
夢の中、カミューは蝶が舞う様子をじっと眺めていた。
胸が痛かった。
羽ばたかせた羽から燐粉が舞い落ちる。月の光に反射して煌く燐粉が辺りに降り積もる。彼への想いの深さを物語るように。
(あれは、私の心なのか)
遠くでいつまでも羽ばたいている蝶を眺めて、カミューは何故か泣きたくなった。
何て夢なのだろう。
何て哀しい夢なのだろう。
決して開かれることのない扉の前で、いつまでもいつまでも真紅の蝶は羽ばたき続ける。もうやめてくれ、とカミューは泣いた。
これは夢だと分かっているのに、涙が溢れてとまらなかった。
どうして愛してしまったのだろう。
どうして彼を愛してしまったのだろう。
蝶は夜毎に彼へと向かって羽を広げ続けた。
ある夜、ゆっくりと扉が開いた。その真紅の羽に魅せられたように、彼の扉が内側から開いた。そして彼が姿を見せる。
(マイクロトフ)
カミューは声にならない声を上げた。テラスに歩み出た彼は、真紅の蝶に不思議そうに目を細めた。見たことのないその蝶は、まるで誘うようにマイクロトフの前で美しい羽を広げてみせる。
その美しさに魅せられたように、彼は手を伸ばした。
誘われるがままに、ゆっくりと。
(だめだ)
夢の中でカミューは叫んだ。
その蝶に触れてはいけない。もし彼がその蝶に触れたらどうなるのか、それを考えると恐怖で胸がひどく痛んだ。
マイクロトフは掲げた指先を蝶へと向ける。ここへ止まれというように人差し指をそっと向ける。真紅の蝶はゆっくりと、その指先で羽を休めた。
(マイクロトフ)
ああ、とカミューは絶望的な思いでその場に崩れ落ちた。
その蝶を手にすることが何を意味するのか、彼は分かっていたのだろうか。
知らないままに、ただ見た目の美しさに心を奪われてしまったのだろうか。
どちらにしてももう遅い。
真紅の蝶は彼の元で羽を休めてしまった。
その朝、カミューはマイクロトフと顔を合わせるのが怖かった。あれは単なる夢だと分かっていても、まるで本当に自分の想いを彼が受け入れてしまったような気がして、何ともいえない気分になった。
「おはよう」
いつものように声をかけると、マイクロトフもまた笑顔で応える。何も変わらないいつもと同じ朝だった。
(あれはただの夢なのだから)
何を心配することがあるのか、とカミューはひそりと笑った。
その時、ふとマイクロトフの指先が目に入り、ぎくりと息を飲んだ。
彼の指先は赤い蝶の燐粉に染まっていた。
「マイクロトフ、それは?」
震える声で尋ねると、マイクロトフは、ああ、と微笑んだ。
「不思議な夢を見た。見たこともないような美しい真紅の蝶が俺の指先に止まったのだ。朝起きると、指が紅く染まっていた」
「………っ」
「不思議なこともあるものだ」
マイクロトフは、ほら、とカミューの目の前に指を差し出す。その赤い指先から目を離せないでいるカミューに、マイクロトフはゆっくりと身を屈めて耳元で囁いた。
「今夜もまた来ると思うか?カミュー」
あの真紅の蝶を指先に止まらせた瞬間、マイクロトフは気づいた。
これはカミューの心、カミューの想い、カミューの恋心なのだと。
紅く染まった指先を見て、マイクロトフは思った。
ではこの夜から、きっとカミューの元へは青い蝶が向かうのだろうと。
彼がその白い指先に蝶を止まらせたなら、自分の想いも彼に届くのだ。
指先に止まった蝶は、きっとカミューの指を青く染めるのだろう。
←お気に召したらぽちっとな。