オデッサ
「お前ってオデッサとどこまでいってたんだ」
いきなりのビクトールの問い掛けに、フリックは口にしていた酒を盛大に吹き出した。レオナが経営する同盟軍本拠地の酒場は、そろそろ閉店間近ということもあって、人も少なくなってきていた。
いつもの席で、いつもの酒を、いつものつまみで楽しんでいたフリックとビクトールだが、今夜は多少飲み過ぎたという自覚があった。
気持ち良く飲んでいたところへ先ほどのビクトールの台詞だ。
フリックは恨みがましい視線で男を睨みつけて、濡れた口元を乱暴に袖口で拭った。
「お前、酔ってるんだろう」
「別に」
「じゃ何で、そんなおかしなこと聞くんだよ」
「おかしなこと、かねぇ」
ビクトールは頬杖をついたまま、手にしたグラスに少しばかり残っていた酒を揺らした。
「そういうことを聞くのはあまり趣味がいいとは思えないな」
フリックは答える気はなし、というように行儀悪く椅子の上に片脚を乗せてそっぽを向いた。
先の戦争で命を落としたフリックの恋人オデッサ。その名を持ち出されても、以前のように心が痛むこともなくなっていた。淋しさや、辛さや、後悔や、そんな一言では表しきれない感情に何度も挫けそうになった。けれどいつの間にか、自分でも不思議なくらい、彼女への想いは静かで暖かなものへと変化と遂げた。それが目の前の男のおかげだと認めないわけにはいかないだろう。
今まで、滅多なことでオデッサの名前を口にしたりしない男だというのに、どうしていきなり、それも下世話な質問で彼女の名を言い出したのか、フリックにはさっぱり分からなかった。
「やっぱり、あれだよな、キスとかさ……」
「ビクトール」
「抱き締めたり、その先も……」
「ビクトール!」
語気を強めてフリックがビクトールを遮る。するとビクトールはどこか困ったような表情を見せて、席を立った。
「悪い、やっぱりちょっと酔ってるみてぇだ」
「そうだな」
「先に戻るわ」
他の席に座る男連中に軽く手を上げて、ビクトールは酒場をあとにした。その後ろ姿を見送りながら、フリックは大きく溜息をついた。
「レオナ」
通りかかった女主人に声をかけてその夜の支払いを済ませると、フリックは自室とは反対の方向へと歩き出した。ひっそりと静まり返った石造りの城内を上へと向かう。重い扉を押し開くと、生温い風が頬を弄った。
フリックの立つ場所から一直線のその先にビクトールは座り込んでいた。石壁に背を預けて目を閉じているビクトールにフリックは近づいた。
「来るなよ」
あと数歩で男の前にたどり着くという時に、ふいにビクトールが言った。閉じていた目を開けて、眩しそうにフリックを見上げると、もう一度同じことを言った。
「どうして?」
「何言うか分からんからな、今夜の俺は」
「言いたいことがあるなら言えよ」
フリックはビクトールの前で胡座をかくと、真っ直ぐに男の目を見た。
どうせまたつまらないことでも考えているに違いない。今さらオデッサに嫉妬するような馬鹿なことはないだろうとは思うものの、では何なのだと考えると思い当たるふしがない。
こんな中途半端な気持ちの悪い状態では眠ることさえできないだろう。
なかなか話そうとはしないビクトールに、フリックはやれやれと肩をすくめるとその場に座ると、冷たい床に手をついて夜空を見上げた。
今夜は薄く雲がかかっていて月も星も見えない。雨が近いのか、生暖かい空気には微かに水の匂いがした。
「いや、本当に単なる好奇心だったんだ」
ぽつりと何の脈絡もなくビクトールがつぶやいた。
「好奇心?」
「ま、あれだな……」
ぽりぽりと頭をかきながら、ビクトールがバツが悪そうに口ごもる。
「俺が知ってる限り、お前とオデッサが恋人らしいことをしている場面なんてお目にかかったことがなかったしよ、いつも思ってたんだ、こいつら本当にいい仲なのか、ってな」
「………で?」
「さっき、酒場で酒を飲んでる時に、お前が見せた笑顔が……」
ビクトールは顔を上げるとくしゃりと笑ってみせた。
「昔、お前がオデッサに向けて見せていた笑顔と同じだったから……急に思いだしたんだろうなぁ、彼女のこと。ああ、オデッサもこんな笑顔を見てたんだなぁってよ。あんな笑顔見せられちゃあ、俺としては、一発やりたくなるわけだが、彼女の場合はどうだったのかなぁなんて思ったら、まぁ何だ、どうだったのかな、と……」
「思ったわけだ?」
「あ、ああ」
アホらしい、とフリックはがっくりと肩を落とした。
どうせそんなことだろうと思ったのだ。神妙な顔をしていたから、もっと何か深い意味でもあるのかと思ってわざわざここまで様子を見にきたというように、まったく無駄足だったな、とフリックは憮然とした。
「だいたいなぁ、それだとまるでオデッサが俺のことを、お、押し倒してたみたいじゃないか」
「………」
フリックの言葉に、ビクトールは一瞬呆けたような顔を見せて次には吹き出した。
「何だよ!笑うなよっ!」
「いや、なるほど、お前の場合はそういうこともあり得るよなぁ、オデッサがお前をねぇ…」
オデッサならやりかねない、とビクトールは声を上げて笑い続ける。
「だから!!そうじゃないって言ってるだろっ!」
「じゃやっぱりお前が押し倒してたのか」
「そ……っ」
言葉に詰まるフリックの手をビクトールが強く引いて、その肩に顎を乗せた。
「何だかなぁ、お前の場合は確かにオデッサに押し倒されててもおかしくねぇよなぁ」
「馬鹿なことを言うなっ!」
真っ赤になって怒るフリックの身体を抱き締めて、ビクトールは何を想像しているのか低く笑いを洩らしている。
「悪い悪い、怒るなって。ま、あれだ。ああいう笑顔見せるのは俺だけにしておいてくれってことだな。他の連中がおかしな考えを持つとよくねぇからな」
「そんなこと考えるわけないだろうがっ!」
ビクトールはフリックの肩を抱き寄せると、少し強引に口づけた。腕の中で暴れていたフリックはやがて諦めたように抵抗をやめた。
フリックのあの柔らかな笑顔を見て、彼女はいったい何を思ったのだろう。
押し倒すまでは思わなくても、彼女もきっと同じことを思ったはずだ。
ああ、フリックとキスしたいな、と。
そして、彼女がそれを実行したかどうか、今となってはフリックだけが知るところである。
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