その隣に居たかった


シャツのボタンを留めるフリックの指先を見つめながら、ホウアンは今何を言えばいいのか分からず黙り込んでしまった。いつもの彼らしくない暗い表情のホウアンに、思わずフリックが苦笑する。
「ホウアン、そんな顔するなって」
「………」
「嫌な患者ですまないな」
「フリックさんっ」
何を言ったところで状況が変わるわけもなく、けれど何も言わないでいることもできない。
医者が不安そうな顔をしてはいけないと、そう思って今までやってきたというのに、今のホウアンにはそんなことすらできずにいる。
今のフリックにどんな言葉をかけたとしても、それは何の役にも立たないただの慰めでしかないのだ。そしてこの青年がそんな言葉を欲しがるような人間ではないことは、ホウアンはよく知っていた。だから医者として、ごくごくありきたりな言葉をかけるしか他にない。
「フリックさん、ちゃんと毎日薬を飲んでくださいね」
「わかってるよ」
「少しでも体調がおかしくなったら、無理をせずに休んでくださいね」
「はいはい」
「それから……」
「ホウアン」
フリックが延々と続きそうなホウアンを遮る。その表情には悲壮なところは少しもなく、いつも通り淡々とした様子だった。フリックはすらりと立ち上がると、まだ不安そうにしているホウアンに小さく笑った。
「なぁ、ひとつ頼みがあるんだ」
「………何でしょうか?」
ホウアンがフリックの言葉は一言も洩らすまいとでもいうように真剣な目を向ける。フリックは何の迷いもない、はっきりとした口調で言った。
「やっぱりビクトールには、黙っておいてくれ」


例えば自分の命があと僅かだと知った時、多くの人は絶望し、自暴自棄になり、恐らく目の前が真っ暗になって、何もできなくなるだろう。まさか自分がそんな状況になるなんて普段の暮らしの中では考えるはずもないのだから。
フリックも同じだった。
まさか自分の身にそんなことを起きようとは夢にも思っていなかった。
すぐそこにまで忍び寄ってきた死の影。
けれど自分は、剣を持ち戦場に身を置き生きているのだから、死を考えたことがないわけではない。
戦いの場でで必ず生き延びれる保証などどこにもないのだから。
次の瞬間には、もうここにはいないかもしれない。
けれどそれは、一瞬で終わる死だ。
剣で斬られるにしても、矢で射られるにしても、紋章で焼かれるにしても、そこにある死はたとえ僅かばかりの苦しい時があったとしても、すぐ目の前にある死なのだ。
死とはそういうものだと思っていた。
でもそうじゃない死もあるのだと、今知った。
フリックはきゅっと手を握り締めた。
人は誰でも一秒一秒死に向かって生きている。自分だけではない、この世に生きる者はみな平等に、そして確実に死に歩みよっているのだ。生きている以上それは避けようのない事実だ。
ただ、それが…自分の場合は少し早いだけなのだ。
「まさか病で命を落とすなんてな……」
いずれ迎える死がどんな形であるにしろ、自分は間違いなく戦場で死ぬだろうと思っていた。生き急ぐつもりはこれっぽっちもなかった。けれど、数えきれない命をこの手にかけてきた。静かにベッドの上で死ねるなどとは思っていなかった。それが…
「ベッドの上で死ぬのか……」
何とも贅沢な話だ、と思う。
望んでもできることじゃない。
けれど………
「……冗談じゃない」
誰がそんなことを望んだ。一度だって欲しいと思ったことなどない。安らかな死など。そんなものは自分いは無用のものだ。
フリックは自然と足早になり、昼でも薄暗い建物を抜け、眩しい光の溢れる中庭へと出た。暖かな光が身体を包み、そして暖かいと感じることにじわりと胸が熱くなった。
それが生きている証のように思えた。
自分の命を残り時間を知ったのはもうずいぶん以前のことで、心の準備はできているはずだった。
一番辛い時期はもう過ぎたはずだった。
微かな希望として残っていた薬の効果もなく、ホウアンにあんな辛そうな顔をさせてしまったのは悪かったなと思う。けれど、それが運命だというならば、じたばたせずに受け入れようと決めた。
残り僅かな命ならば、その一瞬一瞬を大切にしようと思う。
それなのに、こんなことになって初めて気づくことがあまりにも多いことに呆然とする。暖かな太陽の温もりに、肌を撫でる風の心地良さに、聞こえてくる子供達の笑い声に、突然感じる空腹感に、ふとした時に疼く昔の傷に、自分は生きているのだと知るのだ。
知らないことがまだたくさんあることを知り、そしてそれらを知る時間がもうないことも知る。
刻一刻と近づいてくる死に、否が応でも心が焦り始めてしまう。
恐くはない。
死が恐いわけではない。
ただ恐いのは……
「フリック」
振り返る視界にビクトールの姿があった。
いつも通り、何が嬉しいのかフリックに、ビクトールは満面の笑顔を見せる。ゆっくりと、大きな歩幅で近づいてくる男は、何も知らないのだ。
フリックの身に何が起こっているのか知らない。
何があってもこのことは告げるまいと決めた。ホウアンにも口止めをした。
彼には何も知らせてはいけない。
あの笑顔を最後まで見ていたいと思うから。
「フリック、どこ行ってたんだ、探してたんだぞ」
屈託のない笑顔。
優しい声。

(ああ……)

フリックはその場から動けなくなる。
自分は、彼を残して逝くのか。
心残りはそれだけだ。他には何もない。本当に、何もない。
「フリック?」
ビクトールがひらひらとフリックの目の前で片手を振る。ぼんやりしているフリックに呆れ顔だ。
「あぁ悪い、俺を探してたって、何か用でもあったか?」
「用がなけりゃ探しちゃまずいのかよ」
「用もないのに探すなよ」
「探すさ、相棒だからよ、いつも一緒にいなけりゃどうも落ちつかねぇ」
冗談めかして言うビクトールに、フリックは小さく笑った。
「そうだな……俺も……」
眩しい光に目を細め、フリックは決めた。
聡い男に気づかれないうちに彼のそばを離れよう。彼の前から姿を消そう。
誰よりも自分のことを大切に思うこの男は、きっとこんなことには耐えられないだろう。強そうに見えて、本当は弱い部分のある男だから。
だから悲しませたくはない。
どんなに探しても見つけ出せないくらいに遠くに逃げよう。憎まれてもいい。どこかで生きているのだと思ってくれるのであれば、それでいい。そうすることで、自分はビクトールの中で生きつづけられるような気がするから。
フリックはビクトールの肩に手を置くと、その手の上に額を乗せた。滅多に見せないフリックの甘えた素振りに、ビクトールはまんざらでもないようなはにかんだ笑みを浮かべる。
「どうした?やっぱり俺がそばにいなくて淋しかったか?」
「馬鹿……そんなんじゃない……ただ……」
フリックは目の奥が熱くなるのを感じ、声が震えそうになるのを必死に堪えた。
そして小さくつぶやいた。
「ただ……隣に居たかっただけだ」
今だけではなく、これからもずっと。
本当はその隣に居たかったのだ。
ずっとずっと。
ただそれだけが望みだったのだ。
でも、それはもう叶わない遠い夢だった。
お前の隣に居たかった。
「いればいいだろ。お前は俺の相棒なんだからよ」
ビクトールがぽんとフリックの背をたたく。
涙が溢れそうになって、フリックは息を飲んだ。











「それって……フリックさんが死んじゃうってことなの???????」
ニナが蒼ざめた顔で手にした原稿用紙を置き、ナナミを凝視する。ナナミは得意げににっこりと笑うと大きくうなづいた。
「そう。傭兵として生きてきた男が、病に冒され、志半ばで命を落とす。でもそれを相棒には知らせないでおこうとする健気な物語!どう?けっこういけると思わない?」
同盟軍の本拠地内にあるエミリアの図書館の行事の一つとして、物語を書いてみようというものがあった。後世に残す優れた作品は誰がどんなきっかけで生み出すか分からない。もしかするとこの同盟軍の中にも才能のある人物がいるのではないか。その才能を見出すことが自分の使命だとばかりに、エミリアはいろんな催し物を開いては、作文だの感想文だの小説だのを書かせていた。
今回は20歳以下の少女を対象に「泣ける恋愛小説」というお題目で作品を募集しているのだ。そして、こういうイベントが大好きなナナミは徹夜をして先ほどの物語を考え出したのだ。
「だいたいね!!何でフリックさんの相手に熊なのよっ!!!ナナミ、分かってる?恋愛小説よ?どうして私が相手じゃないのよっ!!!」
ニナが喚くと、ナナミが首を傾げた。
「でもさ、相棒と恋人ってけっこう紙一重だと思うんだけど。ずっと一緒にいて、命を預けてるわけでしょ?フリックさんには今恋人がいないわけだし、一番近くにいる人ってビクトールさんだしね。自分が病気で死んじゃうって時にはやっぱりビクトールさんのことを考えるんじゃないかなぁっておもうんだけどなぁ、どう?」
といって、ナナミは隣に座るフリックへと視線を向けた。
「………どうってな、何で俺に振るんだ……」
心底うんざりしたように、フリックがぺたりとテーブルに突っ伏した。大切な話があるからビクトールと一緒にきてくれと呼び出され、何事かと思ってやってきたら、わけのわからない小説を目の前で読み上げられた。
それも自分とビクトールをまるで恋人同士のように書かれた話である。
憤死しそうなほど恥ずかしくて途中で何度も帰ろうと腰を浮かしたのだ。
「えーだってさ、一応実名で書いたお話だし、ちゃんとフリックさんとビクトールさんのチェックというか了承も得ておかないと、あとで怒られるのいやだしさ」
「あとでなくても怒るぞ」
フリックが頬を引き攣らせてナナミを睨む。こんなアホらしい話をエミリアに提出されて、本拠地中の連中が読むのかと思うと本当に死にたくなる。何としても止めさせなければならない。
「えーだめ???我ながらとてもいい話だと思うんだけどなぁ。泣けるよね。ね?ビクトールさん」
「あーそうだなぁ、俺にはよく分からねぇけどな」
じろりとフリックに無言で睨まれ、ビクトールは苦笑を洩らす。
「とにかく!この話は没収。いいか、どんな話を書いても構わないけどな、俺とビクトールを題材になんかするなよ。わかったか?」
「えーえーえー、小説っていうのは身近な人物のことを書くといいのよ、ってエミリアさんが言ってたのにー」
頬を膨らませて文句を言うナナミの頭を軽く叩いてフリックがビクトールを促して立ち上がった。もちろんナナミの処女作はしっかりと手にしたままである。
「ひどいー。フリックさんのケチー」
大騒ぎするナナミを無視して、フリックはその場をあとにした。
「まったくあいつらは暇なのか?もっと何か仕事させろよ」
フリックが怒り心頭といった感じでつぶやく。ビクトールはのんびりとフリックの手からナナミが書いた原稿用紙を取り上げた。ぱらぱらと中を見て、小さく笑う。
「けどまぁ、よく書けてたじゃねぇか。意外とそういう才能があるのかもしれねぇぜ」
「だからって俺たちをネタにするなっていうんだ」
「そう怒るなって。でも俺はけっこういいとこ突いてると思ったぜ」
「どういう意味だ?」
憮然としたまま、フリックが足を止めた。
「もしお前が病気になって、あと少しの命だってことになったら、お前は俺に何も言わずに姿を消しそうだからよ。俺を悲しませたくないっていうよりは、お前は自分の弱いところなんて絶対にみせたくないって思うだろ?で、俺はあっさりと捨てられてしまうんだろうなぁって、あの話を聞いてて思ったわけだ」
「………」
フリックにとってビクトールは恐らく大切な人には違いない。けれど、それ以上に戦士としてのプライドを持った男でもある。自分が病で命を落とす姿など、人に見せたくはないと思ってもおかしくはない。
そういう意味ではナナミはなかなかよく人を見ているのではないかと、ビクトールは思ったのだ。
フリックはそんなビクトールをじっと見つめ、そして軽く溜息をついて言った。
「勝手に俺のことを分析すんな。言っておくけどな、俺は病気でなんか死なない。それに……」
「それに?」
「もし、本当に万が一そんなことになっても、俺はお前の前から姿を消したりなんかしない」
「………」
「俺は、最後までおまえの隣に居たいと思ってる。どんなにみっともない死に方をしようが、最後の最後まで、お前の隣に居たいと思ってる。ナナミの想像は夢見がちな女の子のもんだ。俺が死んだら、そりゃあお前は辛いだろうが、だからってお前の前から消えようなんて思わねぇよ。俺もお前もそんなに弱くはない。最後まで、そばにいるさ」
「………」
「相棒だろ?」
にっと笑うフリックに、ビクトールは一瞬目を見開き、そして不敵な笑みを浮かべた。
「いや、恋人だろ?」
なぁ、とビクトールがフリックの肩に腕を回す。がっちりとした腕の温もりに、フリックは自分の考えが間違っていないことを知る。
もし自分が死ぬ時はビクトールの隣だろう。
もしビクトールが死ぬ時は俺の隣だろう。
相棒っていうのはそういうもんだ。
フリックはビクトールの手からナナミの原稿を取り上げると、階段の脇に置かれたゴミ箱に放り投げた。



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