矢傷の痕



あの戦いで彼は最愛の人を失い、そしてその身に消えない傷を負った。


じりじりと照りつく太陽と乾いた風、足元を流れる砂と息もできないほどの熱気。
二人が越えようとしている砂漠は、まともな人間ならば避けて通るであろう灼熱の世界で、闘いのあとの疲れた身体には相当こたえるものだった。
体力には自信のあるビクトールでさえも、夜になると口数が少なくなり、気を失うように眠りにつくことも何度もあった。
半ば無理矢理にこの砂漠超えに付き合わされることになったフリックもまた、ただうつむいたまま、黙々と歩を進めるだけだった。
見渡す限りの砂の世界は、二人から余計な思考を奪い去っていく。何のためにこの砂漠を越えようとしているのか、何処へ向かおうとしているのか、フリックはビクトールに尋ねることはなかったし、ビクトールも口にすることもなかった。
ただ歩くこと。生きてこの砂漠を越えること。
今のフリックにはただそれだけが目的なはずなのに、何故か脳裏に浮かぶのは、この戦いで失ったもののことばかりだった。
今まで、戦いに勝利することばかり考えていた。意識して失ってしまった人のことは考えないようにしてきたというのに、戦いが終わり、ぽっかりと空いた心の中には否が応でも、もう会えない人のことが思い浮かぶ。
志半ばで命を落とした恋人のオデッサ。
彼女は、フリックにとっては特別な人だった。
どんなに願ってももうその想いが届くことはない。
それがどれほど辛いことなのか、今になってフリックは思い知らされていた。
身体中の水分がなくなってしまうような錯覚さえ起こす厳しい砂漠を歩きながら、フリックはそれよりもさらに辛い心の痛みと闘っていた。


夜は一転して冷たい空気が二人を包んだ。
満天の星空の下、二人は火を起こし、少しばかりの食事をして明日に備える。
未だ心のすべてを許しているとは言い難い二人の間に、交わす言葉はほとんどなく、必要最低限のことさえ伝えてしまうと、フリックはいつも先に横になった。
ビクトールはそのあとしばらく一人きりで起きていて、フリックが眠りについたことを確認したあとに横になる。
その夜もいつもと同じようにフリックが先に横になり、追うようにしてビクトールが隣に身を横たえた。
けれどフリックは眠ることができずにいた。
まだ塞がりきっていない矢傷の痕が、どういうわけかじくじくと疼き出していたのだ。その痛みと共に最後の闘いのことが思い浮かび、束の間力を合わせた仲間が、そして様々な出来事が、次々にフリックの中に甦り、そして最後にはオデッサのことを思うようになった。
あの笑顔。凛とした声。
フリックの中のオデッサは、いつでもどこか儚げに笑っていた。
最後に別れた時の、彼女の笑顔がどうしても忘れられない。
ここ数日、眠りにつこうとすると彼女のことを思い出してしまう。
何故助けられなかったのか、何故自分は生き残り、ここにいるのか。
彼女のことを思うたび、胸は引き裂かれそうなほどに痛み、フリックはいっそのこと大声で泣いてしまいたいような、そんな感傷的な気分にさえなった。
弱っている。
思考は同じところをぐるぐると巡り、悪いことばかり考えてしまうのは、心が弱っている証拠だ。分かってはいても、フリックにはどうすることもできない。
誰か助けてくれ、と願わずにはいられない。
けれど、それさえも自分にとっては情けないことで……
「フリック」
ふいに闇の中、ビクトールが低く声をかけてきた。
もう眠っているとばかり思っていたフリックは、いきなり声をかけられて心臓が高鳴った。それでも何事もないかのように静かに半身を捩ってビクトールへと顔を向けた。
「何だ……起きていたのか」
「ああ」
「もう寝ろよ、明日も早いんだろう……?」
フリックの言葉に、ビクトールは曖昧な返事をし、しばらくしたあと小さく聞いた。
「フリック……傷が痛むのか?」
労わるような優しい声に、フリックは知らず知らずのうちに傷口を押さえていた手を退け、大丈夫だと笑った。
気づかれないようにしていたつもりなのに、やはりこの男にはバレていたらしい。知っているならば道中もう少しピッチを落としてくれてもいいだろうと思う反面、そんな余計な気遣いは無用だとも思う。
べたべたとした馴れ合いはまっぴらだった。自分とビクトールは、もっと乾いた関係でいい。どうせこの砂漠を越えれば、道は分かれるはずなのだ。
それならば、せめて相手の負担にならないようにはしたかった。
「フリック……」
「何だ…?」
「今は痛むだろうけどな、そのうち傷口は塞がるもんだ」
「………」
ビクトールはごそりとフリックの方へと寝返りを打った。視線がぶつかり、ビクトールの真面目な表情と真剣な眼差しを目の当たりにして、フリックは黙り込む。
「どんなに深い傷でもやがて癒えるもんだ。どれほど痛くても、どれほど辛くても、時間が経てば傷は癒える。もう二度と立ち上がれないだろう痛みでもな」
「………」
「今はまだ忘れることはできないと思っていても、時間ってやつがすべてを押し流してくれる。時間が経てば、傷は次第に小さく薄れていく。当たり前のことなんだ。そのことに罪悪感を持つ必要もない。そういうもんだ。それが生きてる証拠だ。大丈夫だ。今は辛くても、そのうち楽になる」
「……お前は……何の話をしているんだ」
まるでオデッサのことを思うフリックの心を見透かしたかのようなビクトールの言葉に、思わず声が震えた。
「傷の話だろ」
ビクトールはあっさりと言うと、もう寝ろ、とごそりと毛布を引き上げた。
フリックは無意識のうちに矢傷の痕に手をやった。


傷口はいつか塞がる。
時間がたてば傷は癒える。
けれど自分は、きっと彼女のことを忘れることはできないだろう。
大切な人を失ったという傷痕は、決して癒されることはないだろう。
その時のフリックには、それ以上のことは考えられなかった。
ビクトールの言葉の意味をフリックが正しく……それが不本意ながらも真実なのだと理解するには、まだしばらくの時間が必要だった。





  ←お気に召したらぽちっとな。





  BACK