「ビクトール」
「………」
「…ビクトール……もういい」
「………」
「おろしてくれ……おろせ……」
ビクトールはぴたりと足を止め、荒い息のままフリックをその場に座らせた。そしてそのまま自分も隣に腰を下ろす。
「悪い……もう歩けそうになかったんだ……」
フリックが痛みを堪えた声でつぶやく。分かってると答え、ビクトールもまたずきずきと疼き出した痛みに眉を顰めた。息をするだけでも胸の奥が痛む。あばらの何本かが折れているのだろう。
戦いはまだ続いているはずだ。暗闇の中、時折遠くで赤く炎が上がるのが見えた。
ビクトールとフリックさえ潰せば、あとは雑魚だと思ったのだろうか。敵は恐ろしいほどの軍勢で二人を攻撃してきた。どれほど斬ってもきりが無かった。
ここまで生き延びれたことが不思議なくらいだ。
そして、気がつけば二人きりだった。
深い傷を互いに負い、衣服はべったりとに血で汚れていた。
「………フリック、痛むか?」
「………そうだな……少し」
少しどころではないだろう。ビクトールが見る限り、フリックが負った傷は相当深いものだ。青白い顔をして、額には汗が滲んでいる。
もうこれ以上は歩けないとビクトールに頼むほどに、フリックは弱っている。

(弱っている……?)

ビクトールは腹の底がじわりと熱くなるのを感じた。
そっと盗み見たフリックは、目を閉じ短い息を繰り返している。今にも消えそうな命がそこにあるような気がして、ビクトールはぞっとした。
今まで何度も一緒に戦いの場に立った。
もうだめだと思うことだって、何度もあった。
けれど、こんな嫌な感じはしたことがない。もう何度も潜り抜けてきた戦場だ。それなのに、どうして今日に限ってこんなに息苦しい胸騒ぎがするのだろうか。
ビクトールは自分の指先が小さく震えていることに気づいて、ぎゅっとシャツの裾を握り締めた。
「ビクトール、お前は?傷はどうなんだ?」
小さな声に、ビクトールは平静を装う。
「俺は大丈夫だ。お前に比べれりゃあ掠り傷だ」
「そうか……」
良かった、とフリックが微笑む。ビクトールの傷も決して浅いとは言えなかったが、フリックよりはずっとましだ。時間さえ稼げば、味方が加勢に来てくれるかもしれない。周囲がいったいどんな状況になっているのかは分からないが、少なくとも今は動くことはできない。
「寒いな……」
「………」
フリックのつぶやきに、ビクトールはそっとその肩に腕を回して引き寄せた。
出血がひどくて、体温が下がってきているのだろうか。決して寒いなどと思う季節ではないのに、フリックは小さく震えていた。
「ビクトール……」
「ああ?」
「俺のことはいいから……お前は……戻れ……」
恐れていた一言に、ビクトールは黙り込む。
「聞こえてるのか?戻れ……戻って…本軍と合流しろ……」
「嫌だ……」
小さな子供が駄々を捏ねているような口振りに、フリックが苦笑する。
「何を言ってる……。戻れ……俺のことは置いていけ」
「………」
「それしか…助かる道はない……」
本当はどちらともが、それしかないと思っていたのだ。
まともに歩けないフリックを抱え、本軍まで辿り付くのは無理な話だ。留まって、体力が回復するのを待ち、そして二人で本軍へ戻る。確かにそれが一番ベストなことではあるが、それができなければ、より弱っている方を残して行くしかない。
つまりはフリックをこの場に残し、ビクトールが戻るということだ。
敵兵に見つからない保証などどこにもないのだ。見つかれば共倒れになる。戦場で中途半端な情けは命取りだということは、何度も死線を潜り抜けてきたビクトールが一番よく分かっていることだった。
けれど。
「お前を置いては行かない」
「……」
きっぱりと、吐き出すようにビクトールが告げる。
「お前を残して、俺が一人で行けるはずがねぇだろ」
ビクトールの答えは、恐らくフリックも予想していたのだろう。少し呆れたよう吐息を落とし、そして言った。
「馬鹿だな、お前は……」
なるほど、例えばこれが他の人間ならば…いや、フリック以外の人間ならば、ビクトールは誰に何を言われようとも、非情にその命を見捨てることもしただろう。けれど、どれほど甘いと罵られようと、フリックのことだけはそんな風に切り捨てることはできなかった。
ぎゅっと肩を抱く手に力を入れた。
本当は分かっている。
たぶん、いくらここで待っていても、フリックは歩けるようにはならないだろう。
傷を治す手立てはない。溢れる血を止めることもできない。いくら待っても弱っていくだけだ。
本当は置いていくしかないのだ。
そんなことは言われるまでもなくビクトールが一番よく分かっている。
けれど、そんなことは絶対にできない。それだけは絶対にできない。
「ビクトール……お前……薬も特効薬も、もうないんだよな……」
「ああ、さっきお前に使ったので最後だ。お前だってもう何も持ってねぇじゃねぇか」
たった一つ残っていた薬。それを使って、やっとフリックは僅かに歩けるようになった。それが最後。
二人の手元には何も残されてはいなかった。
「まったくなぁ……こんなことになるんなら、もうちょっと考えて薬を使うんだったぜ……」
そうだな、とフリックは僅かに笑った。事前の準備が甘いんだ、といつもなら怒鳴られるところだろうが、今のフリックにはそんな力は残っていないようだった。
「大丈夫だ、心配すんな。俺が何とか……」
「……ビクトール」
ビクトールの言葉を遮り、フリックがゆっくりと手を上げ、傍らの男のそれにそっと重ねた。
はっとした時にはもう遅かった。
ふわりと、身体が軽くなる感覚。
今までビクトールを苦しめていた痛みが嘘のように引いていく。
「………フリック……?」
特効薬を使われたのだということはすぐに分かった。けれど、その事実をビクトールは上手く理解することができない。いったいこれはどういうことなのだろうか。
呆然とするビクトールに、フリックはしてやったりとばかりの笑みを浮かべた。
「どうだ、少しは楽になったか?」
「……もう…何も持っていないって……お前……言ったじゃないか」
「そう……だったかな……」
フリックがきゅっとビクトールの手を握る。
「言っただろっ!」
「あれは……自分に使う分はもうない……って意味だ…。ビクトール、お前だって最後の薬を俺に使ったじゃないか」
「……当たり前だろうっ!お前の方が傷がひどいんだからっ!どうして……」
どうして持っていたのなら自分のために使わなかった?
その意味を考えることは恐かった。
次第に怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じて、それを静めるためにビクトールは大きく深呼吸をした。そんなビクトールの気配を感じ取ったのか、フリックは小さく言った。
「怒るなよ……。今の俺が、特効薬の一つや二つ使ったところで、どうせ助かりはしない」
「………っ」
「たった一つしかない薬だ。生き延びるチャンスのある方に使うのが当然だろ。…これで……お前一人でなら戻れるだろう。俺を連れては無理だが……一人でなら戻れる」
フリックは静かに息を吐き出すと、ビクトールの肩に凭れ掛った。
ビクトールには返す言葉もなかった。
忘れていた。フリックが平気でこういうことをする男だということを。
ビクトールのことを、こんな風につき離すことができる男だということを。
最後の最後には、自分よりもビクトールのことを選ぶ男だということを。
「お前を……置いていったりはしない」
それならばなおさら、フリックのことを見捨てることなどはできなかった。
フリックがそうであるように、ビクトールもまた最後までフリックを選ぶ。
何があっても、その手を離すことなどできはしない。
「お前を、絶対に手放したりしねぇ。そんなことできるわけねぇだろうっ!」
慟哭のような叫びに、フリックは笑った。
優しく、そしてどこか淋しげな笑みだった。
「馬鹿だな……」
もう何度目かになる言葉をつぶやき、フリックはビクトールの手を握った。
ビクトールもその手を握り返す。
「フリック、これでお前は厄介払いができると思ってるかもしれねぇが生憎だったな。今ので、俺は十分回復したから、これでお前のことを担いででも帰れるってもんだ」
「………」
「少しだけ休もう……大丈夫だ……俺が……」
お前を連れて帰る。
その言葉が終わらないうちに、ビクトールの手を握っていたフリックの指先が力をなくした。
ずるりと崩れ落ちるフリックの身体を、ビクトールががっちりと胸元に抱き寄せる。
「………フリック、俺は……」
「………」
「お前のこと……」
引き裂かれそうな胸の痛みに目を閉じる。

涙が一筋、頬を流れ落ちた。








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