砂漠


砂漠の果てに、見たこともないような美しい花が咲いているという。


「見てみたいと思わねぇか?」
頭から毛布を被ったビクトールの声はどこかくぐもっている。フリックも同じように毛布をその身に纏い、目の前の小さな火に手を翳していた。
トランを出て、二人して砂漠に足を踏み入れた。
それからずっと、見渡す限りの砂の世界を、二人してただ黙々と歩き続けていた。
ここを抜ければ新しい世界が待っているはずだった。それがどんなものかはビクトールにもフリックにも分からなかった。あの戦いを終え、ある種の役目を終えたという自覚があったから、いつまでもその場に留まることはできなかった。だから、この先に何があるかは分からなかったけれど、進むしかなかった。例えそれがどれほど困難なことであっても。
砂漠を抜けるのは初めてだというフリックは、素直にビクトールの指示に従った。準備するものも、歩き方も、休み方も。生きてここを抜け出すためには、どれほどきついこともビクトールの言う通り黙ってこなしてきた。
その姿はあまりにも静かすぎて、ビクトールは少々物足りなさを感じながらも、別段そのことについてフリックに何かを言うこともなかった。
自分以外の誰かを…それも傷の癒えない人間を連れてこの砂漠を越えることは、ビクトールにとっても初めてのことで、正直なところ無事抜けることができるかどうか分からなかった。
不安がないわけではなかった。だからフリックが黙って従ってくれるならばありがたいことだったのだ。もっとも、それを口にすることなどなかったけれど。
眩暈がするほどの日中の暑さは、夜になると一転する。
フリックは少しばかりの食物を口にしたあと、黙って小さな火に手をかざしていた。
底冷えの寒さは、まだ完全に傷の癒えないフリックには相当こたえるものだろう。ビクトールもそれは承知していたが、特に労わるようなこともしなかった。今のフリックにはそんな気遣いは余計なものに違いない。
オレンジ色の炎がフリックの横顔を照らす。
その横顔を見ていて、ふと昔聞いた話を思い出したのだ。
砂漠の果てに、見たこともないような美しい花が咲いているという。
何の脈絡も無くビクトールが言った言葉に、フリックは首を傾げた。
「砂漠に咲く花なんてあるのか?」
水のない世界で、緑が育つはずもない。
もっともな意見に、ビクトールは薄く笑った。
「砂漠にだって植物は育つぜ。サボテンとか……」
「あれは水がなくても育つ植物だ。お前の言ってる花ってのは、普通の花のことだろ?」
「普通の花かどうかは知らねぇよ。ただ綺麗な花ってことしか聞いてねぇ」
「………」
ビクトールは頭にかけていたそっと毛布を外すと、うつむき加減のフリックの横顔を見つめた。
「どんな花だと思う?」
「……さぁ」
フリックはその花のことを考えているのか、また黙り込んでしまう。
ビクトールはごろりと砂の上に身体を横たえた。目の前に広がる漆黒の闇に、数えきれないほどの星が散りばめられていた。今にも身体の上に降り注いできそうなほどに美しく瞬く星に、ビクトールは目を細めた。美しい花、ではなくて美しい星ならば分かるんだがな、と思う。
静かだった。
風も無く、何の音もしない。
まるでこの世界に自分一人しかいないような、そんな不思議な感覚がして、ビクトールは少しばかり恐ろしくなった。もし、今ここで命を落とすようなことがあれば、誰にも知られることなく、自分は朽ち果てていくのだ。その死を誰が悲しむでもない。誰が悼むでもない。
それはやはり切ないことなのだろうか。
「ビクトール」
フリックに呼ばれ、ビクトールははっと我に返った。その声が、ビクトールはここにいるのが自分一人だけではないことを、今さらのように思い出させた。

(ああ、そうだった……)

ここにいるのは自分一人ではないのだ。
一人ではない。
フリックがいる。
それは、何かの奇蹟のようにゆっくりとビクトールの胸を熱くしていった。
整った綺麗な横顔。揺らぐことのないその視線の先に、彼はいったい何を見ているのか。
この砂漠を、自分がフリックの導いていくものだと思っていたビクトールだが、実は逆なのかもしれないと思った。フリックが、この暗闇から別の世界へと導いてくれるのかもしれない。
この静か過ぎる暗闇から。
光の満ちた新しい世界へ。
「ビクトール、その綺麗な花ってのは……」
「うん?」
ビクトールは片肘をついて半身を起こした。フリックはまた少し考えたあと、ゆっくりと言った。
「……砂漠を抜けきったらそこでばったり倒れちまって、夢の中で見る花ってことじゃないだろうな」
「………」
真面目な顔のフリックは、冗談を言っているようには見えなかった。
黙りこくってそんなことを考えていたのかと思うと、ビクトールは吹き出さずにはいられなかった。
「何だよっ!なに笑ってんだ!」
「だってよ、お前、恐ろしい想像をするよなぁ。砂漠の果てで見る花は、あの世で見る綺麗な花ってか。はは、そりゃいい」
確かにこの地獄を抜けきったところで、力尽きてもおかしくはない。あの世の花園に咲く花はさぞかし綺麗なことだろう。
「だから、俺はそんな花は見たくはない」
きっぱりと言い切るフリックを、ビクトールは黙って見つめた。
「俺はな、ビクトール。生きてここを越える。そう決めたんだ」
「………」
「………」
「そうか」
あの炎の中、フリックは死ぬ覚悟をしたはずだ。けれど今は、生きる覚悟を決めている。
彼の中で、何かがゆっくりと変化しているのだ。
口元に笑みを浮かべたビクトールに、フリックは馬鹿にされたと思ったのか、毛布を引っ掴んでごろりとその場に寝転んだ。
「もう寝る」
「ああ」
おやすみ、と言ってビクトールも砂の上に横になった。
生きてここを越え、そしてまた生きていくのだ。
上等だ、とビクトールは思った。
ぴりぴりとした緊張感をずっと持ちつづけているフリックだが、この砂漠を越える頃にはもうちょっと気持ちも落ち着いて、態度も柔らかくなっていることだろう。
生きるというのはそういうことだ。
笑わないフリック。
「見た事もない綺麗な花か……」
それは目には見えないものだと思っていた。ある意味、それは当たっているのかもしれない。
けれど、もしかすると、案外とすぐ近くにあるものなのかもしれない。
目を閉じる。
フリックの笑った顔は、いったいどんな風だっただろうか。






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