旨そうだな
とんとんとん、とスキップでもしそうな軽やかな足取りで、ナナミは階段を駆け上がった。薄暗い廊下を歩き、お目当ての扉をノックする。
「ビクトールさーん」
いつもの気軽さで細くあけた扉の間から顔を覗かせたナナミは、目にした光景に思わず口を噤んだ。
ナナミの姿に気づいたビクトールもまた、しーっというように立てた人差し指を口元へ運ぶ。
ナナミはそーっと足音を忍ばせて部屋の中に入ると、静かに扉を閉めた。
音をさせないようにしたのには理由がある。
フリックが眠っていたのだ。
それも、ビクトールに膝枕をされたまま。
ベッドに腰掛けたビクトールの膝に頭を乗せ、胸の上で指を組み、すやすやと眠るフリックは普段見られないような穏やかな表情をしていて、ナナミは思わずじーっと見入ってしまった。
「………熟睡だね、フリックさん」
「そうだな」
どこか面映いような苦笑を洩らし、ビクトールがフリックを見つめる。
昨日、恒例の交易の苦行から帰ってきたフリックは、今日は一日何の予定も入っていないのをいいことに、朝食を食べるとすぐに部屋に引きこもった。
昼が過ぎ、少し寝ると言ったフリックに、強引に膝枕をしたのはビクトールだ。
最初こそ嫌がっていたフリックだが、睡魔に負けたのか、それともせっかくの休日に勝てない口喧嘩をするのが面倒になったのか、それとも、
「せっかく二人きりでのんびりできるってのに、ちょっとくらいお前に触れさせてくれたっていいじゃねぇかよ」
という、ビクトールの一言に負けたのか。最後は渋々ながらも頭を預けたのだ。そしてゆっくりと髪を梳くビクトールの指の心地良さに、フリックはあっさりと眠りに落ちた。
そして、今もまだ眠り続けている。
久しぶりに本拠地に戻ってきて、ゆっくり身体を休めてるんだろうなぁなどと思っていたナナミだが、まさかこういうことになっていようとは想像もしていなかった。
誰かに膝枕をさせるような人ではないと思っていたというのに。
「フリックさんて、寝顔は子供みたいだね」
「お前、それは本人の前で言うなよ。絶対怒るから」
「うん。でも、そういうところも子供だよね」
「確かにな」
ビクトールはぷっと吹き出した。
ナナミやリーダーや、とにかく自分よりも年下の子供の言うことなど適当に流していればいいのに、フリックはいつも本気で怒ったり意見したりするのだ。
けれど、だからこそ、誰からも愛されるのだろうとも思う。
「で、どうしたんだ?フリックに何か用か?」
ビクトールが小声で尋ねると、思い出したようにナナミが笑った。
「あ、えーっとね、これおやつのお裾分け。ハイ・ヨーさん特製のモンブラン。ほら、この前みんなで栗拾いに行ったでしょ。あの時の栗で作ったケーキ」
ナナミが小さな箱を目の前に差し出す。見て見てと嬉しそうに飽けた開けた箱の中には、ちっちゃなケーキがふたつ、ちんまりと入っていた。
「へぇ、旨そうだなぁ」
「でしょ?」
「悪いがそこに置いといてくれ。フリックが起きたら一緒に食うからよ」
「うん」
ナナミはベッドの脇のテーブルの上にケーキの箱を置いた。そしてぐるりと部屋の中を見渡した。
特別用事がない限り、ナナミはビクトールたちの部屋に来ることはない。物珍しげに辺りを見渡してみるが、意外と片付いていて、余計なものは何も無い。
気持ちのいい部屋だなぁと思う。
別に広々としているわけではない。むしろ二人では狭いくらいだろう。
日々仲間は増えていく同盟軍では、増築作業も進めてはいるが、資金不足もあってなかなか進んでいないのが現状である。
生活していくにはやはり不便には違いないはずなのに、ここはとても居心地がいい。
大きく開け放たれた窓から吹き込む風が冷たく感じられ、ナナミは腕を伸ばして窓を閉めた。
「お、悪いな」
「フリックさんて、ほんとにビクトールさんには心を許してるんだねぇ」
「うん?」
「だって、いつもなら人の気配を感じたらすぐに起きちゃうでしょ。一緒に交易とか行ってるとね、絶対に熟睡することなんてないんだよ。私やディランや、みんなのこと、守らなくちゃっていつも気を張ってるんだよね」
「まぁ、それが仕事だしなぁ」
フリックでなくてもそうだろう。野宿でもしている時に、ぐぅぐぅ眠っていたら、その方が問題だ。
「うん、でもね、例えばビクトールさんが一緒だとするでしょ。そうしたらね、フリックさんはいつもの半分くらいしか気を張らなくて済むんだよね」
「…………」
「カミューさんやマイクロトフさんや、他の人ではだめなんだよね。みんな強い人だし、信頼のできる人には違いないけど、だけどフリックさんはだめなんだと思う。何でだろうね」
「……さぁな」
「フリックさんにとって、ビクトールさんは特別なんだよね、きっと」
にっこりと笑うナナミの一言に、ビクトールは何か眩しいものでも見るかのように目を細めた。
フリックは、ビクトールにとっては間違いなく特別な存在で、何者にも変え難い大切な人ではあったけれど、フリックにとっても自分がそうであるということは、あまり考えたことがなかったのだ。
フリックにとっても、自分は特別な存在になっているのだろうか。
何時の間にか、気づかないうちに、自分たちの関係は目に見えない深いところで繋がり合うような、そんな絆になっていたのだろうか。
「伊達に何年もつるんでるわけじゃねぇからな」
自分に言い聞かせるようにつぶやいてみる。
ビクトールは自分の膝の上で安らかな寝顔を見せるフリックを眺め、そして少しばかり胸が温かくなるのを感じた。
「あ、フリックさん」
小さく身じろいで、フリックがゆっくりと目蓋を開けた。
焦点の合わない虚ろな瞳の色は、やがてしっかりとしたものに変わり、そこにナナミがいることに気づくと、びっくりしたように大きく目を見開いた。
「おはよー、フリックさん」
「ナナミ?何でここにいるんだ?」
「ケーキ持ってきてあげたんだよ。ふふ、フリックさんてば、寝顔可愛いね。あとでニナちゃんにも教えてあげよーっと」
ナナミは悪事を企む子供のようにニンマリと笑うと、ひらひらと手を振って部屋を出て行った。
最後に一言、
「ビクトールさんに膝枕されてたことは黙っておいてあげるねー」
と言って。
「………くそっ、またこれをネタに、俺はからかわれるのかよ」
こんなことなら膝枕なんてするんじゃなかった、と腐ったようにフリックが舌打ちをする。ビクトールの膝から起き上がろうとするフリックの肩を、ビクトールがやんわりと押し返した。
「何だよ?」
きょとんとするフリックにビクトールが笑う。
「何だろうな、お前のこと好きなんだなぁって思ってよ……」
「……何だよ、突然に」
お前の方こそ寝ぼけてんじゃないのか、とフリックが訝しそうに眉を顰める。
けれど、ゆっくりと近づいてくる唇を、フリックは拒むことなく目を閉じて受け止めた。何かを伝えようとするかのような優しい口づけを堪能する。
「…そうじゃないか……」
「ああ?」
「そうじゃなくてよ、俺がお前のこと好きなんじゃなくて、お前が俺のこと好きなんだよなぁ」
口づけを解いたビクトールが言った馬鹿げた一言に、フリックは一瞬後に呆れたような顔をしてみせた。
「……やっぱりお前寝惚けてるだろ。いいからナナミが持ってきてくれたケーキを食おうぜ。腹減った」
さっさとベッドから降りて、ケーキの箱を開けるフリック。
ビクトールの言葉を否定するでもなく、照れるわけでもなく。いったいいつから当たり前のことのように、フリックはすべてを受け入れるようになったのだろうか。
知らない間に変わっていた。
自分たちはゆっくりと、こんな関係になっていたのだ。
今変わったわけじゃない。
あまりに当たり前のことすぎて、気づかなかっただけなのだ。
「お、旨そうだな」
フリックが嬉しそうにケーキを片手で掴み上げる。
「この前の栗拾いで拾った栗だとよ」
「へぇ、ほらよ」
「わっ、馬鹿っ。箱を投げるなっ!」
ケーキが崩れるだろうが、と怒鳴るビクトールに、フリックは屈託の無い笑顔を見せる。
(ビクトールさんには心を許してるんだねぇ)
ナナミの言葉は、どうやら思いの他嬉しいものだったようで、その日は一日、ビクトールは上機嫌だった。そんなビクトールの上機嫌の理由がフリックには分からなかったが、まぁそれはそれで悪い気はしないので、別段追求することもなかった。
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