マーヴェラス5


「ひどい」
屋敷から街中へと入ったシーナは、辺りの惨状に愕然と足を止めた。
崩れた建物と、その間を逃げまどう人々。シーナは何度も人とぶつかりながら先へと進んだ。炎の上がっている場所がいったいいくつあるのか見当もつかない。いつもなら静かで穏やかな街中は一変してまるで地獄のような有り様だった。そんな中、呆然と立ち尽くすだけ男に気づいて、シーナがその肩を掴んだ。
「おい、何ぼーっと見てるんだよっ!火事が起きたらどうするか、ちゃんと決められてるだろっ!しっかりしろよっ!」
「もうだめだ……こんなことになるなんて……」
男はおろおろするばかりでまるで動こうとしない。シーナはその胸倉を掴んだ。
「馬鹿野郎っ!何がだめなんだっ!放っておけば全部なくなっちまうんだぞっ!しっかりしろ!さっさと動けっ!」
シーナの怒鳴り声に、周りにいた連中もはっとしたように我に返った。そして一人が慌てて水のある場所へと駆け出すと、そのあとを追って全員が走り出した。非常用の井戸の蓋を開け、バケツを下ろす。くみ出した水が次々に男たちの手から手へと渡っていく。まだ小さな炎しか見せていない場所から消火作業が始まった。
やっとやるべきことを思い出した街の連中に、シーナはほっとした。
けれど、きっとこんなことくらいでは炎を食い止めることはできないだろう。今まで戦いの中で何度も火を放たれた町の最後を目にしてきた。人の手によって放たれた火は回りも早いが、今回はまだマシかもしれない。幸いなのはここ数年で石造りの建物が増えてきていることくらいだろうか。とにかくみんな早く避難してくれれば何とか……・。
そこでシーナははっと立ち止まった。
炎から逃げたくても逃げられない人が、診療所にはいる。
「シーナっ!」
突然駆け出したシーナをハンフリーが追いかける。
「どこへ行く」
「診療所!子供とじぃさんたちがそこにいる。火事になったら逃げられないよっ」
もしかしたら診療所からは火は出ていないかもしれない。けれど、子供たちだけで無事に逃げられるとは思えない。まともに歩くこともできない老人が逃げられるとは思えない。シーナは全速力で診療所へと向かった。
子供たちがいる診療所から火は出ておらず、シーナが到着した時には、泣き叫ぶ子供たちが次々に建物から連れ出されるところだった。
「みんな無事?」
「わーん、恐いよぉ…っ」
子供たちがシーナに抱きつく。
「大丈夫。もう大丈夫だからな。もう誰も中にはいないか?」
子供たちを連れ出した男に聞くと、もう誰もいないと答えた。ほっとして、シーナは子供の頭を撫でた。
「大丈夫だ。泣かなくていい」
シーナは子供たちを屋敷へと連れていくように男に言うと、ハンフリーを振り返った。
「あと二箇所。俺は診療所を見に行くけど、ハンフリーは……」
「一緒に行こう」
うん、とうなづいて、シーナは少しばかり不安そうにハンフリーを見上げた。
「大丈夫だよな」
「……大丈夫だ」
シーナは大きく深呼吸すると、次の診療所へと駆け出した。途中、パニックになる街人に、広場へ行くようにと声をかける。炎を避けるように迂回して大通りに出た時、足元がぐらりと揺れ、シーナはその場にしゃがみこんだ。先ほどよりは幾分小さな揺れが追い討ちをかけるように街を襲った。
「シーナっ」
がらがらと大きな音を立てて、すぐ間近の建物が崩れた。悲鳴が上がる中、ハンフリーがシーナの身体を引き寄せる。シーナの耳元を掠めて瓦礫が散らばる。その場で身を低くしてきつく目を閉じ、揺れがおさまるのをただ祈るしかなかった。
ほんの数秒。気持ちの悪い揺れが止むと、シーナはハンフリーの腕から顔を覗かせた。
「……ハンフリー、怪我してるっ」
「ああ…大丈夫だ」
シーナを庇った時に受けたのであろう傷口から血が溢れていた。シーナは手をかざすと短く紋章を唱えた。傷を癒す紋章は暖かくハンフリーの腕から痛みを取り去った。
「大丈夫?」
「ああ」
昔からシーナは紋章を得意としていたことを思い出した。だから無意識に診療所の仕事を選んだのだろうか、などと場違いなことを考えてしまい、ハンフリーは思わず苦笑した。こんな時に何を考えているんだと頭を振る。
シーナが再び診療所に向かって歩き出した。向かう先はハンフリーとともに訪れたあの診療所だった。昼に歩いたばかりの街並みはまるで別のもののように思えた。今まで何度も戦いに巻き込まれた街を見てきた。人の手により破壊された街はいつも心を重くしたが、憎むべき相手がいた。こんな風に誰が悪いわけでもなく街が破壊されると、その憤りをどこへ向ければいいか分からなくなる。
「ハンフリーっ!」
「……っ」
見えてきた診療所は炎に包まれていた。建物の外には数人の老人がうずくまっている。すでに火を消そうと数人の男たちが作業をはじめていた。
「大丈夫かっ」
「おお、シーナか……えらいことになってしまった……」
老人たちはシーナの顔を見るとその腕にすがりついた。揺れが起きた時、診療所はもう灯りが消えており、ほとんど全員がベッドに入っていたという。
「良かった、無事で…」
「火が出たのは隣からなんじゃ……あっという間に飛び火して……」
「シーナっ!」
叫び声に顔を上げると、煙で顔を汚した医師のアンディが助け出した怪我人を連れてきているところだった。
「アンディ、無事?」
「ああ、だがまだ中に人がいる」
「えっ」
「ハクトのじぃさんも逃げ遅れた」
驚いて辺りを見渡したが、確かに彼の姿はない。他にもまだ二人が中に取り残されているという。シーナは立ち上がると消火活動をする男の手からバケツを奪い、その身に水を被った。
「シーナっ!どうするつもりだっ」
「助けに行くに決まってるだろっ!」
アンディが慌ててシーナを引き止める。
「俺が今一人助け出したのが精一杯だった。もう中は炎と煙で……」
「俺が行くからっ!このまま放っておくわけにはいかないだろっ」
アンディの手を振り切り、シーナが建物の中へと入っていく。ハンフリーが同じように水を被り、あとを追った。建物の中は煙で充満していた。濡れた袖で口元を押さえ、取り残された老人たちのいる二階へと向かう。息が苦しくて、肌を焼くような熱に眩暈がした。何度も火に炙られながらも、通い慣れた二階の病室に入ると、窓際で身を寄せ合う老人たちの姿が煙の向こうに見えた。
「大丈夫っ!!生きてるかっ!」
「シーナ……」
げほげほと咳き込む老人たちに肩を貸し、何とか立ち上がらせる。ハンフリーが歩けないという一人を背負った。
「じぃさん、歩けるか?」
ハクトはうんうんとうなづいた。シーナはぐるりと辺りを見渡した。他に取り残された人がいないことを確認し、出口となる扉の方を振り返る。すでに炎が舐めるように壁を這っている。
「ハンフリー、窓から出られないかな」
「……」
ハンフリーは窓から外を覗いた。確かにあの炎の中を潜り抜けるのと、ここから飛び降りるのではその危険度は変わらないかもしれない。屋敷の窓から飛び降りたシーナのことを思えば、それも不可能ではないようにも思える。だが……。
「俺たちならいけるかもしれんが、歳寄りには無理だ」
「だよな」
分かってはいたが少しばかり絶望的な気分になる。炎はますます激しくなっている。自分とハンフリーならば、何とか抜け出すこともできるだろうが、歩みの遅い老人たちを連れていけるだろうか。そんな不安を見透かしたように、ハンフリーが力強く言い切った。
「大丈夫だ、行くぞ」
「うん」
ハンフリーが先に歩き出す。老人たちには花瓶の水で濡らしたシーツを頭から被せ、目を閉じているように命じた。
「まさかお前が来るとは思わなかったの」
ハクトの言葉にシーナは笑った。
「しょうがねぇだろ、あんたらがもたもたしてるから」
「ははっ、それは仕方がないな。何しろ病人だからな」
「ちぇ、そうやってすぐに病人ぶるんだからな」
別に病人ぶっているわけではなく、本当に病人だ、とハクトが笑って反論する。こんな時だからこそ軽口を叩かずにはいられない気になり、シーナもわざと大声で笑った。
めりめりと音を立てて壁が崩れ落ちる。降りかかる火の粉から庇うように、シーナがハクトの頭上に手を差し伸べた瞬間、ぐらりと真横の柱が倒れかかって来た。
「危ないっ!」
どんっと背を突き飛ばされ、シーナは前へと倒れ込んだ。振り返ったハンフリーがシーナと老人を引っ張った。凄まじい音と共に炎も舞い上がる。熱くて喉の奥が焼け付きそうだった。床に手をついたシーナは慌てて自分を突き飛ばしたハクトを探した。
「じぃさんっ!!!」
そこにハクトの姿はない。戻ろうとするシーナの手首をハンフリーが強く掴んだ。
「シーナ!」
「離せよっ!じぃさんがっ!!」
振りほどこうとするシーナの手を、ハンフリーは離さない。離そうとしないことの意味に、シーナは激しい痛みを感じた。
「ハンフリーっ!離せよっ!」
「だめだ」
「行け、シーナ」
「……っ」
煙の中からハクトの声がした。シーナが床に這いつくばってハクトの名を呼ぶ。
「わしはもう無理じゃ。柱の下敷きになってしまった。いいから行け」
「何言ってんだよっ!!!今助けにいくからっ!!」
「いいから行け。ここでもたもたしていたらお前たちまで死んでしまうぞ」
言われるまでもなく、この建物はもうすぐ崩れ落ちるだろう。早くしなければ、外へ出られなくなる。シーナの思いを見透かしたようにハクトが先を促す。
「階段が落ちたら終りだぞ、早く行くんだ」
「そんなこと……っ」
彼をここに残して行けというのか。死ぬと分かっていて残して行くなんてできるはずがない。シーナはぶんぶんと頭を振った。息苦しくて、ぼろぼろと涙が溢れた。動けないでいるシーナに、ハクトが言った。
「お前が来てくれて嬉しかった」
「……っ」
「もう十分だ」
姿の見えないハクトの声は、死を目前にしてもどこか穏やかで、それがなおさらシーナの心を痛くした。
「……いや…だ…っ!!!」
うずくまり、大声を張り上げるシーナの肩をハンフリーが掴む。
「行くぞ、シーナ」
「ハンフリーっ!!」
分かってはいた。もうどうすることもできないのだと。ハクトを助けるには時間がない。ハンフリーに背負われた老人もシーナが抱える老人も、もう意識が朦朧としている。
「行け、シーナ」
小さくハクトが告げる。シーナはぎゅっと唇を噛み締め、やがてのろのろと立ち上がった。そのまま振り返らずにハンフリーと共に歩き出す。今にも落ちそうな階段を何とか降り、建物の外へと出る。すぐさまアンディが駆け寄り、力尽きたようにその場にしゃがみこむ老人たちを安全な場所へと移動させた。
「シーナ、ハクトはどうした?」
「………っ」
黙り込むシーナに、アンディは何があったのかを悟ったのか、ぎゅっとその肩を掴んで、そのままその場を離れた。
しばらくするとぐしゃりと診療所がその姿を崩した。あの中にまだハクトがいるのだと思うと、シーナは溢れる涙を止めることができなかった。
どうしようもなかったのだと頭では理解できる。けれど、ハクトを見捨ててしまったことへの罪悪感は拭い去ることができない。自分の力ではどうすることもできなかった。どうすることもできなかった。
「シーナ……」
「どうして……じぃさんは…やっと元気になった、のに……」
もう退院できると喜んでいたのだ。それなのに、こんなことで命を落とすなんて。
ハンフリーはぐいっとシーナ腕を取って立たせると、ぱしんとその頬を叩いた。
「しっかりしろ、お前にはまだやるべきことがあるだろう。診療所はまだ一つ残っているぞ」
「………っ」
今自分が何をすべきなのか。悲しんでいる暇はないのだ。今はその時ではないのだ。いつまでもここで涙を流しているわけにはいかない。分かってはいるが、ハンフリーの冷静さがその時は少しばかり恨めしく思えた。
燃え落ちる診療所をあとに、シーナとハンフリーは次の診療所を目指した。その場所は幸いにも火は出ておらず、みな無事だとわかった。
やっとレパントやウェズからの指示が行き渡り、人々が安全な場所へと移動する頃には、激しかった炎もようやくおさまり始めた。シーナはハンフリーと手分けして取り残された人がいないかの確認におわれた。
夜が白々と明け始める頃、街を包んでいた火はようやく鎮火された。けれどそこに残されたのは、昨日までの穏やかな街並ではなかった。
「戦争が終わった時に戻ったみたいだな」
街の約半分ほどが大きく損壊した。住む場所を失った者はみなレパントの指示により屋敷へと集められた。広間や客間を解放し、街が再建されるまではそこで生活するようになった。
街が元の姿に戻るまで、いったいどれくらいの時間がかかるのだろうか。
「やっと平和になったっていうのに、何でこんなことになるのかな…」
シーナはまったく別の街になってしまったような風景に溜息をついた。ハンフリーが煤で黒く汚れたシーナの頬を拭った。ざらりとした指の感触に、シーナはきゅっと唇を噛み締めた。
「大丈夫か?」
「うん……大丈夫……」
あちこちに火傷はしているが、たいしたことはない。
人々の誘導を終えると、シーナは一番被害の大きかった診療所……ハクトが命を落とした場所へと足を向けた。そこでは、付近の住人たちが手分けして瓦礫を取り去る作業を行なっていた。先頭になって働くアンディに声をかけると、彼は意外にも笑顔でシーナを迎えた。
「昨日はずいぶんあちこち駆けずり回って疲れただろう。ご苦労さん」
「アンディ……俺……」
「お前のおかげで二人が助かった。怪我はなかったか?」
二人は助けられた。けれど、ハクトのことは助けることができなかった。黙り込むシーナの頭を、アンディが鷲掴んだ。
「自分一人で助けられる命など、たかが知れている」
「………」
「なぁ、シーナ。医者なんてやってるとな、すべての人の命を救えるような気になるが、本当は救えないことの方が多いのかもしれない。そのたびに自分の力の無さを思い知らされて、落ち込んだりもするもんだ。けどな、どうしようもないんだ。納得もできないだろうし、悔しい思いもするだろうが、所詮人ひとりができることなんてたかが知れてる」
「そんなの……」
「大切なのは、それでも何かをしようと思う気持ちだ」
アンディはぐりぐりとシーナの頭を揺らした。
「どうせたかが知れてるからと何もしないのと、それでも必死に何かを行なうのではまったく違う。結果は同じでも、それはまったく別のことなんだ。お前はよくやった。死を悲しむなとは言わないが、自分を責めたりするんじゃない。いいか、自分を責めても何も変わりゃしねぇんだぞ」
そういう物言いもビクトールにそっくりだな、とシーナはぼんやりと思った。ビクトールもそうだった。何があっても前向きで、誰かを責めたりすることのない人だった。
アンディは薄汚れたシーナの頬をぺちぺちと叩く。
「ハクトはお前のことを自分の子供みたいに思っていたからな。最後にお前が来てくれて嬉しかったんじゃないかと思うぞ」
「……うん」
けれど、それは今のシーナには何の慰めにもならない。アンディはぽんぽんとシーナの頭を叩いて、明るい声で言った。
「ところでな、診療所が1つ潰れちまったし、あとの二つもまともに使える状態じゃない。お前、レパントに言って、屋敷の一部を診療所として開放してくれるように頼んでくれないか?」
「あー、そうだな。分かったよ。すぐに手配する」
「それから、薬や食べ物も優先して分けてくれ」
よろしく頼むぞ、と抜け目なく言い残し、アンディは慌しく作業へと戻っていった。
この地震で怪我をした人間が山のようにいる。しばらくの間、アンディは治療以外のことを考える時間はないだろう。
「ハンフリー、せっかくゆっくりするつもりで戻ってきたのに、とんだことになっちゃったな」
「いや、お前のそばにいられて良かった」
何も知らないところで危ない目にあうよりも、一緒にいれば助けてやることもできる。ハンフリーの言葉に、シーナは笑った。
「子供じゃないんだけどなぁ。ハンフリーにしてみれば、俺なんてまだまだ危なっかしい?」
「……そうじゃない」
あの混乱の中、シーナは自分がするべきことをきちんとこなしていた。そこにいるのは、もう子供だったシーナではなく、弱い者をちゃんと守ることのできる一人の男だった。
けれど、どれほどシーナが大人になったとしても、やはりハンフリーは心配をしてしまうだろう。その理由は簡単だ。シーナのことが好きだからだ。ただそれだけだ。
シーナは足元の瓦礫を蹴り飛ばした。
「永遠に続く平和なんてないのかな」
「………」
「やっと戦争なんてなくなったと思ったのにな」
切実なつぶやきに、ハンフリーは何も言ってやることはできなかった。
その日以来、それまでののんびりとした日常はどこかへ行ってしまったかのように、シーナは事務処理に忙殺されることになった。何しろ被害が大きく、レパントとウェズだけではとてもじゃないが対応しきれなかったのだ。もともと診療所を作る仕事をしていたシーナは、今回も全面的に任されてしまい、朝から晩まであちこちと走り回り、夜も遅くまで仕事におわれるようになった。とりあえず自分の仕事を終わらせないと、ハンフリーと一緒にここを出ることはできないのだ。すべてを放り出していくことは、今のシーナにはできなかった。ハクトをあんな形で亡くしてしまい、少なくとも診療所を元の姿にしてからでなければ、旅立つことはできない。
それが自分がするべき最後の仕事だと思ったのだ、
「何だか、いいように使われてる気がする……」
深夜にやっと帰ってきたシーナは、ハンフリーのベッドに沈み込んだ。
眠らずにシーナが戻ってくるのを待っていたハンフリーは、疲れた様子のシーナの髪を撫でた。優しい手の感触に、シーナはほっとしたように目を閉じた。
「……疲れてるんだろう?もう寝ろ」
「あのクソ親父、何でもかんでも俺に押し付けて、ウェズまでここぞとばかりに……、ちくしょー」
「それだけ頼りにされてるんだ」
「違うね。あれは絶対に嫌がらせだ」
シーナはくるりと寝返りを打つと、上目使いにハンフリーを見た。頭に置かれた大きな手に自分の手を重ねて、尋ねてみる。
「あのさ、もうちょっとだけ待ってくれる?」
「うん?」
「あとちょっとだけ、やることやったらさ、一緒に行くから。だからあとちょっとだけ待ってくれないかな」
地震の直前、一緒に旅に出ようと約束していた。何もなければ今頃二人でどこか新しい街にいるはずだった。その約束は果たせないままでいる。不可抗力だとはいえ、少しばかり申し訳ない気にもなる。
ハンフリーは何も言わない。それが余計にシーナには居たたまれない気にさせていた。
「そんなことは気にしなくていい」
「うん」
「しっかり働け」
「ちぇ。ご褒美くれよ」
こんなに毎日遅くまで働いてんだぞ、と唇を尖らせるシーナに、ハンフリーは苦笑した。そっと、小さな子供にするような優しいキスを、額に落とす。
「もう寝ろ」
「うん、そうする」
えっちする元気もないなんて、俺も年取ったよなーなどとぶつぶつ言うシーナだが、すぐに静かな寝息を立て始めた。
ぐっすりと眠って目が覚めたのはもう日が高くなろうという頃だった。シーナはぼんやりとした頭でハンフリーの姿を探したが、部屋にはいなかった。
いったいどこへ行ったんだろうと思いながら部屋を出ると、ばったりとウェズに出くわした。
「ずいぶんゆっくりだな。さっさと顔を洗って支度をしろ」
「……支度って何?それよりハンフリー知らない?」
「レパントと一緒に出かけた。さすがに昔は軍人だっただけはある。一を言えば十を理解してくれるからな、レパントも手放せないんだろう」
「ふうん」
「このままここで復旧に手を貸してくれるといいんだがな」
ぽつりと言ったウェズの言葉にシーナは苦笑した。ハンフリーがいろんな意味で有能だということは、ここ数日の働きぶりから知ることとなり、少なからずもシーナは驚いた。戦場での有能ぶりは知っていたが、こういう政治的な事務処理までも得意にしているなんて思わなかったのだ。ハンフリーは昔とある国で軍人だったわけで、そりゃあただの筋肉馬鹿では隊をまとめることなどできないのだと、今さながらに気づいたシーナである。
このままハンフリーがここに留まってくれれば、というのはウェズだけではなくシーナも思うことだった。けれど、もう二度と国という組織に属することはないと言っているハンフリーが、シーナのためにその意志を曲げることはないだろう。
「診療所の建替工事が始まる。見にいくか?」
「もちろん、何とか3ヶ月ほどで建つといいんだけどなぁ」
ウェズと二人、まだあちこち瓦礫で荒れた街を歩いた。地震の傷跡はまだ深かったが、それでもレパントが先頭に立ち復旧に向けてみな一生懸命に働いていた。家族を亡くした者も少なくはなかったが、それでも時間がたつにつれ、傷を抱えながらも前向きに動き始めている。
それは戦争が終わった時にも目にした同じような光景だった。そしてその度に、人間っていうのは強いなぁとシーナは思うのだ。結局、二度と立ち上がれない痛みなどないのだ。
それはシーナの心を少しばかり暖かくする。
診療所があった場所は新しく建物を建てるための木組みがされていた。職人たちの様子を見に、アンディも来ていた。
「よぉ、シーナ。お前、こんなところで油売ってていいのか?」
「遊びに来たわけじゃないって。ほら、一応俺、診療所担当大臣だからさ」
「そりゃ感心だ」
シーナが言うと、アンディはからりと笑った。今までも診療所の患者の対応で手一杯だったというのに、今回の災害で怪我人が続出し、アンディはそれこそ寝る間もないほどに治療におわれている。それでも文句も愚痴も言わずに、淡々と自分の業務をこなしている。
彼がいれば、自分はここを離れても大丈夫だろう、と思う。
診療所が建てば、自分のするべきことは終わるのだ。
「シーナ」
「え?」
「これからが大変だな」
「………」
アンディが胸元のポケットから煙草を取り出し火を点ける。
「お前が頑張ってくれたおかげで、診療所は一番に建ててもらえることになった。薬も食料も十分とはいえないが、レパントが他国へ働きかけてくれてるし、近いうちに援助物資もやってくるだろう。お前には感謝してる」
「……何だよ、突然……気持ち悪いじゃんかよ」
今までアンディと面と向かって真面目な話などしたことはなかった。真面目な話でさえもちゃかして言うアンディが、こんな真剣にシーナに語りかけるなど初めてのことだ。
「前に話しただろう、人ひとりができることなどたかが知れてると」
「うん」
「だが、人ひとりができることの積み重ねがなきゃ何もできやしない。診療所を作ることだけじゃない。もう一度平和な街を作っていくのも、小さなことの積み重ねだ。形あるものを作ってしまえば終りに思えるかもしれないが、本当はそうじゃなくて、例えばこんな風に災害が起きて被害があっても、また立ち上がろうと思える人が住む国にするのは並大抵のことじゃない。レパントはよくやってるが、一代じゃ無理だろう。国を作るっていうのはそういうことだ」
「………」
「という話を、以前ウェズとしたことがある」
アンディが離れた場所で職人たちに指示を伝えているウェズに視線を向けた。
「彼は、国を作るというのは形あるものを作ることじゃなくて、目には見えない人の心を作るものだと言っていた。それは一朝一夕でできるものじゃない。長い長い時間が必要だ。人ひとりで成し遂げられることではなく、その志を受け継ぐものだどうしても必要だ。レパントの志を受け継ぐものがな」
「………」
「お前がこれから先、どんな国を作っていくのか楽しみにしてる」
「俺は……っ」
アンディはぽんと、いつものようにシーナの頭に手をやると、そのままその場を去った。
一人の人間ではできないことも、それを受け継ぐ者がいれば成し遂げられることもある。シーナの父親であるレパントは立派に国を治めていた。災害でめちゃくちゃになった街も、必ず元通りにするだろう。けれど。
「シーナ、そろそろ戻ろう。天候がよくてもやはり3ヶ月では無理だろうな。まぁ、今のところ屋敷を代用として使えるからそれほど困ることは……どうした?」
ウェズが黙り込むシーナに不審そうに眉をひそめる。
「あのさ、俺は……ここでまだできることがあるのかな」
「………」
「俺なんて、別にいなくても親父やウェズがいて、ちゃんと国は平和でいられるって、ずっとそう思ってたんだけど、俺じゃないとできないことってあるのかな」
シーナは真っ直ぐにウェズを見つめた。
その答えを聞くのは恐かった。いなくてもいいと言われることも、いなくてはならないと言われることも。どちらもシーナにとっては何かを決断しなくてはならなくなる。
ウェズはふっと笑うと、ゆっくりと言った。
「シーナ」
「……」
「ただいるだけならば必要ない。けれど、お前が何かを成し遂げようと思うのならば、俺はお前のそばで力を貸そう。何があっても見捨てたりはしない。同じ志を持っている限りは、俺はお前の味方でいよう」
辺りを見渡して、再び元のように平和な生活を取り戻そうとしている人々を眺める。
一人ではできない。決してそれはできないのだ。
シーナはきゅっと唇を噛み締めた。


レパントと共に国境付近の様子を視察してきたハンフリーは、夜遅くになって屋敷に戻ってきた。部屋に入ると、テラスへと続き窓が開け放たれていることに気づいた。中途半端に開かれたカーテンがふわりと風に揺れる。
「シーナ?」
テラスの冷たい床に座り込んでいるシーナに、ハンフリーは声をかけた。
「あ、おかえりー。遅かったじゃんか」
「……どうした、こんなところで」
「ほら、月見酒」
シーナはグラスを掲げてへらりと笑った。言われてみれば夜空には綺麗な月が浮かんでいる。ハンフリーはマントを外すと、ばさりとシーナの身体にかけた。
「風邪を引くぞ」
「うん。まぁいいから、ハンフリーもちょっと座りなよ」
ぱんぱんと床を叩き、シーナはハンフリーを見上げる。ハンフリーは誘われるがままにシーナの隣に座り、残り半分ほどになっていたワインの瓶に口をつけた。
「美味いだろ?親父の大事にしてるワインをくすねてきた」
「ああ、美味い」
「こんな風にさ、ハンフリーと一緒に酒が飲みたいってずっと思ってたよ」
「………」
「だってさ、昔は未成年はだめだーっていっつも取り上げられてたしさ。二人でさ、酒場で美味しいお酒が飲みたいなーって思ってた。あんた、いっつも俺のこと子供扱いしてたからさ」
実際子供だっただろう、とハンフリーが笑う。
「そうだな、確かに子供だったな。何でも知ってるような気になって、何でもできると思ってた。あんたと一緒にいられたら、それでいいやって思ってた」
「………」
「あんたのこと大好きで、すっごく好きで、ほんとに一緒にいられるだけでいいんだけど、でも、俺さ……」
言いかけて、シーナはぽとりと涙を一粒流した。隣に座るハンフリーを見て、大きく息を吸い込む。
「俺さ……ごめん……やっぱり一緒に行けない……。行けない……」
そう言ってシーナはハンフリーの肩先に額を当てた。ハンフリーがどんな顔をするか、恐くて見ることができなかった。まさかこんな言葉を告げなければならないなんて夢にも思っていなかった。口にする1秒前まで迷っていた。一度口に出せば、引き返すことはできないことは分かっていた。けれど、言わなくてはいけないことだった。
「全部捨ててあんたと一緒に行くことは、本当はぜんぜん構わない。この状況の中で、無責任だとか逃げたとか、他の誰に何て言われても、そんなの全然平気だけど、だけど……ここで、やらなくちゃいけないことがある。もしかしたら俺がやらなくてもいいのかもしれない。誰かが代わりにやってくれることばかりかもしれない。でも……」
あの火事の中死んでしまったハクト。助けることができなかった自分。病に苦しむ人のために働くアンディ。一生懸命に元の生活を取り戻そうとしている人々。地震の被害から立ち直るまでの間だけ力を貸して欲しいといわれたのならば、シーナは何も迷わずにハンフリーと旅立っただろう。けれどシーナが本当にやらなくてはならないのは、その先のことなのだ。
「俺にしかできないことがあって……それは、俺だけじゃできないことかもしれないけど、その先にはまた誰かが引き継いでくれて、そうやって平和って続いていくものなのだとしたら、親父がやっとここまで作ってきたものや、思いとか、それは誰よりも俺が一番よく分かってるから、俺も誰かに伝えなきゃいけないのかなって。そうやって平和な時間ってできていくのかなって……」
何度も戦争を見てきた。戦争なんて二度と嫌だと思った。誰かが平和な時代を作ってくれればいいのにと思っていた。けれど、そうではないのだ。それは誰かが一人で作れるものではないのだ。シーナは顔を上げて、ハンフリーを見つめた。
「あんたと一緒に行けたら……どんなに良かったかな……何も考えないで一緒に行けたらよかったな」
「………」
「ごめんな……。一緒に行くなんて言ったくせに……行かないなんて…」
そう言って、シーナはぼたぼたと涙を溢れさせた。何度も何度もごめんなさいと言った。
ハンフリーはそっとシーナの首筋に手をやると、そのまま引き寄せ、柔らかな髪に口づけた。
「泣くな。泣く必要なんて何もない。お前がそう決めたのならそれでいい。だが、やると決めたからには簡単に投げ出したりするな。何があっても、逃げたりするんじゃないぞ」
「うん」
「俺たちは……力でしか平和な時間を取り戻すことができなかった。剣を振るい、多くの人が犠牲になり、心に大きな傷跡を残してきた。そうやって手に入れた平和を続けていくために必要なのは、もう剣の力ではない。お前は、それを知っている。だから正しく人々を導くことができるだろう」
そんな大層なことができるとは思っていない。ただ、平和を望む思いの連鎖の、その一つにはなれるかもしれないと思うだけだ。
シーナは両手を伸ばしてハンフリーを抱き締めた。ぎゅっと強く抱き締めた。
「ハンフリー、俺のこと嫌いになった?俺の方から一緒に連れてってくれって言ったのに、自分勝手にまた翻して。もう愛想が尽きた?もう会いたくない?もう、俺のこと…好きだとは思ってくれないかな…」
「シーナ」
「………」
「嫌いになど、なるはずがないだろう」
ハンフリーは目を閉じた。
腕の中のシーナは、もうあの頃のシーナではない。甘ったれで我侭で、いつも楽しそうに笑っていたあの頃のシーナはもういない。
時は確実に過ぎているのだ。いつまでも子供だったシーナを懐かしく思うのは、ただの感傷にすぎない。その証拠に、こうして自分から離れていこうとしているシーナのことを、前よりもずっと愛しく思っている。誰よりも愛している。
けれど、それを口にすることはできなかった。
言えば、シーナはなおさら苦しむことになるだろう。
「明日出て行く」
ハンフリーは静かに告げた。
「またしばらくは会えないが、元気でいろ」
シーナのぐっしょりと濡れた頬を指先で拭い、ハンフリーは優しく笑った。
ハンフリーは、もう二度と戻ってこないかもしれない。シーナはぼんやりと思った。シーナのことを好きだからこそ、そういうことを平気でできる男だ。
優しいくせに、残酷な男だ。
けれどやっぱり好きなのだ。誰よりも一番そばにいたい人なのだ。
「こんなこと頼むのはずるいって分かってるけどさ」
「………」
「会いに来てくれよな」
「………」
「絶対に戻ってきてくれよな。あんたがもう旅はいいや、って飽きたら、絶対に俺のとこに戻ってきて。俺、待ってるから。ずっと待ってる。今までだって待ってたんだ。少しくらい待つのは慣れてるからさ。大丈夫。ちゃんとイイコであんたのことを待ってる」
「年を取って、剣が持てなくなったら、か?お前の元に戻ってきても、何の役にも立てないぞ」
ハンフリーの言葉に、シーナはくすりと笑った。
「あんた言っただろ。これから必要なのは剣の力じゃないって。そんなの真っ平ごめんだって言うンなら、心配しなくても俺があんたを食わせてやるよ。悠々自適な老後が過ごせるように、俺がしっかり働くよ」
ふざけるシーナに、ハンフリーは苦笑した。シーナはその笑みに少し笑い、そして盛大に涙を溢れさせた。大きくしゃくりあげて、声を上げて泣き続ける。
ハンフリーが呆れたようにくしゃりと髪を撫でる。
「26歳にもなって」
「……っ…く…」
「お前はいつまでたっても子供だな」
そうやって人前で涙を見せることは少しも恥ずかしいとは思わないシーナのことが好きだった。
素直に自分の感情を表に出せるシーナのことが好きだった。
きっと、これからも嫌いにはなれないだろう。
「元気でいろ」
「……うん」
「また会いにくる」
「うん」
「…………」
「うん…」
ハンフリーがそっとシーナの耳元で囁いた言葉は、それまで決してハンフリーが口にすることはなかった言葉だった。



何も変わらない。
1年たとうが、10年たとうが、ハンフリーのことを好きでいる限り、何も変わらないのだ。
きっとハンフリーはふらりとまたシーナに会いにくるだろう。
そしてまたシーナは文句を言ってはハンフリーを困らせるのだ。
今度会った時には「一緒に行く」ではなくて、「ここにいてくれ」と言おうと思う。
ハンフリーはちょっと困った顔をして、けれど案外とすんなりとそれを受け入れてくれるかもしれない。二人して悠々自適な生活ができるように、それまで何とか一人でやってみようと思う。
大丈夫。ハンフリーのことを好きでいる限り、きっと何も変わらない。







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