怪我の功名


それはあっという間の出来事だった。
そんなに速度を出していたわけじゃない。制限速度の10キロオーバーなんて許容範囲内のはずだ。深夜の住宅街。人なんて滅多にいないわけだし。
ところが突然飛び出してきたヤツがいた。
慌ててハンドルを切った。ぐるりと視界が回り、天と地が逆転した。
記憶はそこまでである。






「痛いっ!!!!いってーーっ!てめぇ、もうちょっと優しくしろよっ!くそっ」
「うるせぇな、お前は。これくらいの怪我でぎゃーぎゃーわめくんじゃない」
ぎゅっときつく握られて、シーナは飛び上がらんばかりの痛みに息を飲んだ。
知らず知らずに涙が浮かんで、視界がぼやける。ぐったりとベッドに突っ伏すシーナの様子に、処置をしていたビクトールはしょうがないなと苦笑した。
「ったく、大袈裟なやつだな」
「ほんとに痛いんだよっ!」
「ああ、そりゃ痛いだろうな。何しろ見事にぽっきり折れてるんだからな」
どこか楽しそうにビクトールがうなづく。
そばにいる看護婦たちがくすくすと笑いを洩らしていることに、シーナは舌打ちをした。
ここは街一番の規模の総合病院の外科病棟の一室である。
夜道をバイクで走っていたシーナは、飛び出してきた猫を避けようとハンドルを切りそこね、そのまま横転しガードレールに衝突した……らしい。
らしい、というのはハンドルを切ったところで記憶がぷつりと切れているからである。
意識を失ったまま、生まれた初めて救急車なるものに乗り、救急に指定されているこの病院に運ばれた…らしい。ちゃんとヘルメットをしていたおかげで、頭を打ってはいるものの大事には至らず、その代りといっては何だが、左足がぽっきりと折れていた。
それが二日前のできごとである。
外科医であるビクトールの言葉を借りるなら、
「これくらいの怪我で済んだのは奇蹟に近い」
ということになる。
シーナは明け方には意識を取り戻し、精密検査をして現在結果待ちである。
ビクトールは脚の具合を見るために診察をしているわけだが、いい年をして、診察のたびに痛い痛いと喚くシーナにはほとほと呆れているのである。
「それにしてもお前、ずいぶんな金持ちなんだなぁ、あの特別室に入ってるんだって?」
仕上げ、とばかりに包帯の巻かれた足をぽんと叩き、ビクトールはカルテに向かった。
シーナは処置が終わったことにほっと肩の力を抜いて、頭の後ろで手を組んだ。
金持ちのボンボンがバイクで事故を起こした上に、病院に一室しかない特別室に入るなんてどういうことだ、という嫌味に聞こえないこともないが、ビクトールが口にすると、単純に事実だけを言っているように聞こえるから不思議である。
だがビクトールが嫌味を言いたくなるのも分からないではない。シーナの父親は現役の市長である。古くからの名家で市民からの信頼も厚い。立派な父親に比べてお前はどうだ、と言いたいのであろう。それは周りからさんざん言われていることなので、今さら何とも思わないシーナだが、今この状況で指摘されるとさすがに落ち込む。
シーナの担当になったビクトールは、見た目は熊みたいなごつい形をしていて、ちょっと恐い感じがしないでもないが、口を開くと豪快というか大らかというか、ある意味医者には見えない男だった。外科では一番の腕を持つという噂だが、本当だろうか?
「俺が金持ちなんじゃなくって、オヤジが金持ってるだけだよ。使うところがないから税金対策のためにこんな時に使おうって考えんじゃないの?俺は別に一般病棟でいいっていったのにさ」
ビクトールはカルテに何やら書き込みながら、シーナの言い分を鼻で笑った。
「税金対策、というよりは、あれだな。馬鹿息子がバイクで事故って入院だなんて恥ずかしくてしょうがないってとこなんじゃねぇか?」
「ば、馬鹿息子って何だよっ!」
むきになるシーナに、ビクトールが恐い顔をしてくるりと向き直った。
「馬鹿息子だろうが。親の脛かじってるうちは深夜にバイクに乗ってふらふらしてんじゃねぇ。事故まで起こして、おふくろさんがどれだけ心配したと思ってんだ。これにこりたら、もうちょっと真面目に親孝行をしておけ」
「………」
ふらふらしているつもりもないし、不真面目なつもりもない。一方的に説教されて、言い返したい気持ちはあったが、母親に心配をかけたことは言い逃れようのない事実なので、シーナは口を噤んだ。
「よし、じゃあ部屋に戻っていいぞ」
「なぁ、俺いつになったら退院できるの?」
「まぁ精密検査の結果がでて、どこも何ともないって分かればな。怪我は足の骨折と、身体の打撲だけだし。ま、しばらくここで大人しく反省しておけ。フリック」
ビクトールは奥に声をかけ、現われた看護士のフリックにカルテを渡した。
「薬よろしく。あとシーナを部屋まで連れてってくれ」
「了解」
フリックは手渡されたカルテを見て、うなづいた。一人で歩けないこともないが、車椅子に乗せてくれるというので、シーナは遠慮なくそれに甘えることにした。何しろ車椅子なんて滅多に乗れるものではない。
「フリックってさー、いくつなの?あのビクトールに扱き使われてるんじゃないの?」
病院の白いリノリウムの床がきゅっと音を立てる。フリックに車椅子を押してもらいながらも、シーナは首をひねってあれやこれやとフリックに話し掛けていた。しばらくは迷惑そうな顔をしていたフリックも、やがて根負けしたのか重い口を開くようになった。
「……俺の歳を聞いてどうするつもりだ?言っておくが、お前よりはずっと年上だぞ」
「分かってるよ」
「おまけに男だからな」
「それも分かってるって。いやーでも白い制服ってのは見てるだけで、こう興奮するっていうか何ていうか……」
どこかうきうきとした様子のシーナに、フリックは頬を引き攣らせた。
「お前は、事故を起こして怪我をして入院してるんだぞ?よくそんなふざけたことが言えるな」
「でもさ、俺以外だれも怪我をしなかったんだしさ、不幸中の幸いだろ?ほんと誰のことも巻き込まなくてよかったよ」
にっこりと屈託のない笑みを見せるシーナを見て、フリックは彼が意外と真面目な性格をしてるのかもしれないなと思った。市長の一人息子が手に負えない放蕩息子だという噂は聞いていたし、シーナが入院すると聞いた時は、先入観からかいい印象が持っていなかったのだが、こうして実際に話をしてみると、シーナは思っていたよりも頭のいいヤツなのかもしれないと思えてくる。
「フリックさー、俺が退院したら一度デートしよっか?たまには若いヤツと遊ぶのもいい刺激になると思うだけどなー」
「丁重にお断りする」
「何でさー、いいじゃんか。あんなおっさんよりはずっといいぜ」
「お、おっさん!?って…誰のことを言ってるんだ?」
フリックがぴたりと足を止める。まさか、と思っているのがありありと浮かんだ表情にシーナはにんまりと笑う。
「フリックって、ビクトールと出来てんだろ?」
「………っ!!!!!」
一瞬のちに真っ赤になったフリックに、シーナはあーあと白々しく肩を落としてみせる。
「やっぱりなー。どうもビクトールの目つきがおかしいと思ったらやっぱりそうか。てかさ、医者が看護士に手を出すっていうのは問題あるんじゃないの?風紀が乱れるっつーか。セクハラ?でもまぁ医者って金持ってるっていうし、あんな熊でももてるんだろうなぁ」
「シーナ……」
「あ、大丈夫大丈夫、俺誰にも言わないから。その代りさ、あの熊に、俺の治療する時にあんまり痛くしないでくれって頼んでおいてよ。あの馬鹿力でぐいぐい握られたらもう死んじゃうよ」
「………」
やっぱりこいつはロクでもない。
フリックは無言のまま、最上階にある特別室の扉を開けた。中は広々としていて、6人部屋の一般病棟とは比べ物にならない。その代り一日のベッド代も目が飛び出るほどの金額である。こんな馬鹿息子にこんな贅沢をさせるから、ますます馬鹿になるんだ、とフリックは胸の中で毒づいた。
「さ、大人しく寝てろ。いいか、病院内をうろうろするんじゃないぞ」
「分かってるよ。まだ足痛くて遊びに行く元気なんてないよ」
「どうだか。じゃあな、お大事に」
「ありがとー」
ひらひらと手を振って、シーナはフリックを見送った。一人きりになると、これといってすることもないので、テレビをつけてみたが、平日の昼間に興味のある番組などやっていない。
よくよく考えてみると、今は世間で言うところのGWなのである。初日から事故を起こしてしまったため、どう考えてもこの連休は遊びに行けそうもない。
「あーもったいないことしたー」
どうせなら連休が終わってから事故ればよかった、かも。
母親が置いていった花の水を変えてやり、中庭に面したベランダの窓を開けてみる。自殺防止のためなのか、高い柵が張り巡らされているが、外の風景はよく見える。
シーナはポケットから煙草を取り出して火をつけると、一服した。
ここに入院している子供たちが看護士に連れられて中庭で遊んでいる姿が見える。
「可愛いなぁ」
天気もいい。こんな日に病室ですることもなくじっとしているなんて、本当にもったいない話である。
ふと、シーナは病棟から現われた背の高い男に目を留めた。
ビクトールも体格のいい男だが、それに負けてない。白衣を着ているということは当然医者だろう。子供たちが彼を見つけると、みな一斉に駆け寄っていく。足元に纏わりつく子供たちに嫌な顔一つせず、その医者は身を屈め、一人づつ頭を撫でた。
無骨そうな顔つきに似合わず、その目は優しい。
その意外性に、シーナは思わず笑った。普段滅多に病気などしないので、病院に来ることなどない。医者といえば何となく恐いイメージがあるのだが、どうもそうではないらしい。
彼が何やら子供達に言い、それに従うように看護士たちが子供たちを集め始めた。もうそろそろ風も冷たくなってくるので、部屋に戻るようにでも言ったのだろう。
子供たちが彼に手を振り、病室へと戻っていく。最後までそれを見送っていた彼が、シーナの視線に気づいたように顔を上げた。目が合う。まさか手を振るわけにもいかず、シーナはぎこちなく軽く頭を下げた。
それに気づいたのか気づいていないのか、彼は足早に病棟へと戻っていった。
「何だよ、せっかく挨拶したのにさ」
軽く頭を下げた程度だったので気づかなかったのかもしれない。まぁ別にどうでもいいか、とシーナは溜息をついた。
二本目の煙草に火を点け、ぼんやりと青空を見上げる。夜になれば仕事を終えた父親がやってくるだろう。そしてまたネチネチとお小言を言われるのだ。それを思うだけでうんざりする。
「逃げる場所もないしな」
腹をくくって怒鳴られるかと思った時、ふいに背後に人の気配を感じた。振り向くより早く、延びてきた腕がシーナの指の間から煙草を取り上げた。
ごくりと喉を鳴らして振り返ると、そこには先ほど中庭にいた医者が立っていた。
「……え、っと…どちらさま……?」
いきなり現われた大男に、シーナは目を見張る。
「ここは禁煙だ」
「あ、す、すみません……」
「お前、まだ未成年だろう?煙草は二十歳になってからだと教えられなかったか?成長期の身体には百害あって一利なしだ」
「………はぁ」
ぴしゃりと言われて返す言葉もない。しおらしく項垂れながらも、シーナは上目使いに男の胸元へと視線を向けた。身分証明書代わりに顔写真とネームプレートがつけられている。

(ハンフリー・ミンツ)

やはり医者のようだが、どうやら中庭からシーナが煙草を吸っているのを見つけて、わざわざここまでやってきたのだろう。まったく面識もない相手からいきなり叱られて、いつもなら八つ当たり気味に腹を立てるところだが、不思議とそんな気にはならなかった。
「ベッドに戻れ」
「はい」
よっこらしょと立ち上がると、ハンフリーはシーナに手を貸してくれた。大きな手に、シーナは安心して体を預けた。ベッドに戻ると、ハンフリーは包帯の巻かれた足を見た。
「骨折か?」
「うん。バイクで事故った」
「それくらいの怪我で済んでよかったな。担当は……ビクトールか……」
ベッドの上につけられた担当医の札を見て、ハンフリーは笑う。
「あいつの処置は手加減なしだから覚悟しておいた方がいい」
「もう痛い目にあったよ。ビクトールと仲いいの?」
ハンフリーは少し考えたあと、そうだなとうなづいた。
「同期だからな。あいつは言葉は乱暴だが悪いヤツじゃない。だが未成年が煙草を吸っていたと知れば俺以上に怒るだろう」
「ふうん」
「煙草は中毒になる。やめるなら若いうちにやめた方がいい。わざわざ毒になるものを口にすることはない」
「でもさ、何かこう、口淋しいっていうかさー、手持ち無沙汰になっちゃうんだよ」
シーナは初対面の、それも自分よりもずっと年上の相手と話しているとは思えない口振りで言った。自分でも不思議だった。人見知りをする方ではなかったが、何だかハンフリーは話していて心地良いと感じるのだ。
ハンフリーは白衣のポケットに手を入れると、何やら小さな缶を取り出した。ぱくんと音をさせて蓋を開けると、中から黄色いドロップキャンディを取り出した。
「口を開けろ」
「え?」
断る間もなく、ハンフリーはシーナの口の中に、レモン味のキャンディを一粒放り投げた。小さい頃に食べた覚えのある甘い味が口の中に広がっていく。
「口淋しいなら飴でも舐めてろ。いいか、煙草はやめるんだぞ」
そう言って、ハンフリーはまだずっしりと重いキャンディの缶をシーナに手渡した。
部屋を出て行こうとするハンフリーに、シーナは声をかけた。
「ハンフリー」
「?」
「……ありがと」
ぽつりと言ったシーナに、ハンフリーは微かに笑い、部屋を出て行った。
「変なヤツ」
シーナはベッドにころりと横になり、キャンディの缶を眺めた。
眺めているうちに、自然と笑いが込み上げて顔がにやけてきた。いかつい見た目から、まさかこんなキャンディの缶が出てくるとは想像もできなかった。もしかして甘いものが好きなのだろうか。ハンフリーこそ酒と煙草が似合いそうなのに、甘党だったりすると笑えるではないか。
「ハンフリーか……」
変な医者だな、と改めて思った。



「まだ痛む?」
心配そうに首を傾げる母親に、シーナは大丈夫大丈夫と笑った。
入院も三日も過ぎれば本当に退屈になってくる。何しろ足が動かないのだからどうしようもない。身体は元気なわけだし、あちこち行きたいのだが、まだ歩くとずきずきと痛むのだ。
骨折、と診断されたが、本当は何か違う症状があるんじゃないかと疑いたくなるほどだ。ビクトールは相変わらず手加減のない診察をするし、フリックはあれ以来シーナを避けるようになっている。
何ともつまらない入院生活である。
唯一、母親のアイリーンだけが、シーナの心配をしてせっせと通ってくれているのだ。
「シーナ、果物でも食べる?」
「いいよ。おふくろさー、忙しいんだから毎日来てくれなくてもいいって。俺、ちゃんと大人しくてしてるからさ」
「そうねぇ、でもお父さんがちゃんとあなたを見てないと何をやらかすか分からないから、ってずいぶんと心配してるのよ。ほら、ここの医院長はお父さんのお友達でしょ?無理言って個室に入れてもらったし、迷惑かけちゃだめだからって」
「だからさー、俺は別に一般病棟でいいっていったのに」
「そうねぇ」
仮にも市長の息子が一般病棟じゃ示しがつかないとでも思っているのだろうか。それともビクトールが言うように、事故を起こした息子が恥ずかしいのか。
「じゃあそろそろ帰るわね。何か欲しいものあったら持ってくるけど?」
「いいよいいよ。売店で何でも買えるしさ」
送るよ、とシーナはベッドから足を下ろした。痛みはあるが歩けないわけじゃない。本当なら退院してもよさそうなものなのに、まだ許してもらえないのだ。ベッドにずっと寝ていると身体も鈍るし、体力も落ちそうなので、なるべく歩くようにしているのだ。
「ねぇ、せっかくの連休だったのに遊びにいけなかったし、退院したら美味しいものでも食べにいきましょうね」
「………そだね」
にっこりと微笑む母親はまだ若く、とても19歳の息子の母親とは思えない。良妻賢母を絵に描いたような母親のことを、シーナは大好きだったし、今回のことで心配をかけてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。だが、いつまでたってもシーナのことを子供扱いするのはどうにかして欲しいとも常々思っているのだ。それを口にして言わないのはやはり一人息子の気弱さゆえなのか。
「じゃあ気をつけて」
病院の出口までアイリーンを見送って、シーナはやれやれと溜息をついた。そして目についた待合室のソファに腰を下ろした。このまま部屋に戻るには足が痛んで仕方なかったのだ。
「たったこれだけで痛いんだからなー」
ほんとに治るのだろうか?などとおかしな不安も湧いてきて、らしくもなく暗い気分になる。その時、廊下の先から歩いてくるハンフリーの姿に気づいた。
とたん、暗い気分が一転した。
「ハンフリー」
声をかけると、ハンフリーも足を止めた。あれ以来、シーナはハンフリーの姿を見かけるたびに、声をかけるようになっていた。ハンフリーも医者という立場からか、シーナの他愛ない話にもちゃんと答えてくれる。忙しいのに悪いかなぁと思いながらも、ハンフリーと話ができるのが楽しくて、姿を見かけると、ついつい声をかけてしまっていた。
今も、声をかけたシーナに、ハンフリーは律儀に足を止めてくれた。
「どうした、こんなところで。あまり無理をしない方がいいんじゃないのか?」
「平気平気。ちょっとは動かないと余計に治らない気がするしさー」
ハンフリーはシーナが座っている場所に視線を巡らせ、口を噤んだ。病院の待合室、少し先には喫煙コーナーがある。シーナはハンフリーが何を考えているかすぐに分かり、苦笑した。
「違うって。あれから煙草は吸ってないって。ほら、もらったキャンディ舐めてるしさー」
そう言って、シーナはポケットからハンフリーにもらったキャンディの缶を取り出して目の前で振ってみせた。禁煙しているというのは嘘ではなかった。別にヘビースモーカーというわけでもなかったし、やめようと思えばいつでもやめれるだろうと思っていたのだ。ただきっかけがなかった。ハンフリーがキャンディをくれたおかげで、やめてもいいかなと思ったのだ。
「そうか、えらいな」
「……えらいな、って。俺、子供じゃないんだぜ。もう19なのに、その言い方はないんじゃない?」
「俺から見ればまだまだ子供だ」
ハンフリーは手を伸ばして、くしゃりとシーナの頭を撫でた。
今さらながらに、シーナは思い出した。
ハンフリーが小児科医だったことを。
そう、小児科医である。どう見ても似合わない。顔は恐いし、あまり愛想がいいとも思えない。それなのに子供を相手にする小児科医である。そして意外にも子供に人気があるらしい。
それをビクトールから聞かされた時は、あまりのギャップに言葉を失い、そしてそのあと吹き出した。けれどたぶん、ハンフリーはいい医者なのだろう。初めてハンフリーを中庭で見かけたとき、子供たちがみなハンフリーの元へと駆け寄ったのだから、きっとそういうことなのだ。
「ほら、これをやろう」
ハンフリーが白衣のポケットから取り出した新しいキャンディの缶。手にするとずっしりと重い。
「新しいヤツだ。今度は苺味だ」
「………なぁ、これってあんたが自分で買ってるの?」
「そうだが?」
「………」
いったいどんな顔をして甘いお菓子を買っているのか、それを想像するとまた笑えてくる。
シーナが笑いを堪えていると、ハンフリーが腑に落ちないような表情をして、腕時計を見た。
「すまないな、急いでいるのでもう行く。一人で部屋に戻れるか?」
「当たり前だろー!ほんと俺のこと子供だと思ってるだろっ!!」
思わず怒鳴るシーナに、ハンフリーは楽しそうに笑った。
「ハンフリー、お昼一緒に食べようよ。仕事何時に終わるの?」
「……今から会議だからな、時間は約束できないな」
「いいよ、俺待ってるから。3階の食堂で待ち合わせ。約束な」
強引な約束だが、ハンフリーはしょうがないなというように笑うだけである。時間通りに終わるような仕事ではないだろうから、困るとかできないとか、そう言われたとしてもシーナは怒ったりはしなかっただろうに、ハンフリーはそういうことはしないのだ。
「ハンフリー、待ってるから」
「わかった」
なるべく早く行くと言い、ハンフリーはその場を去っていった。
シーナがぼんやりとその後ろ姿を見ていると、いきなり頭を鷲づかみにされた。
「おいこら、お前はまたふらふらと歩きまわってるな」
「あ、ビクトール」
振り返ると、そこには渋い顔をしたビクトールが立っていた。その後ろにはフリック。
「お前なぁ、少しは歩いた方がいいが、あまり無茶すると逆に治りが悪くなるんだぞ」
「分かってるよー」
「何だ、いつの間にハンフリーと仲良くなったんだ?」
シーナの手の中のキャンディの缶を見て、ビクトールがほんの少しばかり眉をしかめる。
「はは、ハンフリーって面白いよなー」
「……フリック、先行っててくれー。ああ、さっき言ったことちゃんと婦長に伝えておいてくれよな」
「わかった」
フリックはうなづくと、ちらりとシーナを一瞥して、ハンフリーが向かった方向へと歩いていった。
「シーナよ、ちょっと聞きたいことがあるんだがなぁ」
「何だよ」
ビクトールがこっちへこいというように手招きをする。待合室の片隅のソファに腰を下ろすと、ビクトールは胸ポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出した。火をつけて、美味そうに煙を吐き出す。
「あー、仕事のあとの一服はまた格別だなー」
「……あんた、俺が禁煙中だって知っててわざとやってるだろ」
シーナが恨めしげに言うと、ビクトールはからりと笑った。
「で、何なんだよ。あ、もしかして精密検査の結果が良くなかったとか?わーそういう話はさー、もうちょっとこう心の準備ができてからにしてくれないかなー。俺、こう見えても実は小心者だからさー」
「うるせぇな、誰が検査結果をこんなところで告げるかってんだ」
ビクトールは心底うんざりしたように言い捨てると、まだ火をつけたばかりの煙草を灰皿の淵に押し付けて消した。
「ハンフリーのことだがなぁ」
「え、何だよ」
突然ハンフリーの名前が出て、シーナは心臓が止まるかと思うくらい驚いた。顔が火照りそうな気がして、頬に手をやる。そんなシーナを横目に見ていたビクトールは、いつになく真面目な表情で言った。
「あんまりおかしなちょっかいかけるんじゃねぇぞ」
「………おかしなちょっかいって何だよ?」
「そのまんまだよ。お前、ハンフリーに興味あるんだろ?」
「……っ」
ずばりと指摘されて、シーナは言葉に詰まった。ビクトールの指摘は正しい。確かにハンフリーに興味がある。ハンフリーは今までシーナが出会ったことのないタイプの人間だったからだ。無口なのに、でもちゃんと人の話に付き合って答えてくれる。冷たそうに見えて、でも優しい。父親みたいな、と言うと絶対にファザコンだと笑われそうなので言わないが、ハンフリーといると安心できる。まだ知り合って間もないし、話をした回数など片手に余るほどなのに、でもシーナはハンフリーに好意を抱いていた。それのどこが悪いというのだろうか。
「余計なお世話だとは思うがな、ハンフリーはやめておけ。あいつにはちゃーんと決まった相手がいるんだ。下手に入れ込むと、あとで泣くことになるぞ」
「……何だよ、それ」
「ちょっとは自分で考えろ。時間は腐るほどあるんだろうが」
ビクトールは立ち上がると、シーナを見下ろし、そしてどこか優しい笑みを浮かべた。伸ばした手がくしゃりとシーナの前髪を撫でる。
「あんた、俺の髪触るの好きだなー」
「おう、猫みたいで気持ちいいぜ」
「フリックにチクっちゃおうかなー。ビクトールが俺にちょっかいかけるって」
ふんぞり返るようにしてソファの背にもたれ、シーナがそっぽ向いて言うと、ビクトールはわざとらしく両手を上げて見せた。
「そいつぁ困るなー。あいつは意外とヤキモチ焼きなんだ。おかしなこと吹き込むんじゃねぇぞ」
「はいはい」
もう部屋に戻れよと言い残して、ビクトールは外科病棟へと去って行った。残されたシーナはビクトールからの一言にショックを受けている自分がいることに気づいた。
ハンフリーには決まった相手がいる。
その一言は想像もしていなかったものだった。よくよく考えてみれば奥さんや子どもがいたっておかしくはないのだ。もちろん独身だということは知っていたけれど、でも恋人の一人や二人いてもおかしくない。何しろ医者である。社会的ステータスも、収入も文句のつけようはないわけで、黙っていても女の方から近寄ってくるだろうし。
「別にいいけどさ、……別に……」
別に好きだとか、付き合いたいだとか、そんなことを思っているわけじゃないのだ。当たり前だ、同じ男なのだから。けれど……。
「くそっ」
ビクトールの言葉で気づかされてしまった。好きだなんて思っているわけじゃないのに、ハンフリーに大切な人がいるという事実に、とても、とても嫌な気持ちにさせられた。
それがどういうことなのか、突き詰めて考えるのはさらに嫌なのでシーナは振り切るようにして頭を振って立ち上がった。
一緒にお昼を食べようと思っていたけれど、だけどそれもハンフリーにとっては迷惑なことだろう。ハンフリーはシーナのことを、小児科病棟にいる子供と同じようにしかみていないのだから。
シーナは痛む脚を庇いながら、特別室へと戻った。





会議が終り、ハンフリーが食堂へと来れたのはもう1時をずいぶんと回った頃だった。広い食堂の中に、シーナの姿を探したが見つけることはできなかった。さすがに待ちくたびれて帰ったかと考えた。
それも当然だろう。
普通ならばこんな約束などすることはなかった。患者の一人と必要以上に親しくすることはやはり誉められたものではないし、ましてやシーナは自分の担当の患者ではないのだから。
けれど、会うたびに人懐こい笑みを浮かべて声をかけてくるシーナを、いつしか愛しく思い始めているのもまた事実だった。それは自分が受け持つ小児科の子供たちに対する感情と似たようでもあり、けれどどこか違うようにも思えた。どう違うのかは上手く説明することはできなかったけれど。
「………」
ハンフリーはしばらく考えたあと、そのまま食堂をあとにし、シーナが入っている特別室へと足を向けた。待っていると言ったのはシーナの方で、別にわざわざ尋ねていく必要などどこにもありはしないのに、不思議と自分が悪いことをしてしまったような気になっていた。
滅多に足を踏み入れることのない最上階の廊下を奥へと向かう。
扉の前で一瞬躊躇したあと、軽くノックをして中へと入った。南向きの日当たりのいい病室は暖かかった。シーナはベッドの上に腰かけて窓の外を眺めていたが、ハンフリーが部屋に入ると、ぱっと顔を向けて目を丸くした。
「あれ、ハンフリー……」
「昼食は食べたのか?」
尋ねると、シーナは食べた食べた、と明るく笑った。けれど、ハンフリーにはそれがすぐに嘘だと分かってしまう。何の根拠もない。けれど、シーナが嘘をつくとすぐに分かる。いったいどうしてそんな嘘をつくのか分からなかった。やはり怒っているのだろうか、と思うと少しばかり胸が痛んだ。
「遅くなってすまなかったな。約束していたのに」
「いいっていいって、俺が勝手に押し付けた約束だったしさ、ハンフリーが謝ることじゃないって」
「シーナ、腹が減ってるなら何か買ってきてやろう。何がいい?」
「………だから、食べたって言ってるのに」
唇を尖らせるシーナに思わず笑いが漏れた。ベッドサイドに立ち、手を伸ばす。触れた柔らかな髪の感触が心地良くて、ハンフリーはくしゃりと撫でた。
「ったく、ビクトールもあんたもさ、俺のことネコの子か何かと間違えてるんじゃないのかなー。そんなに気持ちいい?俺の髪」
「そうだな」
ふざけるようにして、ハンフリーの胸元に頭をすりよせていたシーナがぴたりとその動きを止めた。
「あのさー」
「……何だ?」
顔を上げたシーナは、少し困ったような目をしていた。
「えっと、ちょっと聞いてもいいかな」
「何だ?」
「ハンフリーって、今好きな人いるの?」
いきなりの質問に、さすがのハンフリーも言葉を失った。いったいシーナが何を聞きたいのか、どう答えていいのかが分からない。
「奥さん、はいないんだよな。けど、恋人とかさ、好きな人とかさ、そういう相手はいるのかなーって」
「………何故そんなことを聞く?」
「え」
心底驚いたようなシーナの様子に、ハンフリーの方こそ驚いてしまう。何かの意図があって質問しているのではないのだろうか。そんなことを聞いてどうするつもりなのか、ハンフリーにはよく分からなかった。
「何でかな。えーっと、ビクトールがさ、ハンフリーには決まった人がいるって言ってたから……」
「………」
あいつはいったい何を言っているんだ、とハンフリーは溜息をついた。大学時代からの付き合いになるビクトールは、いつもお調子者でとても医者には見えないところがあるが、それでも何の意味もないことをするほど馬鹿ではない。だから、シーナにそんなことを言ったのには何か理由があるのだろうが……。
「本当なのかなーって。知りたかったんだ。知りたいっていうだけじゃ、だめかな」
「……シーナ」
「うん?」
「……いや」
そっと薄い肩を押し返した。シーナはハンフリーの白衣に手をかけたまま、少し俯き加減でじっとしていた。別に嘘をつくつもりも、隠すこともないので、ハンフリーはシーナの手をそっと掴んで言った。
「ビクトールが何を言ったかは知らんが、俺には今、決まった相手はいない。医者ってのは意外ともてない職業だ」
「………ほんとに?」
「何故嘘をつく必要がある?」
「うん、そうだね」
あっさりと、シーナはうなづいた。
それこそ嘘かもしれないハンフリーの言葉を、シーナは何の疑いも見せずに受け入れた。そのことがハンフリーには驚きだった。小児科病棟の子供だって、ここまで素直にハンフリーの言葉を丸ごと受け入れたりはしないというのに。
ハンフリーはぽんぽんとシーナの頭を叩いた。
「明日、一緒に飯を食うか?」
「うん!今度は遅れてくるなよ」
シーナが約束、といって小指を差し出す。ハンフリーはためらいながらもその指に小指を絡ませた。
指きりなんて、いったい何年ぶりだろうか。




ビクトールに騙されたのだと知ったシーナは、当然怒り心頭であった。
「何なんだよっ!いったい何でそんな嘘つくんだよっ!!!!」
「わかったから、喚くな。そして、そういうことは本人に言ってくれ」
フリックは体温計をチェックして、問題なしとカルテに書き込んだ。特別室は散らかり放題で、フリックは露骨に眉をしかめた。雑誌が山積みになったテーブルにはお菓子の屑が散らばっている。
「お前な、少しは綺麗に掃除しろ」
「あー、俺そういうの苦手なんだよなー…って、そんなことはどうでもよくて!!なぁ、何でビクトールはあんな嘘ついたりしたんだよ!」
「知らないよ」
「嘘つけ、あんたとビクトールの間で知らないことがあるもんかっ!」
「か、勝手に決め付けるな!!」
フリックが真っ赤になって怒鳴る。
「なぁ、何でだよ?」
「………だから、あれだろ……お前とハンフリーじゃ、ほら、年齢も違いすぎるし……」
渋々といった感じでフリックが明後日の方向を向きながら答える。やっぱり知ってるんじゃないか、とこっそり胸の中でつぶやいて、シーナは身を乗り出した。
「年齢〜?何それ?」
「だから……ビクトールが言うには……、いいか、俺が言ったわけじゃないからなっ!ビクトールが言うには、お前、ハンフリーのこと、す、好きになるだろうから…そうなる前に、止めた方がいいって」
「…………はぁ?」
「ハンフリーはいいヤツだけど、子供の手には負えないって……」
「はぁ??????」
「だから、俺が言ったわけじゃないからっ!!!」
シーナは混乱する頭でその意味を考えた。好きになるっていったい何の根拠があってそんなことを言っているのだろうか。だいたいもし本当にハンフリーのことを好きになったとして、それをビクトールに邪魔されなくてはいけない理由もないはずだ。
まったく余計なお世話である。っていうか、好きになるってどういうことだ。
「シーナ、お前、本当にハンフリーのこと好きなのか?」
「………」
フリックもハンフリーのことは昔からよく知っている。医者にしてはめずらしいくらい真面目でまともな男である。看護士からの人気も高い。だが浮いた話はまったくない。勉強熱心で、小児科にはなくてはならない存在である。だからもしシーナがハンフリーのことを好きになったと言っても、そのこと自体は別に驚くことではないと思っている。だが、ハンフリーがシーナなことを受け入れる可能性は低いだろう。人一倍常識人であるハンフリーが同性の、自分よりもずっと年下のシーナを受け入れる可能性は低いだろう。ビクトールは、そうなることを分かっていて、シーナに釘を刺したのかもしれない。まだ二十歳にもならないシーナが無駄に傷つかないように。そう思ったのかもしれない。
「……好きになるって、どういうことだろう」
「え?」
フリックがきょとんと瞬く。
「だってさ、俺、よくわかんないだもん。どうなったら好きってことになるのか、よく分からないし」
「………」
「どうなったら好きなわけ?ここまでは何ともなくて、ここからはもう違いますって、その線はどうやったら分かるんだよ。わかんないよ」
拗ねたように言うシーナに、フリックは彼がまだ19歳だということに今さらながらに気づいた。こんなことを簡単に口にできるほどに、シーナは子供なのだ。ビクトールが待ったをかける気持ちも分かるような気がする。けれど、フリックは逆に、そんなシーナならばいいような気もした。
「そんなの、考える必要はないだろ」
フリックがとんとんとボールペンの端でカルテを叩く。
「例えば、一緒にお昼を食べたいなぁとか、そういうことだと思うけどな」
「………え?」
「今日も明日も、一緒にお昼を食べたいって、そういうのが大事だと思う」
フリックの言葉は、すとんとシーナの中に落ちてきた。すごく簡単なことだから、見えなくなっていたのかもしれない。
「あー、うん、そっか。お昼は一緒に、食べたいな、うん」
どこか照れたようにシーナは笑った。
ハンフリーのことはまだ何も知らない。彼が今までどんな風に生きてきたのか、何を考えているのか、どんなものが好きで、何が嫌いなのか。何を思って医者になったのか、何に喜び、何に悩むのか、そんなことは何も知らない。
そういうことを知りたいと思うよりも、一緒にお昼を食べたいと思う気持ちの方が強かった。
だから、好きということとは違うのだと思ったのだ。
でもそうじゃない。同じことなのだ。
「ああ、明日検査の結果が出るからな。足の怪我はどうせ時間がたたなくちゃ治らないし、結果に問題がなければ退院できるよ」
よかったな、とフリックが微笑む。退院は確かに嬉しいことではあるが、そうなるともうハンフリーには会えなくなるのだ。ハンフリーとはただ医者と患者というだけの繋がりしかないのだから。
「そっか……退院かぁ……」
嬉しいはずのことなのに、素直に喜べないことに、やっとハンフリーへの気持ちに気づいた。
会えないのが淋しいなんて、何て分かりやすいことだろう。


次の日、約束通り少し早めの昼食をとるために食堂を訪れたハンフリーは、窓際の席で頬杖をついたシーナを見つけた。
「シーナ」
「あ、ハンフリー、お疲れさまー。よかったちゃんと来てくれて」
「……何を食べる?取ってきてやろう」
じゃあ定食を、と告げ、シーナはハンフリーが戻ってくるのを大人しく待った。病院の食堂の食事はお世辞にも美味いとは言えないのだが、それでもここのはまだましな方だった。トレイに乗せた定食を持って帰ってきたハンフリーは、シーナの目の前に腰を下ろした。しばらく黙々と食べていた二人だが、やがてシーナが決意したように口を開いた。
「あのさ、ハンフリーに報告があるんだ」
「うん?」
「俺、退院することになったよ」
午前にビクトールが教えてくれた。精密検査の結果は問題なかった、と。頭を打っていたので心配したが、その後も吐き気も頭痛も起こっていないし、検査の結果も特に問題はなかったので、あとは足の骨折だけである。レパントはしばらく入院させておきたいようではあるが、入院する必要のない人間をいつまでも特別室にいれておくわけにもいかない。
「そうか、良かったな」
ハンフリーの言葉は本心からのものだと分かるもので、それはうれしいものではあったが、簡単に喜ばれるとちょっと淋しいような気もする。
「それだけ?」
「?」
「俺に言うことは、それだけ?」
医者が患者に言う言葉だけしか、ハンフリーはくれないのだろうか。
そんなことは当たり前だと思っていても、やっぱりそれはシーナにとっては胸が痛いことだった。でもそれを素直に口にするのは恐かった。ハンフリーが自分のことを何とも思っていないことを思い知らされるのは、とても辛い。
「もう事故なんて起こすんじゃないぞ」
「………わかってる」
言うことはそれだけかよ、とやはり少し恨めしい気持ちになる。どこか怒ったような口調のシーナに、ハンフリーは箸を止めた。
「どうした?」
「ううん。あのさ、退院祝いに何かちょうだい。俺、禁煙もしたことだしさ」
一転してにっこりと笑うシーナに、ハンフリーは黙り込む。卵焼きちょうだいといってハンフリーの皿に箸を伸ばし、返事をする前に食べてしまうシーナに、ハンフリーは苦笑した。
「退院祝いか。わかった、欲しいものを考えておけ」
「わーい、何でもいいの?」
「ああ。かまわん」
シーナが欲しいと思うものが何かは分からないが、よほどのものでもない限り、手に入れることはできるだろう。幸いなことに、人よりは多少給料もいいのだ。
いったいシーナは何を言うのだろうか、とその答えを待っていたが、シーナは頬杖をついたまま黙っている。
「シーナ?」
「うーん、もうちょっと考える。せっかくハンフリーが大盤振る舞いしてくれそうだしさ」
「ああ、退院するまでに決めておけばいい」
「うん、そうするよ」
無理矢理に、シーナは笑った。もうすぐお別れなら、せめて一緒にいる間は笑っていたいと思ったのだ。
そしてやっぱりハンフリーのことが好きなんだなぁと実感した。
いや、好きなのかどうかは、正直なところ自信はなかった。けれどフリックの言葉を借りるなら、この先もずっと一緒にこうしてごはんを食べたいと思うのだ。それが好きという気持ちなのなら、シーナはハンフリーのことが好きなのだろう。
「退院はいつだ?」
「明日」
明日でハンフリーとはお別れだ。
シーナはもう一度にっこりと笑ってみせた。



明日で最後。明日で最後。明日で最後。
シーナの頭の中をそんな言葉がエンドレスで繰り返されていた。深夜の特別室のベッドの上にちんまりとあぐらをかいて腕を組み、シーナはハンフリーのことを考えていた。
考えることは山ほどあったが、とりあえず目の前の問題は、明日でもうハンフリーと会えなくなるということだ。そりゃあ会おうと思えば無理矢理でも会える、かもしれない。
けれど、何の理由もない。いや、理由ならある。
ハンフリーのことが好きなのだと言えばいい。そうすれば少なくともシーナの方には会おうとする理由はできる。けれど、逆にハンフリーは避けるようになるかもしれない。
「当たって砕けるのは嫌だしな」
だが、当たらなければ始まらない。どうせ明日で最後なら、当たってみるのもいいのではないか、とシーナは心を決めた。
「よし。決めた」
とん、と両足をベッドの下へと下ろす。骨折をした足はまだ痛んだ。けれど、そんなことはどうでもよかった。とにかく今会わなくてはいけないような気がして仕方がない。
ハンフリーは今夜は夜勤だと言っていた。だとすれば当然小児病棟にいるはずだ。ほんのちょっと話をするくらいの時間はあるだろう。仕事中にひょこひょこ会いにいけば怒られるかもしれない。いや多分怒るだろう。でもいいのだ。今、そうしたいと思うのだから、そうするだけだ。
シーナはそっと暗い廊下を小児科病棟へと向かった。
時折巡回中の看護士と鉢合わせそうになって、あわてて物影に隠れる。
やっとの思いで小児科病棟にやってきたシーナだが、詰め所がどこだか分からない。たぶん、あっちの方向だろうと当たりをつけて一歩踏み出した時、ふと階段に人影を感じて振り返った。
「うん?」
看護士だろうか、と一瞬ひやりとしたが、子供だったような気がした。気になって、シーナは階段の手すりをつかんだ。
「幽霊とかは勘弁だぞ」
まさかなーと思いながら、足を引きずりながら階段を上がっていくと、やはりそこには子供の姿があった。
「おーい、そこのきみー。何やってんだ?」
振り返ったのはまだ幼稚園に通うくらいの年齢の男の子だった。パジャマ姿で、どこか寝惚けたような顔をしている。シーナが声をかけると、きょろきょろと辺りを見渡して、突然何かに怯えたように涙を溢れさせた。
「お母さん、どこー?」
やっぱり寝惚けてる。シーナはやれやれと肩を落として、階段を一段あがった。男の子は突然現われたシーナに驚いたのか、慌てて逃げようとする。
「こらこら、逃げるんじゃないって」
別に怒ってるわけじゃないんだしさーとシーナが笑いかけた瞬間、男の子の足が階段から滑った。ぐらりとバランスを崩して、男の子の身体が階段の下へと傾いた。
「………っ!」
慌てて手を差し伸べる。右腕の中に男との子の身体の重みがかかる。左手で咄嗟に手すりを掴んだが、勢いに任せてシーナもまた足を踏み外した。
「うわ……っ!」
思わず男の子の体を抱え込んだ。それは本当に一瞬の出来事だったが、シーナは重力に引き寄せられるように階段の下へと落ちる短い時間の間に、こんなところで事故ったなんて知ったらまたオヤジに怒られるなぁなどとつまらないことが脳裏に浮かんだ。
「……っ!」
男の子を抱えたまま、シーナは床に叩き付けられた。肩と足に激しい痛みを感じ、シーナは低く唸った。大声で叫びだしたいほどの痛みに、息が詰まりそうだった。
「どうしたっ!?」
大きな物音に気づいて、詰め所から人がやってきた。当然、その中にはハンフリーもいた。シーナの姿を見て、さすがに慌てたように駆け寄ってきた。
「シーナ?」
「……最悪……」
まったく何でこんな目に会わなくちゃいけないんだ、とシーナはあまりの運の悪さに涙が出そうになった。


「複雑骨折」
ビクトールが頬を引き攣らせて、シーナの足のレントゲンを見て言った。
道理で痛いはずである。男の子を抱えて階段から落ちた時、どうやら足の真上に男の子が落ちてきたらしい。やっと治りかけていた足は再び見事に折れてしまった。それも今度はさらにひどい複雑骨折である。ビクトールはがしがしと頭をかき、面倒臭そうに舌打ちした。
「ったく、せっかく退院だって時に、何だってお前はこんなことを」
「すんません」
ねちねちと説教をするビクトールを横目に、シーナは少し離れたところに立つハンフリーのことが気になっていた。シーナと一緒に階段から落ちた男の子は、シーナが体を張った甲斐あって、怪我もしていないということだった。何よりである。けれどハンフリーは黙ったままである。シーナがあの場にいたのは、ハンフリーに話があったからだというと、それきりハンフリーは黙り込んでしまったのだ。怒っているのか、それとも呆れているのか、どちらにしても合わせる顔がない。
「おい、シーナ。聞いてるのか!」
「聞いてるよ」
「………とりあえず今日はもう寝ろ。退院は延期。ま、骨折だからな、しばらく様子を見て、早いうちに退院できるようにしてやるよ」
「そりゃどうも」
シーナは軽く手を上げた。ビクトールは立ち上がり、そばにいるハンフリーの肩を軽く叩くと、部屋を出て行った。シーナはちらりとハンフリーを見た。いつになく恐い顔をしているハンフリーに、かける言葉もない。気まずい空気が流れる中、先に動いたのはハンフリーの方だった。
シーナのそばに近寄ると、深く溜息をつく。
「あの……ごめん、迷惑…かけちゃった……よな?」
「いや…、お前のおかげで彼は怪我をせずにすんだ」
「…………でも、ハンフリー、怒ってるじゃんか」
「………」
ハンフリーはベッドの端に腰を下ろすと、真っ直ぐにシーナを見て言った。
「どうしてあんな時間に、俺に会いにこようとしていた?何か、大事な話でもあったのか?」
「……あった……いや、あるんだ、今でも」
「何だ?」
問われて、シーナは口篭もった。
自分の気持ちを伝えるために、わざわざ出向いたというのに、いざ本人を目の前にすると、何といっていいのか分からない。好きだということは簡単だが、そんな言葉でちゃんと気持ちは伝わるのだろうか。
「あのさ……、俺…えっと……これからもハンフリーと一緒にごはんが食べたい」
「………」
「退院しても、一緒に食べたい」
何を言ってるんだ、俺は!とシーナはがっくりと肩を落とす。
こんな言葉じゃ絶対にハンフリーは自分の気持ちは分かってくれないだろう。自分で言っててもよく意味が分からないのだから、ハンフリーにしてみればなおさらだ。かといって、どう言えばいいのか分からない。好きという言葉を口にするのは簡単だけど、何だか誰にでも言ってると思われるのはちょっと困る。だから、何といっていいか分からない。
ハンフリーは黙ってそんなシーナを見ていたが、やがてくしゃりと髪を撫でた。
「以前……」
「え?」
弾かれたように、シーナが顔をあげる。
「もうずいぶんと以前のことだが、フリックのことを好きなヤツがいて、俺の目から見ても、どう考えてもフリックがそれを受け入れるとは思えなかったが、結局フリックはヤツのことを受け入れた。その時、理由を聞いた俺に、フリックが言ったんだ」
「何て?」
「『一緒にごはんを食べてて楽しかったから、まぁそれが理由かな。これからもずっと一緒に食べたいって思ったんだ』ってな」
「……っ」
ハンフリーの大きな掌が、紅く染まるシーナの頬に滑り落ちた。
「その時はよく意味が分からなかったが、今はよく分かる。俺もお前と食事をしていて楽しかったし、また食べたいと思った。……それがどういう意味かもよく分かる」
「え、えっと……そ、そっか……うん」
ぎこちなく、シーナは笑った。自分と同じように、ハンフリーもまた一緒にごはんを食べることを楽しいと思っていてくれたのだ。それは、とても嬉しいことで、少しばかり気恥ずかしい気もした。
「えーっと、じゃあ俺たちって、ごはん食べるのが楽しいだけじゃなくて、もっと他のことをしても楽しいって思えるような仲になれるのかな?」
思い切ってシーナが聞いてみると、ハンフリーはきゅっとシーナの頬を指先で抓んだ。
「それは、お互いの努力次第だと思うがな」
「じゃあ、とりあえず明日から毎日一緒にお昼を食べよう。俺の足が治る頃にはさ、努力の結果が出るんじゃないかな」
「なるほど」
静かに笑うハンフリーだが、シーナには不思議と大丈夫だという確信があった。
たぶん、ハンフリーとは上手くいく。
胸を満たす感情は、今まで恋だと思っていたのとは全然違う。もっと深くて、もっと暖かいものだ。
努力なんて、きっとしなくて大丈夫なのだ。




「あんまり無茶するなよ」
ビクトールがぺちんとシーナの額を叩く。松葉杖をついたシーナは、歯向かうこともできず眉をしかめるしかない。ようやく退院にこぎつけたシーナは、病院の正面玄関で世話になったビクトールに見送られていた。
「ちゃんと週に1回は通院しろよ〜…って、お前、言わなくても毎日やってきそうだな」
「へへへー」
シーナはビクトールの隣のハンフリーにしか目が行っていない。やれやれ、とビクトールは溜息をついた。ハンフリーが外科医でなかったのは幸いである。もし外科医なら冗談ではなく毎日病院にやってくるだろう。ハンフリーもまんざらではない風で、まったくもってどうなってんだと思わずにはいられない。せっかく忠告してやったのに、どうなっても知らないからな、と思う反面、まぁそうなってしまったものは仕方ないとも思う。年齢以上に落ち着いたハンフリーと、年齢よりも子供っぽいシーナがどんな付き合いをしていくのか、他人事だと思えば楽しみではある。
「えっと、今度は外で食事しよっか」
シーナがハンフリーを見上げる。
「そうだな」
「うん」
足が治ったら、もっといろんなことをしよう。
食事をするだけでは、さすがに物足りない。
「こういうのを怪我の巧妙っていうんだっけ?」
ちょっと違うかなと首を傾げるシーナに、ハンフリーとビクトールは顔を見合わせた。
事故に事故を重ねて複雑骨折をしたというのに、シーナにはまったく懲りた様子がない。
「あ、ハンフリー。退院祝いちゃんとくれよな」
「何が欲しいんだ?」
そういえばそんな約束をしていたな、と思い出す。
「今度二人きりになった時に言うよ。楽しみにしてて」
何を企んでいるのか、シーナがにこにこと笑う。
どうにも甘ったるい空気に辟易して、ビクトールはさっさとその場を去ることにした。だいたい退院祝いを贈る方に、楽しみにしてて、とはどういうことだ。
あいつはいったい何をねだるつもりなんだ、とビクトールは何ともいやーな気分で職場に戻った。
後に、退院祝いが何だったかを聞いたビクトールは、再びいやーな気分になるのだが、それはまた別の話である。





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