10 years  4


「で、シーナがどうかしたのか?」
 わざと問い返すビクトールを、そばにいたフリックはよせよ、と小さく戒める。ハンフリーはどう反応していいのか考えていたようだが、結局何も言わずにビクトールの正面に座った。
 泣く子も黙るような鋭い視線にも、ビクトールは少しも臆することない。ハンフリーの前へとジョッキを差し出すと、まぁ飲めと笑う。まだ陽も高いうちから酒か、とハンフリーが渋い顔をしても、どこ吹く風である。
「んな恐い顔すんなって、お前は10年前からそんな顔してたんだなぁ」
 ビクトールははっはっはとやけに楽しそうに笑った。
「悪いが、俺は席を外すぜ。話を聞いても役に立てそうにないからな」
 フリックは早々に席を立つと、あとは任せたからなとばかりにビクトールの肩を一つ叩いた。
「ちっ、逃げやがったか」
 この手の話題を苦手とするフリックのことだから、仕方がないかとは思うものの、ビクトールとて人の恋路に進んで口を挟むような趣味は持っていない。
 それでもハンフリーとは3年以上の付き合いだし、シーナに対しては馬鹿な子供を持った親の心境に近いものを抱くビクトールなので、相談とやらに乗ることにしたのだ。
「で、聞きたいことってのは何だ?まぁだいたいの想像はつくがなぁ」
「それなら話は早い。10年後の俺とシーナの関係を教えてくれ」
「………」
 まるで戦いの作戦を教えろ、とでも言っているような堅い表情。
 これはまた直球だな、とビクトールは苦笑を洩らす。
 ハンフリーはいつも余計なことは口にはしない。何も口にしないから、時として人に誤解をされていまいがちな男だが、ビクトールはそういうところが好ましいと思っている。
 ストレートに聞かれたのならストレートに答えるしかない。ビクトールは余計な注釈は何も付け加えずに事実のみを伝えることにした。
「関係か、ま、一言でいうと恋人だな」
 言ってから「恋人だなんて甘い呼び名の似合わねぇ男だよな」とハンフリーを見て思う。おまけに笑ってくれればいいものを、ハンフリーは真面目な顔のまま、
「………そうか」
 とうなづいただけである。
「何だよ、驚かねぇのかよ」
「驚いている」
「………」
 ぜんぜんそんな風には見えないのは、少々のことでは心を乱さない性分なのか、それともある程度予想はついていたせいなのか、さすがのビクトールにも読み取れない。
「もう一つ、それは……その関係は…俺の方から……持ったのか?」
 今度はいつになく歯切れ悪くハンフリーが尋ねる。
「さぁな、そこまでは俺は知らねぇよ。ま、どっちかってぇと、シーナの方がお前にぞっこんって感じもするけど、お前もまんざらじゃなかったんじゃねぇのか?じゃなきゃあんなに……」
「あんなに?」
 いつもハンフリーがどんな表情でシーナのことを見ているのか。
 長い付き合いの中で、この無骨な男の優しい表情を見ることができるのは、あの放蕩息子と一緒にいる時だけだ。
 ビクトールはそれを教えてやろうか、とも思ったがやめた。
 何となく馬鹿馬鹿しくなったのだ。
「なぁ、シーナのことは放っておいても大丈夫だぜ。あいつが小うるさいのはいつものことだし、だいたいそのうち元に戻るって分かってるってのに、なぁにをトチ狂ったのか……」
「どうした?」
「………お前と一発やりたいらしいぜ」
「………」
 にんまりと笑うビクトールはやけに楽しそうである。
 ハンフリーは困ったように溜息をついた。
 シーナと恋人同士だということは理解できた。何故そんなことになったのかは想像もつかないが、10年後の、それが事実だというのならそうなのだろう。
 だが、具体的にその状況が思い浮かばないのだ。
 恋人同士ということは、つまり……そういう関係か、と思うものの、さすがにそれは……
「なぁ」
 ビクトールが頬杖をついたまま、黙り込んだハンフリーに声をかける。
「部外者の俺がこんなこと言うのも何だけどよ、シーナは悪いヤツじゃねぇぜ、子供だし、頭は悪いし、どうしようもねぇお調子者だけどな。だが、めちゃくちゃ気持ちのいいヤツだ。何よりお前のことを大切に思ってる」
「………」
「お前が10歳も若返っちまって、不安なんだろうさ。俺だってフリックが10歳若返った時はやっぱり少しは不安になったしな。かといって、わけも分からないまま、あいつのことを好きなれなんて無茶な話だから、何も無理する必要はねぇんだぜ。お前だってそのうち元に戻るんだし……」
「分かってる」
 ビクトールの言うことは正しい。
 10年後のシーナが自分の恋人だからといって、別に今それを受け入れる必要などないのだ。けれど、どうしてもシーナのことを放って置けないという気になるのは何故だろう。
「邪魔したな」
 ハンフリーは席を立つと、10年後と何も変わらないような無愛想な表情のまま言った。
「………やっぱり10年前でも変わらなねぇな」
 ぽつりと洩らされた言葉にハンフリーが首を傾げると、ビクトールはつまらなさそうに言った。
「傍から見てりゃ、放っておけばいいものをって誰もが思うのに、お前はいっつも放っておけねぇんだよなぁ、シーナのことが。シーナの方がお前のことを好きなのかとずっと思ってたんだが、案外とそうでもねぇのかもしれねぇな」
 揶揄するようなビクトールの視線を真っ直ぐに見返し、ハンフリーは言った。
「………ビクトール」
「あん?」
「……恋人同士というのは、どちらかが一方的に相手を好きになるのではなくて、お互いが相手のことを大切に思っていることだと思うんだが…違うのか?」
「………」
 ハンフリーは黙り込んだビクトールに微かに笑うと、酒場をあとにした。
 ビクトールはどさりと椅子にもたれかかると、がしがしと頭をかいた。
「まいったな……」
 自分が思っているよりもずっと、ハンフリーは人を好きになるということがどういうことなのか、分かっているのかもしれない。意外だったなぁとビクトールは思ったが、ハンフリーらしいといえばそうなのかもしれない。何しろあのシーナが夢中になるくらいなのだから、ただの朴念仁ということはないだろう。これだから人との付き合いってのはやめられねぇんだ、とビクトールは密かに笑いを洩らした。




 きぃと軋んだ音をさせてシーナが部屋の扉を開けた。
 何もない部屋だが、一歩中に入ったとたん、ほっと肩の力が抜ける。それはここがハンフリーと一緒に寝起きしている場所であり、シーナが一番自分らしくいられる場所でもあるからだ。
「ハンフリー、いないんだ……」
 少しがっかりしたような、淋しいような。シーナは大きく深呼吸をすると、いつもよりずっと片付いている部屋を横切り、飛び込むようにして綺麗に整えられたベッドに横になった。
「落ち着け〜、うるさくしたらだめだ。大人の話し合い、うん、そうそう、別に悪いことするわけじゃないんだし、ちゃんと自分の気持ちを伝えればいいんだ、よし」
 自分に言い聞かせるようにシーナはこくこくとうなづく。
 ちゃんと自分の気持ちを伝えよう。黙って待っていたらハンフリーは元に戻る。それは分かっている。だけど、そういうことじゃないのだ。
 25歳のハンフリーのことを好きになってしまったのだ。
 35歳のハンフリーのことを好きになったのと同じように。
 一目惚れだった。舞い上がって、どうしていいか分からないくらいに、好きになってしまったのだ。
 だから、好きになった人にその気持ちを伝えたい、ただそれだけのことなのだ。
 もう二度と会えない25歳のハンフリーに、10年後も変わらずに愛していると伝えたいだけだ。
「それだけなのにな〜っ」
 シーナがころりと寝返りをうつと、目の前にハンフリーがいた。
「うわっ!!!!!!!」
 心臓が止まるかと思うほどに驚いて、シーナは飛び起きた。いったいいつからいたのだろうか。むっつりとどこか怒ったような顔でシーナのことを見下ろしていたハンフリーは、やがてくすりと笑いを洩らした。
 くしゃりと目元を綻ばせる笑い方は変わっていない。でも、35歳のハンフリーよりも、その笑顔はずっと子供っぽく見えた。だいたいハンフリーはこんな簡単に笑ったりはしない。
「どうした?」
「だってさ、あんたがそんな風に笑うの、珍しいからさ」
「……そうか」
「そうだよ。いっつもしかめ面してるからさー、ここんとこに皺が寄ってるんだぜ」
 そう言って、シーナは自分の眉間を人差し指で突いた。
「シーナ」
 低い声で名を呼ばれ、シーナは不安げにハンフリーを見る。そんなシーナに、ハンフリーは困ったように口元に手をやる。
「シーナ、話を……しよう……」
「………うん」
 どきどきが止まらなくて、シーナはちょっと泣きたくなった。



 シーナの隣に座ったハンフリーは、さて、何から話そうかと考えた。
 今さら体裁を取り繕っても仕方がない。だいたいまどろっこしいのは苦手なのだ。
「シーナ」
「は…い……」
「10年後、俺とお前は恋人同士だと聞いたのだが……」
「………」
「………」
「えええええっーーーーーーっ!!!」
 真顔で言うハンフリーに、シーナは真っ赤になって身を引いた。淡々とした口調のハンフリーだが、いったい自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
「どうした?」
「ど、どうした、じゃなくて!それ、誰から聞いたんだよっ!」
「ビクトールだが?」
 あの熊男〜〜とシーナは怒りでさらに顔を赤くなる。自分の口からちゃんと言おうと決心していたのに、何を勝手にバラしてくれてるんだ!恥ずかしくて死にそうになる。
「違うのか?」
 違わない。違わないけど、そんなことをあっさりと言うなんて、あんまりじゃないか!!
 今までさんざん悩んでいた自分の立場は?
 一人でわーわー泣き喚いていただけに、この仕打ちはあんまりだ、とシーナはぱたりとベッドに突っ伏した。恥ずかしくてハンフリーの顔を見ることができない。
 どれくらいそうして顔を伏せていたか、ふわりと暖かい手がシーナの髪に触れた。
 どこか恐る恐るといった感じで触れていたハンフリーの指先は、やがて柔らかなシーナの髪を絡めとるようにして軽く引っ張った。
「痛いよ」
「……すまん」
 ぱっと顔を上げて、シーナはハンフリーの肩先に顔を押し付けた。ぎゅうぎゅうと押し付けても、ハンフリーは逃げることなくじっとしている。それが心地良くて、シーナは顔を押し付けたまま口を開いた。
「あのさ」
「………」
「いっぱいうるさくして、ごめんなさい」
「………」
「それからさ、えーっと、ビクトールが言った通り、俺とあんたは10年後にはデキちゃってんだ。それは本当。うん、信じられないかもしれないけど、けっこう上手くやってんだぜ」
 えへへ、とシーナが笑う。
「………」
「あと、えっと……何も知らないのに好きだなんて言われても困っちゃうんだろうけどさ、でも10年若返っても、俺、やっぱりハンフリーのことがすげぇ好きでさ、25歳のハンフリーにも、俺のこと好きになって欲しかったんだ……」
「………」
「若返ったあんたを見て、すっごく好きになっちゃって、どうしたらいいか分からなくなっちゃってさ……」
「……」
「ごめん」
「何故謝る?」
 ハンフリーがシーナの頭を掴む。
 だって、やっぱり迷惑だろうからさ、と小さくつぶやくシーナに、ハンフリーは少しのためらいのあと、そんなことはない、と言った。
「正直なところ、やはり驚いたがな」
 そう言いながらも、あまり驚いたようには見えないハンフリーに、シーナは曖昧に笑った。顔を上げて伺うようにハンフリーを見ると、彼はいつもとちっとも変わらず恐い顔をしていた。でもそれが怒っているからではないことはシーナにはよく分かっていた。
 ハンフリーはただ照れているだけなのだ。それは誰にも分からないことで、シーナだけが知るハンフリーの表情の一つだった。
「男の俺が、ハンフリーのこと好きだって言っても、気持ち悪くない?」
「ああ……」
 ふうん、とシーナはじりじりとハンフリーへと擦り寄る。堅い太腿の上に手を置き、もう片方の手をハンフリーの肩に置く。身を寄せて、何かを強請るように顔を近づけると、ハンフリーが慌てて身を引いた。その仕草にシーナは唇を尖らせる。
「……逃げてんじゃん」
「すまん……その……」
 ハンフリーは困ったように口元に手をやると、そっと肩に置かれたシーナの手を外した。
「あまり近寄らないでくれ」
「ハンフリー、やっぱり俺のこと好きじゃないんだ」
「いや……」
 本気でそう思ったわけではなく、ハンフリーがどんな反応をするのかが知りたくて、シーナはわざと意地悪な質問をしてみる。するとハンフリーは想像通り、そんなことはないと言った。
 25歳のハンフリーのことは何故だかシーナには手に取るように分かる。
 ハンフリーはどうしたらいいのか分からないでいるのだ。
 シーナのことを嫌っているわけではない。けれど、こんな風に迫られて、それを受け入れることもできない。そんな彼の心中が手に取るように分かる。
 きっと、シーナ自身が落ち着いたせいもあるのだろう。それとも、ハンフリーがあまりにも慣れない素振りを見せるせいだろうか。

(あ、何か、可愛いかも)

 シーナは持ち前のいたずら心がむくむくと沸き上がるを感じて、思わず頬が緩んだ。シーナから視線を外すハンフリーの顔を覗きこんでなおも問い掛ける。
「……もしかして、信じてないの?10年後に、恋人同士になってるってこと」
 ハンフリーはそうじゃないと首を振る。
「じゃあ、俺のこと、きらい?」
「………」
「嫌いじゃないなら、ちょっとだけ俺に触れてみてよ」
 そう言って、シーナはハンフリーの手を取って自分の頬に触れさせた。しかしすぐにその手は引かれてしまう。
 じりじりと身を寄せるシーナと、それから逃げるようにあとずさるハンフリー。ベッドの上を移動した二人はハンフリーは壁に背をつけたことで、行き詰まった。
 ネコのような目でじっと自分のことを見つめるシーナに、ハンフリーは渋々口を開いた。
「シーナ」
「なに?」
「10年後、俺とお前が恋人同士なのだというなら、きっとそうなんだろう。疑っているわけではない。……今の俺はお前のことを何も知らないが、嫌いだという気持ちはない」
「うん、じゃあさ……」
 嬉しそうに迫ってくるシーナに、ハンフリーが待ったをかける。
「何だよ〜」
 不満そうに唇を尖らせるシーナに、ハンフリーが真面目な顔で言う。
「シーナ、俺は……したことがないんだ」
「………」
「………」
「………え?」
 ぱちぱちと何度か瞬きをしてシーナはまじまじとハンフリーを見つめた。
「え、え、えーっと、ちょっと待って……」
 シーナは真っ白になった頭で今の言葉を反芻した。
「ハンフリー、したことないって、まさか、まさか…どう……んぐっ」
 大声で叫びそうになったシーナの口を、ハンフリーの掌が塞いだ。
 とんでもない台詞を叫ばれそうになったハンフリーは、うんざりしたように項垂れる。
「……勘弁してくれ、男を相手にという意味だ」
「ああ、そ、そうだろうなー。驚かすなよーっ」
 驚くのはこっちの方だ、とハンフリーは低く唸る。
 25歳にもなって、何もないだなんてことは絶対にないだろう、とシーナはほっとするやらおかしいやらで、顔が微妙に引き攣った。だがまぁ、普通はよほどのことがない限りは同性と関係を持つことはないだろう。むしろ、経験があると言われる方が驚くかもしれない。
 そこでシーナははたと気づいた。
「あれ、ちょっと待ってよ、じゃあさ、もしかして…ハンフリーって、男は俺が初めてだったの?」
「……そんなこと俺に聞くな」
 自分の知らない10年間。その間に何を経験しているかなんて、さすがのハンフリーにも分かろうはずがない。
「俺よりもお前の方が分かるんじゃないのか?」
 関係を持ったのなら、と暗に言われ、シーナはうーんと唸った。
「えー、だって、初めてヤった時も、あんためちゃくちゃ上手かったぜ。だからてっきり経験あるんだとばっかり思ってたよ。やっぱ、初めてじゃなかったんじゃないの?」
 そう思っていたにも関わらず、その事実を改めて考えるとやはり面白くない。ハンフリーが自分以外の誰かとそういうことをしたのだと思うのは、シーナには知りたくない事実なのである。
 ハンフリーはしばらく考えたあと、ぽつりと言った。
「いや……そんなことはないだろう……」
「どうして分かるの…?」
 不思議そうなシーナに、ハンフリーは曖昧に笑った。
 確かに自分の知らない10年の間に何があったかなど分からない。けれど、自分のことだから分かることもある。恐らく、よほどのことない限りは自分は自ら同性と関係を持つことはないだろう。ハンフリーはもともと真っ当な性癖の持ち主で、これまでも関係を持ったのは女性ばかりだ。もっともどれも甘い恋愛などではなかったが。
 今の自分は、自分から進んで男と関係を結ぼうなどとは思わない。そんな自分が目の前にいるシーナと深い仲になったということは……
「なぁ、どうして?」
 きょろりと大きな目で自分を見るシーナに、ハンフリーは諦めにも似た苦笑を洩らす。
 自分がシーナを選んだことで、どれほど彼に惹かれたのかが分かる。
 恐らく、自分は本当に彼のことを好きになったのだろう。
 誰よりも、きっと大切にしているのだろう。
 同性で、おまけに16も年下の彼の中に、10年後の自分はいったい何を見出したのだろうか。それを、今とても知りたいと思う。
 彼のことを、とても知りたいと思う。
「ハンフリー?」
 ハンフリーはふわりと笑って腕を伸ばし、くしゃりとシーナの髪を撫でた。
 こうやって10年後の自分は彼に何度も触れたのだろうか。
 こんな風に彼を目の前にして、優しい気持ちになったのだろうか。
「シーナ、10年後の俺は、きっとお前のことを大切に思っているんだろうと思う。だが…すまない、今の俺は、それと同じような気持ちでお前を見ることはできない。つまり…男を相手に……そういうことを考えたことがないし、考えられない」
「………」
「だから、お前がいくら俺のことを好きだと言ってくれても、今の俺はお前を抱いてやることもできないし、愛してやることもできない」
「……うん」
「10年は、短いようでいて長い時間だ。俺は…今の俺は誰かを大切にしたり、そういう感情を持つことはできない。だが10年の間に、きっといろんなことが変わるのだと思う」
「うん」
「お前が10年後の俺のことも、今の俺のことも同じように好きだと言ってくれて……とても嬉しかった。本当だ」
 もう誰かのことを大切に思う日など来るとは思えなかった。
 誰かが自分のことを大切に思ってくれる日がくるとも思えなかった。
 犯した罪の深さを考えると、それは望んではいけないことだとしか思えないから。
 それでも、10年という年月の間に、何かが変わるのだ。
 今は、10年後にこの少年と出会えることが、とても待ち遠しいと、そう思える。
 彼のことを好きになる自分に、早く戻りたいと思う。
 ハンフリーが笑う。
 それはとてもとても優しい笑みで、シーナはひどく胸が痛くなって思わずハンフリーに抱きついてしまった。
「ずるいよなー。俺のこと何も知らないくせに、俺のこと…抱くつもりもないくせに、そんなこと言うなんて」
「すまない」
「ねぇ、だめなのは分かってるけど、キスだけしちゃだめ?それ以上は我慢する。あんたが元に戻るまでちゃんと我慢するから、ちょこっとだけ……」
「………」
 ハンフリーは顔を上げたシーナの顎に指をかけた。細い顎先をなぞり、そのまま頬に手を添える。
 そっと、掬い上げるようにして上を向かせて、ハンフリーはシーナの白い額に唇を押し当てた。
 暖かなそれは、もちろん何の欲望もこもらない口づけではあったけれど、でも肉親から与えられるようなものとはどこか違った。
 シーナはぱふんとハンフリーの胸に顔を押し付けると、うーんと唸った。
「……それはさー、ちょっと反則だよな。もっと、って言いたくなるようなキスするなよなー」
「……それは……悪かった」
「もっとしたいって、思わない?」
 強請るように上目使いで見つめるシーナに、ハンフリーは苦笑する。
「やめておこう。10年後の自分が怒りそうな気がするからな」
「ふうん……ハンフリーって意外とヤキモチ焼きだったりするのかな」
「どうかな」
 それもお前が一番よく知っているのではないのか?と言われ、シーナはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
 まるで10年後のいつもの時間が戻ってきたような気がして、シーナは体当たりするようにしてハンフリーに抱きついた。危なげなく受け止めるのは、10年後と変わりはしない。シーナはぐりぐりと首筋にすりよって、大きく溜息をついた。
「あーあー、もったいないなー、あんた絶対あとで後悔するぜー。若くて体力のある25歳の時に、俺とやっちゃえば良かったなーってさー。絶対に後悔する。あとで文句言ったって知らないからなー」
 据え膳食わないなんて、戦士の風上にも置けないよ、とシーナはぶつぶつと文句を言う。
 そんな子供のような拗ね方に、ハンフリーは思わず笑いを洩らした。
 10年後の自分が、どうして彼を選んだのか、何となく分かるような気がした。
「ちゅうもなし、えっちもなし、で、25歳のハンフリーは俺と仲良くしてくれるの?」
「お前がそれでいいなら」
 シーナは満面の笑みを浮かべた。
 もちろん、まだ諦めるつもりはなかったからである。





 10歳若返ったハンフリーは、数週間たっても元に戻る気配は見せなかった。フリックやマイクロトフが元に戻ったのと同じ時間がたつというのに、まだ25歳のままである。
「それってさー!愛情が薄いんじゃないのかな!」
 ハイ・ヨーのレストランでビクトール、フリックと夕食を共にしている時のことである。
 25歳のハンフリーという異常事態に次第に慣れてしまった傭兵二人は、何のことだと首を傾げる。
「だから!!戻りたいって思ったら、元に戻るんだろ!?」
「いや、別にそういうわけでもないと思うけどな……」
 自分が怒られたわけでもないのに、フリックが思わず身を引く。
「だって、あんたもマイクロトフも、戻りたいって思ったから戻ったって聞いたぞ!」
「あーうるせぇ」
 ビクトールが気の毒そうに隣に座るハンフリーを見る。ハンフリーはいつもと変わらず黙ったまま酒を飲んでいる。どうやら短い間にシーナの行動にはすっかり慣れてしまったようである。こいつはやっぱり大物だ、とビクトールは内心舌を巻く。
「ハンフリー、ちゃんと元に戻りたいって思ってないんだー。俺のこと好きじゃないんだー」
 白々しくテーブルに突っ伏して泣きまねなんぞをしてみせるシーナに、残り3人の大人はどうしていいのか分からずに黙り込む。
「シーナ、えっと、モンスターの魔法攻撃にもいろいろあるし、まぁちょっと時間がかかってるだけで、心配しなくても大丈夫だって……」
 三人の中では一番の常識人であるフリックが慰めるようにシーナの肩をたたく。
「やんなっちゃうよー。あんまりだ」
「だけどよ、お前見ていると別に10年後だろうが、10年前だろうが変わらねぇみたいだけどな」
 ビクトールが指摘する通り、ハンフリーとシーナは同じ部屋で寝起きしていたし、行動も一緒だし、傍からみてると若返る前と何も変わっていないように見える。
「欲求不満で死んじゃうよ」
「………」
「………」
「………」
 つまりは、そういうことである。男相手には何もできないと断言したハンフリーは、シーナには一切手を出そうとはしなかった。シーナにしてみれば承知していたこととはいえ、辛い毎日なのである。
「諦めろ、多少我慢するくらいがお前にはちょうどいいだろ」
 ビクトールがくしゃりとシーナの頭を揺する。他人事だと思っていい加減なこと言うな、とシーナは怒鳴るが、実際他人事なのだから、ビクトールは楽しそうに笑うばかりであった。




「なーなー、そろそろ元に戻っていいよ」
 ころりとベッドに横になったシーナがハンフリーに言う。
 いいよ、と言われて戻れるものでもないだろう、とハンフリーは思うのだが、言ったところでシーナがきくはずもないので黙っていることにした。
 ビクトールたちとさんざん飲んで、部屋に戻ってきたのは深夜である。
 服を着替えることもせずにベッドに潜り込んだシーナを横目に、ハンフリーは黙ってシャツを脱ぎ始めた。
「早く戻ってさー、うんと俺のこと愛してくれよ。だいたいさ、もう何週間もキヨラカなままなんだぜ?信じられない。俺って意外と純情だったんだ、なー信じられる?」
「………いいからもう寝ろ」
「ハンフリーが元に戻らないつもりなら、俺、どっかの誰かと浮気しちゃおうかなーこの場合は不可抗力だよな。あんたが悪い」
 半分本気で言った台詞に、
「………お前には無理だ」
 ぎしっと音をさせてベッドの端に座ったハンフリーが一言言い捨てる。
 シーナは一瞬その言葉の意味を考えて、うわーと大仰に叫んでみせた。
「すっごい自信だな。なー、自分で言って恥ずかしくない??なー、なー、ハンフリー」
 ハンフリーの膝に乗りかかり、下から顔を見上げる。最初は戸惑っていたシーナの口の悪さにも最近はすっかり慣れたハンフリーである。下手に口を出さない方が上手くいくという術も覚えてしまった。ハンフリーは無表情なままで、シーナの髪を撫でた。慈しむような優しい仕草に、シーナはうっとりと目を閉じる。
「俺、あんたが思ってるほど貞淑じゃないかもしれないぜ。けっこうすぐに誰とでもやっちゃうかもよ」
「……そうか」
「あんた思ってるほど、もてないわけじゃないしさー」
「………」
「……だから、ほんとに浮気しちゃうかもしれないぜ」
 拗ねた言葉に、ハンフリーは小さく笑うだけだった。
 だから早く元に戻ってよ、とシーナはハンフリーの下腹部に顔を埋める。
 25歳のハンフリーのことも好きだけれど、やっぱり35歳のハンフリーに会いたいと思うのだ。同じように触れてもらっていても、やっぱり違うから。そばにいて欲しいと思うのは、シーナが好きになったのは、35歳のハンフリーなのだ。
 こんなに願っているのに、どうしてハンフリーは元に戻らないのだろう。
「ハンフリー」
「何だ?」
「もしかして、本当に元に戻りたくないなんて思ってる?」
「………」
 短い沈黙に、シーナは顔を上げた。
 どこか困ったようなハンフリーに表情に、シーナは慌てて起き上がる。
「どうしてさ、もしかして……10年後に俺といろいろやっちゃってるって聞いてショックだったから?俺とそんな仲になるくらいならこのままの方がいいって思った?」
「シーナ、そうじゃない」
「じゃどうしてさ、あんたが元に戻りたいって思わなきゃ、元になんて戻れないだろっ!」
 元に戻りたいと思ったからといってすぐに元に戻れるわけではない。けれど、フリックやマイクロトフに比べてハンフリーがなかなか元に戻らないのは、戻りたくないと思っているからではないのだろうか。戻りたくないと思う理由を考えると、自分とのことしかない。シーナはその結論に胸が締め付けられた。
 自分のせいでハンフリーは元に戻らないのではないか、と。
 そんなシーナの考えを悟ったハンフリーが、そうじゃないと首を振る。
「お前のせいじゃない……いや…ある意味は……そうなのかもしれないが……」
「何だよ!そんな思わせぶりなこと言わずに、ちゃんと話せよ!俺、頭悪いからちゃんと言ってくれなきゃ分かんないよっ!」
 シーナが叫ぶと、ハンフリーはますます困ったように眉をしかめた。真っ直ぐに自分を見詰めるシーナに、ハンフリーはゆっくりと言葉を選ぶようにして口を開いた。
「戻りたくないと思っているわけではないのだ。だが、このまま、お前と一緒に過ごせるのなら、それでもいいと思っているのも事実だ……」
「何で、そんなこと……」
「……お前がいれば……俺は……忘れられるような気がするから…なのかもしれない」
 何を、と聞くことはシーナにはできなかった。
 ハンフリーが抱えている痛みは10年後も決して消えてはいなくて、だから、それは25歳の今のハンフリーにはきっと抱えきれないほど大きなもので。彼はずっと一人きりでそれを背負って生きてきたのだ。シーナと出会うまでの間、たった一人で。
 目の前のハンフリーはやはりシーナの知る35歳のハンフリーではないのだ。
 シーナの知るハンフリーは、決してこんな弱音を口にしたりはしない。
 シーナの知るハンフリーは、目の前のハンフリーが10年の間に強くなった姿なのだ。そんな彼を自分は好きになったのだ。
「馬鹿だなぁ」
 シーナはくしゃりと笑って、ハンフリーの頭を抱え込んだ。ぎゅっと胸に抱き締めて、髪に口づけた。驚いたように身を引こうとするハンフリーを逃がさずに抱き締める。
「俺がいなくても、あんたはちゃんと10年を生きて、そんですっげぇ強くなって、俺のこと見つけてくれるんだろ。大丈夫、あんたなら大丈夫だよ……」
 そんなに辛かった?
 それはたった一人で背負うには、重すぎる罪だった?
 どれほどハンフリーのことを愛していても、それはすべて理解してあげることはできないから。代わってあげられない痛みは、どうしてこんなに辛いんだろう。
「シーナ?」
 細い腕を掴んで顔を覗き込むと、シーナはほろほろと涙を流していた。突然の涙に、ハンフリーは目を見張り、そして苦笑した。
「何故泣く?」
「だって……」
「泣くな」
「………だって」
 戻りたくないと思うほどに、ハンフリーの10年は辛いものだったのかと思うと、泣きたいわけでもないのに涙が出てくるのだ。何もしてやれない自分が情けなくて泣けてくるのだ。
 ハンフリーはぐいっとシーナの涙を拭うと、そのまま頬を包み込んで笑った。
「……10年後のお前もこんな風にいつも泣いて、俺を困らせているのか?」
「そんなことない」
「お前に泣かれて困った俺は、どうやって宥めてるんだ?」
 シーナはそろりと視線を上げた。
 見詰め合う二人の間に、10年後と同じ空気が流れたような気がした。
「10年後のあんたなら、口ではいえないようなこと、いっぱいしたと思うけど」
「………」
「でも、ここにいるのは25歳のあんただろ。25歳のあんたが思うこと、すりゃいいじゃん」
 何でも、すればいい。
 囁いたシーナの頬にハンフリーの唇が触れた。鼻先に、目蓋に、もう一度頬に。唇に触れたのと同時に、ふわりと抱きかかえられたままベッドの上に横たえられた。
「………宗旨変えする気になったんだ」
「いや…そういうわけじゃない……」
 ハンフリー自身、どうしたいのか分からなかった。同性相手に何かできるとは思えないが、それでもどういうわけかシーナのことを抱き締めたいと思ったのだ。
 恋愛感情なのかどうかなんて分からない。
 ただ、自分のことでもないのに涙を流せる彼のことを愛しいを思ったのだ。心から嬉しいと思った。
「ねぇ、できるの?」
 からかうようなシーナの言葉に、ハンフリーが戒めるようにきゅっとその頬を摘む。
「安心していいよ、俺がちゃーんと教えてやるからさ」
 どこかうきうきとした様子のシーナの首筋にハンフリーが顔を埋めた時……
「………っ…」
「……ハンフリー?」
 シーナの傍らに蹲るようにして、ハンフリーは顔を伏せ、低く呻いた。





「信じられないっ!!!!!!」
 突然に、ハンフリーは元に戻った。
 シーナのすぐ隣で苦しげに身体を丸めたハンフリーに、シーナは心臓が止まるほどに驚いて、大慌てでホウアンを呼びにいったのだ。
 深夜にも関わらず、ホウアンはすぐに駆けつけてくれた。
 息を切らした二人が部屋の扉を開けると、そこには元に戻ったハンフリーがいた。それはシーナがずっと待ち焦がれていた姿ではあったけれど、あまりにも突然のことで声も出なかった。
 ホウアンはハンフリーの身体を一通り診察したあと、異常なしとの診断をした。
「良かったですねぇ、シーナさん。ずっと心配されてましたからね」
 にこにこと笑顔でホウアンが帰っていくと、シーナは脱力したように、その場にしゃがみこみ、信じられないとつぶやいたのである。
「シーナ、よく分からんが……心配をかけたようだな」
「………あー、うん」
 そういえば、元に戻ると若返っていた時の記憶はなくなっちゃうんだったな、とシーナはフリックやマイクロトフの時のことを思い出した。
 ホウアンから一通りの説明は受けたハンフリーは、若返った時と同じようにさして驚いた様子も見せずに、手間をかけさせて悪かったと頭をさげた。落ち着いた様子のハンフリーに、明日の朝、みんなを安心させてあげてくださいね、とホウアンはほっとしたように笑ったのだ。
 とはいうものの、ハンフリーが若返ってすでに数週間たっており、本拠地の連中も最初こそ心配もしていたが、近頃では25歳のハンフリーというのが当たり前のようになってきていて、あまり気を揉んでいるようにも思えなかった。それでもやはりリーダーあたりは毎日顔を見るたびに大丈夫か、と聞いていたので、とりあえず彼には直ぐに報告にいかなくてはな、とも思うのである。
 シーナがしゃがみこんだまま動かないでいると、ハンフリーが戸惑ったように声をかけてきた。
「シーナ」
「………うー」
「こっちへ来てくれ、シーナ」
 低い声で呼ばれ、シーナは顔を上げた。視線の先にいるのはハンフリーである。甘い声で呼ばれては逆らえるはずもない。シーナはハンフリーのそばへと寄ると、すっかり元に戻った彼を見つめた。項垂れるシーナの手をとり、ハンフリーが笑う。
「悪かったな。面倒をかけたのだろう?」
「……まったくだよ」
「悪かった」
 律儀に謝るハンフリーに、シーナは小さくうなづいたあと、はっとして気づいたように、うわーと喚いた。
「どうした?」
「思い出した!!!俺、すっごいもったいないことしちゃったよ!!」
「?」
「あんたが元に戻る直前、俺たちいい雰囲気だったんだよっ!」
「………」
「もったいないことした!!!!25歳のあんたとできるチャンスだったのに!」
 うわーん、とシーナがベッドに突っ伏す。
「……シーナ」
 ハンフリーが呆れたように吐息をついた。
 25歳のハンフリーが、最後に見せたシーナへの想いの一端。深い口づけから伝わったのは、確かに愛情と呼べるものだった。25歳のハンフリーと、それを肌で確かめ合いたかったのに。
「何か、もうタイミング悪すぎ……」
「25歳の俺とは何も…なかったのか?」
「しなかったじゃなくて!あんたがしてくれなかったの!!!」
「そうか」
 ハンフリーは低く笑うと、シーナの上に覆い被さり、短い金茶の髪に口づけた。
「では25歳の自分に感謝しなくてはいけないな」
「何だよ、それ」
「そのままの意味だが?」
 真面目な顔をで言ってのけるハンフリーに、シーナはふうんとうなづいた。25歳のハンフリーが、35歳の自分に怒られるといって何もしなかったことを思い出した。
「……あんたでもやっぱりヤキモチ焼くんだ」
「……?」
 シーナは嬉しそうに笑うと、くるりと身体を反転させ、ハンフリーの首に腕をからませた。しばらくそうしてハンフリーの温もりを確かめていたシーナは、やがてほっとしたように溜息をついた。
「良かった」
「……うん?」
「あんたが元に戻って、ほんとに良かった……」
 きゅっと腕に力が篭もる。
 華奢な身体を腕に抱え込み、ハンフリーはもう一度悪かった、と言った。
「ハンフリー」
「うん?」
「あのさ、あんたの10年間って……」
 幸せだったのかなぁと言いかけて、シーナは口を閉ざした。
 どんなに辛くても、辛かっただなんてハンフリーが言うはずがない。それに、それは知らなくてもいいことなのだ。今、ここにいるハンフリーのことだけを、自分は知っていればいいのだ。
 どんな10年であろうと、それがなければ今のハンフリーはいないのだから。
「さ、ハンフリー、さっきの続きをしよ。まさか嫌だなんて言うはずないよな」
「……」
 何だか10年ぶりのえっちっぽいよな、とシーナが笑うと、ハンフリーは呆れたように低く笑った。
 久方ぶりの口づけは、何故だかひどく甘く感じた。
 もしもう一度、ハンフリーが25歳になることがあれば、そうしたらちゃんと教えてやろうと思う。
 10年はもしかすると辛い日々なのかもしれないけれど、10年後にこんなに優しい夜を過ごすための、それは準備期間のようなものなのだと。
 だから、何も考えずに10年後の世界を望んでいいのだと。
 そうしたら、今度はもっと早く元に戻れるかもしれない。
 もっとも、もう二度と、10年も若返るなんて馬鹿げたことは起きてほしくはないのだけれど。
 
 

 

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