Lasting それは本当にあっという間の出来事だった。 ここのところ、ずいぶんと風邪を引いている人間が多いなぁと誰もが思っていたに違いない。実際、ホウアンの元へ訪れる城の住民はあとを絶たず、たった一人の助手である小さなトウタは、とうとう過労で寝込んでしまったほどだった。 冬が近くなると、そこら中で咳をする人間を見かけるし、そのこと自体は少しもおかしなことではない。けれど、その数のあまりの多さに、さすがのホウアンも何やら嫌な感じがしていた。 高熱と、息が止まるかと思われるほどの激しい咳。 ホウアンが処方した薬はどれも効かず、徐々に城の中を元気に歩いている人間の方が少なくなってきた。 「いったい、どういうことだ」 同盟軍の軍師、シュウがホウアンを執務室へと呼びつけ、ここ数日の城の状況について詰問した。冷えた部屋の空気にホウアンは眉をしかめる。まだ冬には早い時期ではあるが、風邪が流行っているこの時期、こんな寒い部屋にいては本当に風邪を引いてしまう。 しかしシュウはまったく頓着していないようで、手元の書類に目を通しながら話を続ける。 「ホウアン、昨日だけで10人、今日の遠征には行けないと言ってきた者がいる」 「ええ……、どうも今度の風邪はきついようでして……」 「普通の人間ならまだしも、日頃訓練で鍛えている連中がだぞ?」 シュウはぎしっとイスを軋ませて、恐縮したように立ち尽くすホウアンを睨んだ。 次から次へと、主要な戦力が病に臥せっては、どんな策を立てようが意味がない。シュウの言いたいことが分かるだけに、ホウアンは己の不甲斐なさに肩を落とすばかりだった。 「……できるだけ早く、特効薬になるものを処方するようにしますので」 「そうしてくれ、ああ、まだ風邪を引いていない連中に、予防薬を渡せるか?」 「……早急に」 ホウアンは部屋の寒さにぶるっと身震いをした。 「シュウ殿……」 「何だ?」 「暖炉に火を入れてください。こんな寒い部屋にいたのでは、貴方まで風邪を引いてしまいます」 心配そうに提案をするホウアンに、シュウは不思議そうな表情をした。 「……何を言っている、寒くなどない、むしろ熱いくらいだ」 「え……?」 ホウアンは慌ててシュウに近づくと、その額に手をやった。 「何をする」 「……っ、ひどい熱じゃありませんかっ!執務をされるなんてとんでもありませんよっ。さ、すぐに部屋に戻って休んでください」 自分が風邪を引いていることに気づいていなかったシュウは、それでもまだぶつぶつと文句を言っていたが、ホウアンに押し切られるようにして執務室をあとにした。 「何だか、城中がどんよりとしてるよな」 フリックは呼び出された医務室で、ホウアンに手渡された薬の包みをがさりと開けた。幸いなことにまだ風邪を引いていないフリックは、周りの連中が苦しそうにしているのを見ているだけに、予防薬を飲めと言われて素直に飲むことにしたのだ。 「苦い……」 一息で水で流し込んだ薬の苦さに眉をしかめ、空いたグラスをホウアンへと返す。 「本当に……ほとんど人が部屋で寝込んでいますからね……」 「ホウアン、お前もずいぶん疲れた顔してるぜ、大丈夫なのか?」 「私は大丈夫ですよ。トウタもよく手伝ってくれていますし……」 「ならいいけど。俺にできることがあったら、遠慮なく言ってくれよな」 「ありがとうございます」 にっこりと、いつもの人のいい笑みを浮かべ、ホウアンは手元のリストにチェックをした。 それは城の住人の名前が記されており、予防薬を渡した人の横にはチェックがつけられている。 「なぁ、この薬を飲んだら、風邪は引かないってことなんだよな?」 「そうですね……ただ、すでに風邪の菌が体内に入っている場合は、あまり効果はないかもしれません。発病までの潜伏期間がありますから……」 「ふうん……ま、俺はたぶん大丈夫だろうけどな」 フリックはリーダーのディランの頼みで、昨日までコボルト村まで出かけていたのだ。久しぶりに本拠地に戻れってみれば、ほとんど連中が風邪でダウンしていると知り、あまりの突然のことに唖然としたのだった。 そこへホウアンに呼び出されて、こうして予防薬を飲むようにと言われたのだ。ホウアンはぱらりとりストめくりながらフリックに言った。 「ああ……ビクトールさんがまだですね。あとで来てもらうように伝えていただけますか?」 「分かった」 フリックは立ち上がると、薬をもらうために外で待っている連中の多さに驚きながらも、相棒の姿を探しに城内を歩き始めた。 レストランも酒場も閑散としており、いつもそこにいるはずのレオナの姿もない。どうやらこの風邪は本格的なようだ、とフリックは自分が偶然にも外にいたことに感謝した。 たかが風邪などと言っているとひどい目に合うことくらいフリックにも十分理解できる。何しろあのシュウでさえも、ひどい熱でベッドから出られないというのだから。 「あ、ビクトール」 本拠地の中庭で、大きな荷物を運んでいる最中の相棒の姿を見つけたフリックは、相変わらず薄着なままの男に苦笑した。 「そんな格好で……お前、風邪引いても知らないぞ」 ビクトールはその言葉を鼻で笑った。 「俺は大丈夫だ。で、何か用か?」 「ああ、ホウアンが予防の薬を飲みに来いってさ。早いとこ飲んでおいた方がいいぜ。どうも今回の風邪はきつそうだからな」 「……そうだな、こう次から次へと風邪でやられちゃあ、さすがの同盟軍も戦意を失うってもんだからなぁ」 ビクトールが抱えていたのは山ほどの洗濯物で、いつもは城の女性たちがやっている仕事なのだろうが、どうやら人手がないので手伝っているというところだろうか。 フリックは籠の一つを手にすると、ビクトールを振り返った。 「続きは俺がやっておくから、さっさと行ってこい」 「……あー、そうすっか」 さすがのビクトールも、ここのところの周りの連中の憔悴ぶりにはまいっていた。自分もそうなってはまずいと思ったのだろう、素直にフリックの勧めに従うことにした。 「悪いな、行ってくる」 「ああ」 フリックに手を上げ、ビクトールは城の中へ向かって歩き出した。 暖かな城の中に入ったとたん、ビクトールは大きく咳き込んだ。しばらく胸が痛くなるほどの咳が続き、やっと収まると顔を上げて大きく息をついた。 「……まずいな……」 予防薬くらいじゃすまないかもしれないな、と思いながら、とりあえずフリックに気づかれなかったのが幸いだと、ビクトールは医務室へと急いだ。 誰もがただの流行風邪だと思っていたのに、その週末に2人の子供が命を落とした。 まだ小さな子供だった。いったん高熱が出ると、それはなかなか下がらず、ホウアンが処方した薬もまったくといっていいほど効き目を発揮せず、城は深い悲しみに包まれた。 「何てこと……」 報告を受けたリーダーのディランは信じられないというように唇を噛んだ。 誰よりも早く予防薬を施されていたため、ディランはまったくいつもと同じで、忙しくしているホウアンの手伝いで城中を走り回っていた。 やっと熱が下がり、何とか通常の執務に戻ることができたシュウも、痛ましい報告に渋い表情をしたまま黙り込んだ。 「このままでは被害が広がるばかりじゃないのか?」 フリックがその沈黙を破るように言うと、報告にきていたホウアンがうなづいた。 「確かに、これはもうただの風邪ではありません。どうやら人への感染能力も高いようですし、幸いなことに予防に関しては、私が処方した薬が効いているようですが、いったん菌が体内に入ってしまうと、それも効果を現わさないようですし、何とかして発病した人を救う薬を……」 「それができるのか?」 シュウが話を遮り、ホウアンを見つめる。しばらくじっと考え込んでいたホウアンは、やがて確かな情報ではありませんが、と前置きをして話し始めた。 「ここから少し離れた……にある山の山頂に、万能だと言われている薬草があります、いえ、あると聞いています。私も話には何度か聞いていますが、本当にそこにあるのかどうかは分からないのです。それが手に入れば、あるいは……」 「可能性はあるってことだよね?」 ディランが問うと、ホウアンは重々しくうなづいた。その答えにディランは無表情なまま立ち上がると、きっぱりと言った。 「じゃあ行ってくるよ。俺がそれを取ってくる」 「おい待て……」 ビクトールが今にも部屋を飛び出していきそうなディランの肩を掴む。 「お前は城に残れ、その場所ってのはあんまり安全な場所じゃねぇだろ、今の時期、お前を危険に晒すのはどうかと思うぜ」 「何言ってんだよ、危ないっていうんなら、誰が行ったって同じだろう?それともビクトールさんが行けば安全だとでも言うの?」 「………シュウ」 ビクトールがしょうがないというように軍師へと向き直る。 「どうせ言い出したらこいつは聞かねぇ。俺とフリックが一緒に行くことにする。それなら問題ないだろう?」 今、城の中で風邪を引かずにモンスターたちとまともに戦えるのは数人しか残っていない。ビクトールとフリックが一緒ならば心配はないだろう、と判断したシュウは、くれぐれも気をつけろと言って、その山へと出向くことを許可した。 「それにしても、何だかおかしなことになっちまったよな」 さっそく出発しようと、部屋に戻り準備を始めたフリックは、同盟軍にその身を置くようになって以来の出来事に戸惑いを隠せなかった。 たかが風邪だと侮っていたばかりに、小さな子供がその命を落としてしまったことに、どうにもやり切れない気持ちになってしまう。 「なぁ、ビクトール……」 「あ?ああ、そうだな」 口数の少ないビクトールに、フリックは違和感を覚えた。だが、恐らくビクトールも今回の出来事にはショックを受けているのだろう、とその時は簡単に考えた。 「さて、と。じゃあ早速行くとするか」 手早く荷物を手にしたフリックが立ち上がると、まだ何かを探しているような素振りのビクトールに、先に行くぞと声をかける。 「ディランの様子見てくる、早く来いよ」 「ああ……すぐ行く」 ビクトールの返事にうなづいて、フリックは部屋を出た。 足音が遠ざかると、ビクトールは堪えていた咳をした。ひとしきり激しく胸を喘がせ、あまりの苦しさに床に手をついた。 「はぁ……はぁ……」 どうやら自分も風邪にやられたらしいな、とビクトールはぼんやりと思った。 少し前にホウアンから予防薬を貰い、飲んではいたが、どうやらその前に風邪の菌が体内に入り込んでいたのだろう。幸いなことにまだ熱は出ていないので動けるし、基礎体力があるから少々無理をしても倒れることはないだろう。 何にしろ、その薬草とやらがないことには、自分だって治る見込みは無いのだ。フリックに余計な心配をかけて、城でじっと帰りを待つよりは、一緒に行く方がいい。 「くそ、とりあえず気休めかもしれんが何か飲んでおくか……」 ビクトールは棚の奥に仕舞いこんであった風邪薬を水で流し込んだ。 あまり長くフリックを待たせるわけにもいかないと、ビクトールは荷物を手にすると部屋をあとにした。何だかいつもよりも生気の無い城内を歩き階段を下りると、そこには出かける準備をすませたディランとフリック、そしてマイクロトフの姿があった。 「どうした、何かあったか?」 「ビクトールさん、フリックさんは残ってもらうことになったから」 ディランが申し訳なさそうに告げると、フリックが軽く肩をすくめた。 「どうも今から行こうと思ってた山とは逆の方向にも、その薬草とやらがあるんじゃないかって情報が入ってな、二手に分かれて探しに行くことにした」 「そうか」 確かに少しでも可能性があるのなら、分かれて探した方が効率がいい。 「で、そっちの方は地理に詳しいフリックさんに行ってもらうことにして、俺たちの方はマイクロトフさんが一緒に来てくれるって。ビクトールさんだけでいいって言ったのに、シュウさんがどうしてもだめだってさ」 ディランの言葉にマイクロトフがうなづく。 そういえばしばらくカミューの姿を見ていないな、と思ったビクトールの考えを読み取ったかのように、マイクロトフがずいぶんと不機嫌そうな声色で言った。 「実はカミューもあまり調子が良くないようで。強がってはいますが、おそらく菌にやられているのではないかと思います」 見かけは柔だが、仮にもマチルダで騎士団長をしていたカミューでさえも寝込んでしまうとは、今回の風邪は一筋縄ではいかないのかもしれない。ビクトールはやれやれ、と深く溜め息を洩らした。そんな暗い雰囲気を吹き飛ばすかのように、フリックが明るく言った。 「さっさと見つけて、元の同盟軍に戻ってもらおうぜ」 ホウアンから教えてもらったその薬草の名前と、どんな形をしているのかを記したメモを互いに再度確認する。 「じゃあ、お互い気をつけて、何としてでもその薬草とやらを見つけてくるか」 「もちろんだ」 じゃあな、軽く手を上げたビクトールに、ふとフリックがその足を止めた。 すっと細めた視線が、ビクトールに投げかけられる。 一瞬、バレたか、とひやりとしたビクトールだったが、それは杞憂に終わった。フリックは手にしていた上着をばさりとビクトールに押し付けたのだ。 「何だ?」 「いくらお前が野生の熊でも、そんな格好じゃ風邪を引く。さっき道具屋で仕入れてきた。ちゃんと着て行け」 少し早口に言い捨てるフリック。 ずっしりと重みのある上着は見るからに暖かそうで、ビクトールは思わず微笑んだ。下手に礼など言えば、フリックが盛大に赤くなるのは長い付き合いから分かっていたので、ビクトールは「おう」と短く言い捨てた。 「じゃあな」 いつもと同じようにフリックがビクトールの肩をたたく。 ビクトールもフリックの肩をたたく。 この時、どうして別れてしまったのだろうか、と。 離れなければ良かったと、あとになって後悔するようなことになろうとは、フリックは夢にも思わなかった。 思ったところで、どうすることもできなかったのだけれど。 ホウアンからの情報を元に、教えられた場所をどれほど丹念に探しても、結局フリックはその薬草は見つけられなかった。周辺に住む村人たちに聞いてみると、ずいぶん以前には確かにこの辺りでもその薬草を見かけることがあったけれど、ここ最近は見たことがないという。 「だめか……」 フリックは落胆して肩を落とした。 もっと他に有力な情報はないかと方々聞きまわってみたが、結局これといった手がかりを見つけることもできなかった。 仕方がない。ここで時間をかけても無駄だということだ。 残るはビクトールたちだけだった。 そこに、もし薬草がなければ…… 「どうなるんだろう……」 フリックは暗い考えを振り払うように頭を振った。 そこになければ、見つかるまで探すだけだ。それしか方法はないのだから。こうしている間にも、城でまた誰かが命を落としているのかと思うと胸が痛くなる。 城まで馬で約二日。フリックは身体を休めることなく、再び帰城のために馬に跨った。 フリックが本拠地のノースウィンドウに戻ったのは深夜になってからのことだった。出迎えてくれたホウアンに、何も見つからなかったことを告げると、彼はそうですかと唇を噛んだ。 「ビクトールたちはまだ?」 「ええ、そろそろ戻ってきてもいい頃だとは思うのですが」 「大丈夫だ、あいつらが絶対に薬草を持って帰ってくるから、そんな思いつめた顔をするんじゃない」 「ですが……」 ホウアンは、フリックたちが城を発ったあとにも、何人かが死んだことを告げると、どんと冷たい壁を叩いた。いつものホウアンらしくない所作に、フリックはどきりとした。ホウアンは俯いたまま、搾り出すように言葉を吐き出した。 「私は医者です。皆さんの命を救うが役目なのに、全然その役目が果たせていない。苦しんでいる人がいるというのに、何の手助けもできないなんて……」 「ホウアン……」 フリックはかけるべき言葉が浮かばず、その場に立ち尽くした。 その時、城の入り口がざわざわと騒がしくなった。 「戻ったか?」 ばたばた廊下を響く足音に、フリックとホウアンが目を向けると、トウタが走ってきた。 「先生!!!ビクトールさんたちが戻りました!」 「良かった……で、どうでしたか」 「あったって……!で、でも……っ…!」 薬草があったと聞いてほっとしたのも束の間、フリックはマイクロトフの肩を借りて辛そうに歩いているビクトールの姿に、すっと血の気が引いた。 「………ビクトール?」 青い顔。 額にびっしょりと汗をかいたビクトールは、フリックの姿を見ると、それでもいつものように軽く手を上げ微笑んだ。 「フリック殿っ!」 マイクロトフが駆けつけたホウアンがビクトールの傍らに立ち、その身体に腕を回す。 「どうした……?」 その場に立ち尽くすフリックの腕を、ぎゅっとリーダーのディランが掴んだ。 「ビクトールさん、出かける前から風邪を引いてたんだよっ。俺もマイクロトフさんも気づかなくて………」 「………」 「今回……早く薬草を見つけなくちゃって、かなり強行軍で馬を進めたから、ロクに休みを取ることもできなくて、気づいたら、ビクトールさん……熱が……ひどくて……」 「騒ぐなって、……んなたいしたことじゃねぇよ……」 ディランの頭をぐりぐりと揺すり、小さくつぶやいたビクトールに、弾かれたようにフリックが近づいた。マイクロトフの手からビクトールを受け取り、その体温の高さに舌打ちする。 「この馬鹿がっ」 「へへ……怒るなって……」 ずるりと力の抜けたビクトールは、その場に崩れ落ちた。 フリックの叫び声にも目を開けることはなかった。 マイクロトフの助けを借りてビクトールを部屋に運び込むと、フリックはベッドに横たわるビクトールをぼんやりと眺めた。 ホウアンは、ビクトールたちが手に入れてきた薬草から風邪薬を調合するといって、医務室に篭もってしまった。とりあえずその薬が完成するまではどうすることもできない。部屋を暖め、まめに汗をふいて、水分を十分に取ること。そんなありきたりな看病しか、今のフリックにできることはなかった。 (何故、気づかなかった……?) 荒い息を続けるビクトールの頬に手をやり、フリックはきゅと唇を噛み締めた。 (何故……気づかなかった……?) 迂闊だった。 城を空けていた自分とは違い、ビクトールはいくらでも感染する恐れはあったのだ。そうなった時、この男がどういう態度をとるか、知らない自分ではなかったのに。 「くそっ!!」 「………フリック……?」 微かに目蓋を開けたビクトールが、額のタオルに手をやった。 やっと自分が今どういう状況にあるのか理解したようで、ビクトールは濡れたタオルを再び額に乗せて、困ったように笑いを洩らした。 「ざまぁねぇな……たかが風邪でぶっ倒れるなんて……」 「お前はっ!今回の風邪はただの風邪じゃないって分かってるだろっ!」 「………しょうがねぇだろ、気がついた時にはよ、もうそうなっちまってたんだって……」 「そうなっちまったって……じゃあ何で俺に言わなかったっ!」 答えようとしたビクトールは、声を出す代わりに大きく咳き込んだ。引き攣るようなその咳に、フリックは慌ててビクトールの背中をさすった。 「……とにかく大人しくしてろ。ホウアンの薬が完成したら、すぐに治るから……」 「………はぁ…はぁ……」 とりあえず少し寝ろ、と言ってフリックは上掛けをビクトールの身体にかけてやった。部屋の中は十分暖かいというのに、ビクトールの唇は青く、小さく震えているように見えた。 「……大丈夫だ……俺が……必ず治してやる……」 フリックは汗で濡れたビクトールの髪を梳き、こつんと頭をつけた。 「俺はガキかよ……」 「こんな時まで憎まれ口叩くんじゃねぇ」 いつもとは逆の立場のような台詞を吐いて、フリックは小さく笑った。 灯りを消し、温くなった水の張った桶を手にしてフリックは部屋を出た。冷えた廊下に出たとたん、嫌な胸騒ぎが全身をかけ抜けた。 間に合うのだろうか。 ビクトールは他の連中よりもずっと体力もあるし、こんな風邪くらいでどうにかなるようなヤツではないと分かっていても、妙な不安が胸の奥で燻っていた。 「…………」 そんな嫌な感じを振り払うかのように小さく頭を振り、フリックは水を変えるために水場へと足を向けた。階段の途中で、マイクロトフとかち合い、フリックは顔を上げた。 「フリック殿……ビクトール殿の具合はいかがですか?」 「ああ……今は落ち着いてる。悪かったな、手を借りて」 「いえ……」 「カミューの具合はどうだ?」 「はい、どうやら思っていたよりも軽いようで、さっき顔を見てきましたが、すっかり元気になっていました。もう少し養生するように無理に寝かしつけてきましたが」 「そっか、そりゃ良かった」 ほっとしたように微笑んだフリックの肩を、マイクロトフがぽんと叩いた。 「大丈夫です。ビクトール殿もきっと良くなります。心配されなくとも平気です」 「……ああ……ありがと……」 (本当に……?) 分からない。どうしてこんなに嫌な胸騒ぎがするのか。 とにかく今は、ホウアンが早く薬を完成させることをただ祈るだけだった。 「ねぇ、ビクトールさんの具合どうなの?」 小さな子供たちの看病で、正直すぐにでもベッドに入ってしまいたいナナミだったが、ばったり廊下で出くわしたディランの姿を見たとたん、思わず詰め寄ってしまった。 ビクトールたちが薬草を持ち帰ってから3日がたっていた。 ほとんど飲まず食わずで薬の調合を続けていたホウアンは、今日の明け方やっとその薬を完成させ、まずは子供、女、老人と、寝込んでいる城の住人たちに処置を施していた。 万能薬だといった言葉は嘘ではなく、軽い症状だった者はすでに回復の兆しを見せている者も多かった。 「ね、ビクトールさんも薬飲んだんでしょ?」 「飲んだよ。さっき、様子見てきたんだけど……」 「どうなの?」 ディランは分からないというように首を左右に振った。 今までに見たこともないほどにやつれたビクトールの姿に、さすがのディランも言葉を失った。それでも気丈に笑って見せる姿が余計に切なくて、その場に長くいることができなかったのだ。 ホウアンが処方した薬を飲むと、ビクトールは「楽になった」と小さく言い、そのまま目を閉じた。 「じゃあもう大丈夫かな…」 「うん……ただフリックさんが……」 「フリックさんがどうしたの?」 ディランはさっき見たフリックの様子を思い出して、口ごもった。 3日間、ビクトールのそばで看病をしていたフリックは、病に臥しているビクトール以上にやつれていた。多少無理をして看病をしたところで、体力的にどうにかなるようなフリックではない。おそらく精神的な疲労の方が強いのだろう。 ディランたちがビクトールの様子を見舞っている間も、一言も口をきかなかったフリックの様子が気になって仕方ない。 「フリックさん…大丈夫かな」 ナナミに気づかれないように、ディランはぽつりとつぶやいた。 淀んだ空気を少しでも入れ替えようと、細く開けていた窓を、フリックは音をさせずに閉めた。 ベッドに横たわった男のそばに置かれたイスに腰を下ろし、膝の上に肘をついて、両手の中に顔を埋めた。 ビクトールの容態は日に日に悪くなっているように見えた。 薬草を取って帰って来た時に倒れこんでから、ビクトールの熱は引かず、ろくに食事もできずにいた。一日中ベッドに眠っていて、フリックの声にだけ、少し反応をして目を開ける。 いったい自分はどんな顔をしているのだろう、とフリックは思う。 目を開けるたび、ビクトールはちょっと困ったような表情をして微笑む。 何も言わないフリックに手を伸ばし、その頬に触れ、心配するなと掠れた声で告げる。 死にそうな顔をしているのは、自分の方なのだろうか? 「……ざけんな……」 フリックはきゅっと唇を噛み締めて、洩れそうになる弱音を飲み込む。 城の連中が何人死んだ? 子供や老人ばかりじゃない。働き盛りの男だってあっという間に命を落とした。 ビクトールがそうならないと誰に言える? それは……考えてはいけないことだ。 そんなこと有り得ないことなのだから。 「フリ……ック?」 「………っ!」 小さな声に弾かれたようにフリックが顔を上げた。 ぼんやりと目を開けたビクトールが喉が乾いた、と言う。フリックはそばにあった水差しを手にするとその口元に運んでやった。 「……っ…」 こくりと喉が鳴る。 「ビクトール……何か食べるか?少しでも……腹に入れた方が……いい……」 「……あぁ……悪ぃな、食欲がねぇんだ」 「頼むから……食べられるもの……言ってくれ」 声が震えるのを止められなかった。 こんなに蒼ざめた顔のビクトールを今まで見た事がない。疲れたような声、落ち窪んだ目元、痩せた頬。こんなのはビクトールじゃない。 「……何だ……何泣いてんだ…お前は……」 伸ばされた手がぐいっとフリックの頭を掴んで引き寄せた。 ぱふっと上掛けの上に顔を押し付けられ、フリックは大きく息を吐いた。 こんなになっても、ビクトールはいつものビクトールで、それがフリックを居たたまれなくする。さらりと髪を撫でられ、まるで子供のようにフリックはただされるがままに、ビクトールの優しい愛撫に身を任せた。 「心配すんなって……何度言えばいいんだ…?」 「するさ」 「………しょうがねぇヤツだな……」 「仕方ねぇだろ……俺は……」 俺は、お前がいなくなったら…… ビクトールがいなくなったら、自分は一体どうなるのだろう? 考えられない。 それは、とても恐ろしいことのように思えた。 まるで自分の一部分を切り取られるような痛みに襲われるのだろうか? 悲しくて、ひたすらに涙を流すのだろうか? 「フリック……?」 「………っ…」 溢れた涙を拭ったフリックに苦笑して、ビクトールがざらりと無精髭の伸びた顔を寄せて、そっとその濡れた頬に口づけた。 「……移るとやばいから、……我慢するか……」 そんなつぶやきに、フリックはむっとしたように眉を寄せると、半ば強引に唇を重ねた。 何の抵抗も見せないビクトールの唇に自分のそれを押し付け、無理矢理に舌先を差し込む。熱で熱くなった咥内を探り、舌を絡め、変わらない甘さにほっとする。 「……お前、ちゃんと薬飲んでるんだろうな?」 唇が離れると、ビクトールがひどく嫌そうな顔をした。 「……俺に移して治るんなら、移していい」 「馬鹿言うなって、……お前に苦しい思いなんて、させたくないぜ、俺は……」 ふぅっとだるそうに溜め息をついて、ビクトールは再び目を閉じた。 そしてそのまま眠りに落ちる。 「ビクトール……?」 すっと何かがフリックの背を冷たくさせた。 ビクトールの静か過ぎる息に目眩を覚える。 ホウアンを……呼ばなくてはいけないと頭では分かっていた。 けれど、今この場を離れてはビクトールが遠くへいってしまいそうな気がして動けなかった。 (誰か……) 助けてくれ、と何度も叫んだような気がした。 声が枯れるまで叫んで、それでビクトールが助かるのならば、いくらでも叫ぼうと思った。 誰か……彼を助けてくれ… 「フリックさん?!」 どんっと誰かに肩を捕まれた。 部屋になだれ込んできたのはいったい誰だろう? ホウアンがビクトールの傍らに膝を折り、何か言っている。 それはまるで現実味がなくて、フリックはただ立ち尽くしてその様子を見るしかできない。ホウアンがビクトールの手首を掴む。力の入っていないその手首。 生気のない顔は、まるで死人のようで。 フリックは足元がぐらりと揺れたような気がした。 わっと誰かが大声で泣いている。 何故泣くのか分からない。 何も聞こえない。 何が起こっているのか分からない。 (ビクトールが死んだ?) そんなことは嘘だ。 彼が自分を置いていくはずがない。 そんなことは絶対にない。 戦いの場ではなく、こんな病気で命を落とすことなんて絶対にない。 「違うっ!!!!!」 さっきまで自分の髪を撫でていた。 さっきまでいつものように口づけていた。 心配するな、と告げていた。 それが、すべて消えてなくなるなんてこと…… 「違うっ……これは……!」 心臓が破れそうな痛みに息もできない。 苦しいのに。 悲しいのに。 嫌だ…… 嫌だ…… 「ビクトールっ……っ!!」 「フリック?」 がしっと肩を捉まれ、フリックははっと目を開けた。 一瞬、息ができないほどの寂寥感に胸が詰まった。 全力疾走でもしてきたかのように心臓が高鳴り、喉はからからに渇いていた。 「おい……どうした?夜中にでかい声だして……驚くじゃねぇか……」 夢でも見たのか?と低い声が問い掛ける。 それは……ビクトールの声だった。 フリックは恐る恐る顔を向け、そこに、ビクトールがいることを確認した。いつもの二人の部屋だった。そばで温もりを分けていたのは、ビクトールだ。 いつもと何も変わらない。 少し心配そうにフリックを見つめる瞳は優しくて、どこか切なくさせた。 とたん、つぅっと涙が耳元へと流れた。 「なに泣いてんだ?夢見て泣くなんて、子供みてぇなヤツだな……」 くっくと笑って、ビクトールの大きな掌がフリックの頬を拭う。 (あぁ……夢だったのか……) フリックは大きく溜め息をついた。 何もかもが夢だったのだ。 流行り病で城の連中が命を落としたことも、ビクトールが倒れたことも、そして、そのために命を落としたことも、すべて夢だったのだ。 (良かった……) フリックはほっとして、また涙を零した。眠っている間に零していた涙は留まることなく、フリックは小さくしゃくりあげて、ビクトールの傍らに身を寄せた。 いつになく甘えた素振りを見せるフリックに、ビクトールは苦笑した。しばらくぽんぽんとあやすように背中を叩いていたビクトールは、フリックが落ち着くと笑いを含んだ声で聞いた。 「どんな夢見たんだ?」 「………忘れた……」 「どえらいモンスターでも出たか?」 片腕でフリックを引き寄せ、額に、頬に口づけを繰り返す。 ああ……ビクトールだ。 生きている。 大丈夫……ここにいる。 「もう寝ろ……明日早いだろ?」 「明日……何かあったか?」 聞きなおしたフリックに、ビクトールは心底飽きれたように笑いを洩らす。 「恐い夢を見て忘れたのか?明日は……に薬草をとりに行くことになってるだろ?」 「え?」 どくんとフリックの心臓が鳴った。 耳元でビクトールが囁く。 「ただの風邪だと思ってたのに、まさか死人が出るなんてなぁ……とにかく、早いとこホウアンの言う万能の薬草とやらを見つけて風邪薬を作ってもらわなきゃ……」 ビクトールの声が遠くなる。 あれは夢だ…… フリックは小さく叫んで口元を押さえた。 あれは夢…… では、どこまでが夢なのだろう? 「フリック?」 これは…夢…… いつか必ず覚める夢? 誰か……教えてくれ…… |