Cage ディランの姿を探して、ナナミは城中を歩き回っていた。 遠征から帰ってきたら一緒にサウスウィンドゥの街へ買物に付き合ってもらう約束をしていたのだ。それなのに、雑務に追われてぜんぜん自分の相手をしてくれないディランにナナミは腹を立てていた。 ディランが同盟軍のリーダーとして多忙な毎日を過ごしていることは分かっている。しかし、それとこれとはまったく話が別なのだ。 「まったく、お姉ちゃんをないがしろにするなんて100年早いっていうのよっ」 レストランや図書館、酒場も覗いたがディランの姿はなかった。 いったいどこへ行ってしまったのだろうか? ナナミはふと思いついて、ばたばたと階段を駆け上がった。 これだけ探してどこにもいないということは、あとはあそこしかない! 勢いよく扉を開けたのは執務室。 同盟軍の幹部連中ならノックもせずにこの執務室の扉を開けることが、どんなに恐ろしいことか身に染みて分かっているのだが、ナナミはまったくお構いなしである。 案の定正面の大きな机に座っていたシュウが何事か、と顔を上げる。その表情は不機嫌そのものである。 冷たい視線に一瞬たじろいだが、しかし負けているようなナナミでもない。 「扉は静かに開けなさい。それから、入る時にはノックをするように」 「は〜い。ねぇシュウさん、ディラン来てない?」 きょろきょろと中を見渡すがディランの姿はない。 城中どこにもいないとなると、残るはこの執務室に違いないとナナミは思っていたのだ。 仕事の時はもちろんだが、ディランは何もない時でもよくこの執務室に来ている。シュウと仲がいいのか、というと別にそういうことはないようなのだが、どういうわけかこの部屋はお気に入りのようで入り浸っているのだ。 しかしディランの姿はない。予想が外れたか、とナナミが思った時 「そこだ」 シュウがペンでソファを指さした。 ちょうどナナミの位置からは死角になっていたソファの上で、ディランがぐっすり眠っていた。その身体にはシュウの上着がかけられている。 「んも〜ディランったら!」 起こそうとしたナナミにシュウが鋭く声をかける。 「ナナミ、寝かせておいてやれ。最近忙しかったから疲れているのだろう」 思いもかけないシュウの言葉に、ナナミは起こそうとしていた手を止めた。 そっとディランの顔を覗き込むと、シュウの言う通り疲れているのかあまり顔色は良くない。それなら自分の部屋で眠ればいいのに、とナナミは思う。 小さくため息をついて、お買物は諦めるか、と肩を落とすナナミにシュウが声をかけた。 「お茶でも飲んでいくか?」 「え、ええ?」 シュウは本を閉じると立ち上がり、テーブルに用意してあったティーセットを持ってナナミを促す。 まさかシュウからお茶に誘われるなんて夢にも思っていなかったナナミはどうしたものかと悩んだが、シュウが持っていた美味しそうなお菓子に目を奪われて席についた。 いい匂いのする紅茶がカップに注がれる。 これといって共通の話題もない二人である。 何とも気まずい雰囲気でお茶を飲んでいたナナミにシュウが話しかけた。 「ディランのことで、何か悩んでいることでも?」 「え?」 ナナミがびっくりしたようにシュウを見る。シュウは相変わらずのポーカーフェイスでゆったりとコーヒーを口にする。 「最近、ずいぶんディラン、ディランと騒がしいからな。そばにいないと不安になるようなことでもあったのか?」 ナナミは自分が不安になることがあったとしても決してディランに心配をかけまいとして、一人でがんばるだろう。そのナナミがうるさいくらいにディランに纏わりつくのは、ディラン自身のことを心配してのことではないか、とシュウは思ったのだ。 「シュウさんて何でもお見通しなんだね」 「何があった?」 「う…ん…何がってことはないん…だけど…」 ナナミが口篭もる。 どういう風に言えばいいのか分からないで黙り込むナナミを、シュウは辛抱強く待った。 「シュウさん、ディランはちゃんと食事をしているかな?」 「最近、一緒に食事をしていないのか?」 「だって…ディランこの頃忙しいからって一緒に食べてくれないし…朝だって…」 ハイ・ヨーのレストランで一緒に朝食の席にはつくが、ディランはちゃんと食べてはいないのだ。コーヒーとほんの少しのパン。それでさえも残していなかっただろうか? 「そうか。やはり食べていないのだな」 シュウがやれやれとため息をつく。 「……ホウアンが心配していた。ディランの顔色が悪いと。少し痩せたようだし、食事もまともに取れないようなスケジュールを立てるなと俺に直訴しに来た」 「そんな……」 「それに、夜も眠れていないようだ。ビクトールとフリックが夜遅くにふらふらと城を歩き回っているディランの姿を見ている。ちょっと眠れなかったから、などと言っていたらしいが、毎晩となると怪しいものだ」 「ぜんぜん寝てないってこと?」 「さっき、この部屋に来て少し話をしただけでそこのソファに倒れ込んだ。それからずっとぴくりともしないで寝ているがな」 シュウの言葉にナナミはうつむく。 黙り込んだナナミにシュウは二杯目の紅茶を注いだ。 「昔からこんなことはよくあることなのか?食べなかったり、眠らなかったり」 「ううん、そんなことはないけど…シュウさん…」 「ん?」 「ディラン…やっぱり辛かったのかな…」 聞くまでもないことだけど、とナナミは思う。 つい1週間ほど前、グリンヒルの市長代行であるテレーズ救出のために、フリックを筆頭にしてディランとともにニューリーフ学院へと出向いたのだ。 任務は無事にすんだ。 ただ一つ、思いもかけない出来事が起こった。 ジョウイがいた。 逃げるディランたちの目の前に大好きなジョウイが立っていた。 ジョウイは昔のままの姿で、けれどまるで違う人のようにも見えた。 あまりにも驚いたため、ナナミはそのことをぼんやりとしか覚えていないほどだ。 ディランは…ジョウイを目の前にして、何を想ったのだろうか? あんなに仲の良かった親友の姿に、ジョウイは何を想ったのだろうか? 「今でも信じられない…ジョウイが…王国軍に…」 「それがショックだったからだと?」 「分かんない。だけど、前にも一度だけ、ディランがおかしくなった時があるの」 「おかしく?」 ナナミがうなづく。 「ジョウイと会ったあとも、ディランは一見変わらないでしょ?いつもと同じようにみんなと普通に過ごしてる。だけどね、ずっとおかしいなって思ってたの。どこがってはっきりとは言えないんだけど、ディラン…また一人で抱え込んでるのかなって…」 どれだけ隠そうとしても、ずっと一緒に暮らしてきたナナミの目は誤魔化せない。けれどいくら問い詰めたところで、ディランはナナミには決して弱音は吐かないだろう。 ナナミもそれが分かっているから面と向かっては聞けない。 「前にね…ジョウイがアナベルさんを…刺した時に…」 思い出したくない場面が甦る。 ナナミは小さくため息をついた。 ジョウイがアナベルを殺害し、ディランの元から離れていってから、ナナミとディランの周囲の状況は急激に変化した。 ディランは同盟軍のリーダーとなり、王国軍を倒すべく忙しい日々を送るようになった。 どんどん仲間は増えていき、一人になる時間もないほどに。 そんな慌しい毎日の中で、ふいにナナミは気づいた。 ディランがジョウイのことを一度も口にしていないことに。 それは不自然なほどに。 まるで最初からジョウイのことなどいなかったかのように、その話題を避けるディランを、ナナミは何て冷たいんだろうと思った。 あんなに仲が良かったのに。ほとんど毎日一緒にいて、ナナミがヤキモチを焼くほどにそばにいたのに、ディランは消えてしまったジョウイのことを心配している風でもなく、淡々と毎日を過ごしていたから。 そんなディランの様子がおかしいことに気づいたのはしばらくしてからだった。 夜中にふと目を覚ますと、ディランはベッドの上でぼんやりと窓の外を見ていた。 その表情はナナミが初めて見るものだった。 怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。 何を考えているのか分からない。無表情で、それが余計に恐かった。 結局、朝までディランはそのままずっと窓の外を見ていた。 けれど、朝が来ると、ディランはいつものディランだった。 ナナミと他愛ない話をして、笑みを浮かべる。 「ディラン、昨夜、寝てないんじゃない?」 どうしても気になってナナミが問いかけると、ディランは小さく笑った。 「昼寝したから、眠たくなかったんだよ」 「……」 嘘ばっかり。さすがのナナミもそう思った。 それ以来、気をつけてディランを見ていると、時々一人でぼんやりとしていることがあるのが分かった。そんな時は声をかけられなかった。すべてを拒絶しているような雰囲気がして、恐くて声がかけられない。 まるで別人のようで。 それはジョウイがいた頃には見せたことのない表情だった。 その時初めてナナミは気づいたのだ。 ディランがジョウイのことを口にしないのは忘れたからではなくて、忘れられないからなのだと。口に出せば嫌でも考えないわけにはいかない。 どうしてアナベルを殺さなくてはいけなかったのか。 どうして自分たちのもとを去っていったのか。 ディランはずっと一人で考えているのだろうか? もしかして、自分のことを責めているのだろうか? ジョウイがあんな風に去っていくには当然何か理由があったからで、それに気づかなかった自分のことを責めているのではないだろうか? ディランはそうやって何もかもを一人で抱えるつもりなのだろうか? ナナミはどうしても我慢できなくなり、ある日、ディランに詰め寄った。 「ディラン、お願いだから、一人で悩んだりしないでよっ」 「どうしたの?ナナミ?」 「……ジョウイのこと…忘れてないよね?」 「………」 「ずっと考えてるんでしょ?そうだよね?一人でずっと?ね、どうしてお姉ちゃんに言ってくれないの?そんなに頼りない?」 「……」 「いいよ、私にじゃなくてもいい。だって、ここには頼りになる人がいっぱいいるもんね。ビクトールさんやフリックさんや。何か悩んでることがあるなら、相談しなよ。ね、そうしよ?」 ディランは困ったようにナナミを見つめる。 「お姉ちゃんのこと…信用できない?」 そこまで話してナナミ、うつむいた。 シュウはその目に光るをものを見つけ、先を促すことを躊躇った。 ナナミはいつも元気のいい少女で、人前では暗い顔も泣いた顔も見せたことはない。たとえ辛いことがあっても、少なくともディランの前では気丈にふるまっているだろう。そのナナミがシュウの前で涙を浮かべる。 「ナナミ?」 「ディランはね、言ったの。『ごめんね』って」 「……」 「ねぇそれってどういう意味だと思う?それってね、心配かけてごめんね、じゃないんだよ。信用してないからとかでもないの。ディランはジョウイしかいらないんだよ。私がどんなにディランのことを大切に思ってても、どんなに心配しても、結局ディランは一人でいっちゃうの。ディランはね、結局ジョウイしかいらないの、そのことに対しての「ごめんね」なの。そんなの、あんまりひどいじゃない」 大事な弟なのに。 そして同じくらい大切な幼馴染なのに。ナナミにはディランのこともジョウイのことも心配する資格はないのだろうか? それは余計なお世話なのだろうか? 指で溢れた涙を拭うナナミに、シュウが穏やかな口調で言う。 「それは違う」 「え?」 「ナナミ、人には確かに一番大切なものというものがある。それは名誉だったり、金だったり、地位だったり。自分が一番大切だという者もいれば、恋人が一番大切だという者もいる。だが、それと同じくらい、比べることができないほどに大切なものというのも必ず存在する。どちらかを選ぶことなどできない大切なものだ。例えば父親と母親を比べることができないように、人間というのは決して何か一つだけでは生きてはいけないものだ」 「………」 「ディランにとって、確かにジョウイは大切な存在だったのだろう。だが、だからといってナナミのことが大切ではないということにはならない。もし、本当にジョウイだけでいいのであれば、アナベルを殺した時に、どうしてジョウイを引きずってでも二人だけで逃げなかった?それ以前にどうして同盟軍に身を置いた?もし本当にディランがジョウイだけでいいのであれば、今ごろ二人でどこかへ逃げているだろう。そうしなかったのは、やはり彼の中にも比べることのできない大切なものが存在するからだ」 「大切なもの?」 「そうだ。ナナミだってその一つだろう。彼のもとに集ってくる仲間たちも、そしてルカを倒して再び平和な世の中が欲しいという気持ちも」 「………」 「大切なのは信じてやることだろう?たとえ、誰もがディランのことを信じられなくなったとしても、ナナミだけは彼を信じてやらなくてはいけないのではないのか?彼がジョウイのことで悩むのは当然だろう?大切な親友だ。ふいに敵同士として再会して、それで平然としている方がおかしいのではないか?たとえ、今、辛い思いをしているとしても、このまま、ディランが負けてしまうとは俺には思えんがな」 シュウがきっぱりと言い放つ。 「ディランはその身に背負うものがたくさんある。たとえそれが彼自身の本意でなかったとしても、すでに運命は動き始めている。もう後戻りはできない。これから先も、もっといろんな出来事が起こるだろうし、ディランのことを信じられないと思うことだってあるだろう。だがナナミ、人間は何か一つのためだけには生きられない。どんなに強い人間でもだ。だからディランがジョウイだけでいいなんてことは決してない。ディランのそばにいてやれ。たぶん…ディランにはそれが必要だ」 大切なものはいつも一つだけではない。 ディランには自分が必要だ。 その力強い言葉にナナミは勇気付けられる。 「うん。そうだね。ごめんなさい。ちょっとね、ちょっとだけ心配だったのと、私、ジョウイにヤキモチ焼いてたのかも。ディランのこと一人占めされてるような気がして」 「過保護もたいがいにしないと弟離れができなくなるぞ」 シュウの言葉にナナミが笑う。 「ディラン、大丈夫かな?」 「ああ、ぐっすり眠れば食欲だって湧く。言っただろう、こんなことくらいでだめになるようなヤツではない。それに、そのうちそんなこと考えている暇がないくらいに忙しくなる。新しい策も考えているしな」 「ふふ、そっか。大丈夫だよね。ディランは強いし。それにシュウさんはちゃんとジョウイのことだって助けてくれるよね?信じていいよね」 すがるようなナナミの瞳。 小さな頃から一緒に育ってきた幼馴染を、たとえ敵だからといって簡単に見捨てることなどできはしないのだ。シュウは自信たっぷりに笑みを浮かべる。 「当然だ。信じろ」 何の迷いもないシュウの瞳。 シュウの言葉に安心したようにナナミが微笑んだ。 「うん、元気が出てきた。じゃ買物に行ってこようかな。ニナちゃんでも誘って。ディラン、もうちょっとここで寝させててもいい?」 「ああ、かまわん」 「ありがと。ごちそうさま」 ナナミはぺこりと礼をするとディランを起こさないように静かに部屋を出て行った。 シュウは足音が遠ざかるのを確認すると、立ち上がり、ソファへと近づいた。 「起きているのだろう?」 シュウの呼びかけに、横になっていたディランがゆっくりと目を開ける。 「何だ…気づいてたんだ?」 「ふん…どうだ、自分のことを話されるのをこっそり聞くというのは」 「…ふふ…シュウさんてばずいぶんと綺麗ごとを言うのが上手だなぁって感心してた。さすが天才軍師。ナナミを言いくるめるくらい朝飯前か」 ディランは笑い、試すような視線をシュウへと投げかける。 「ねぇ、ほんとに人は何か一つのためだけには生きられないって思ってる?」 「……さぁな。何か…が何なのか、にもよるのではないか?」 「人には一番大切なものがある。それと同じくらい比べられないくらい大切なものもある、か。本当にそうかな。ねぇ、人ってそんなに欲張りでいいのかな?そんなに何もかも欲しがってちゃ結局一番大切なものだって手に入らないんじゃないの?そう思わない?」 ディランがシュウを見上げる。 シュウはしばらく無言でそんなディランを見つめていたが、やがて吐き捨てるように言い放つ。 「たった一つのものだけいいなんて思うほど、お前が殊勝なことを考えているとも思えんがな。どうせジョウイも手に入れて、その他にも欲しいものは全て手にいれるつもりなのだろう?」 「……すごいね、シュウさん。すっごい欲張り」 くすくすとディランが笑う。 「ナナミにあまり心配をかけるな」 シュウの言葉にディランがふいに笑うのをやめる。 「少なくとも彼女はお前にとって大切な人間だろう?」 「……そうだね。一応礼は言っておくよ。それにしても、よくもまぁ好き勝手に邪推してくれたもんだよ。俺がジョウイと出会ったことがショックで寝不足だなんて…」 「違うのか?」 「ただの夏バテ。ねぇ、あの部屋暑いんだ。もっと涼しい部屋に変えてくれない?暑くて眠れないんだ。食欲だってなくなるよ」 シュウは眉を顰め、小さく舌打ちをした。 この部屋涼しくていいよね、とディランは欠伸をする。 「……もう少し寝ろ。ただし部屋は変えん」 「ちぇ…リーダーだっていうのにさ、この扱いはないんじゃないの?」 ディランがぶつぶつと文句を言う。 けれど文句を言ってもムダだと分かっているので、大人しく目を閉じる。 涼しい風が吹き込み、すぐにウトウトと眠りへと引きずり込まれていく。 もうここ何日もまともに眠っていないのは事実だった。その理由が何であれ。もうそろそろ限界だったのだ。深い眠りへと落ちていく寸前、ディランは何とか口を開いた。 「シュウさん…」 「何だ?」 「ありがと、助かった…でも…」 そして意識がなくなる。 再び死んだように眠るディランの様子にシュウは目を細めた。 腕を伸ばして身体にかけてあった上着を引き上げ、そして、そのまま手の甲でディランの頬に触れた。冷たい頬はやはり少し痩せたようで… 「まだまだ俺を言いくるめるには子供だな」 夏バテなど、そんな見え透いた嘘に騙されるほどシュウはお人よしではない。 もっとも、ディラン自身もそれでシュウを誤魔化せたとは思っていないだろうが。 「そんなに大切か?」 一目その姿を見ただけで眠れなくなるほどに? 彼を思うだけで、食べることもできなくなるほどに? 恐らくディランの中にはジョウイと同じくらいに大切なものなどないのだ。 心配するナナミを安心させるためにああ言ったが、シュウはディランに関してだけは当てはまらないことだと心の中では思っていた。 眠りに落ちる寸前にディランが言った言葉。 ――― 助かった、でも… でも?でもやっぱり大切なものは一つだけでいいのだと言いたかったのだろうか? たった一人だけでいいのだ、と? けれど、気づいていないだけで、ディランの中にはやはり多くの大切なものが存在しているとシュウは思うのだ。口ではジョウイだけでいいと言いながらも、最後のところで非情になりきれないことが、いつか彼を苦しめることになるのかもしれないとも。 それとも…とシュウは汗ばんだディランの前髪をかき上げる。 それともディランは全てを選ぶのだろうか? たった一つか、それとも全てか。 何もかもを欲しがるのは欲張りなことだと言いながらも、彼ならやり遂げるかもしれない。 では自分にとって一番大切なものは何なのだろうか? シュウは自らに問い掛ける。 全てを犠牲にしてもいいと思えるほどの大切なものが、自分の中に存在するのだろうか? 少なくとも今は… 指先にある温もりが… 「ばかなことを…」 思わず吐き捨て、シュウは手を引いた。 午後の光が開け放された窓から差し込む。格子の影が長く伸び、ソファの上のディランを囲む。光と影の檻の中で丸くなり、安心しきって眠るディランに目を細めた。 このまま、檻の中に閉じ込めておきたいと思う気持ちがふいに胸をしめつける。 ばかばかしい。 シュウは軽く頭を振り、踵を返して机へと戻った。 余計なことを考えている暇はないのだ。 欲しいのならば与えてやろう。 ディランが望むなら、それが何であれ与えるだけだ。 それが自分にできる唯一のことだから。 それが自分にとって一番大切なことだから。 二人の間に再び静かな時間が訪れる。 二人だけの時間が… |