SOMEDAY



――――隠し事したら許さないから…


 ディランは目を閉じて、胸の中でジョウイの言葉を繰り返した。
 そう言ったのはきみだったのに。
 その約束を破ったのはきみ。
 すべてを一人で抱えて、俺の前から去っていったのはきみ。
 許さないと、俺が言ったら、きみは一体どうするのだろう?


「んで?決闘になったわけだ?」
「決闘なんて大層なもんじゃないけどね」
 ビクトールがざばっと湯をかける。
 ディランが話す昔話を、ビクトールは楽しそうに聞いていた。
 あまり昔のことを、特にジョウイのことを口にしないディランがめずらしく話をし始めたので、興味があるのだろう。まるで弟が話す喧嘩の話を聞くかのように、ビクトールは優しい笑みを浮かべながらディランの話に耳を傾けていた。
「勝ったのか?」
 湯船に二人して入る。
 のぼせそうな気がして、ディランは浴槽の淵に座り、足だけをつけた。
「勝った…のかな…」
 何をもって勝つというのかは難しいところだが、アダムに精神的ダメージを負わせることができたという意味では、勝ったと言ってもいいのかもしれない。
 ディランはビクトールに促されるままに、その夜の続きを話し始めた。





 ディランがアダムに呼び出されたのは、キャロの郊外にある川のほとりだった。
 アダムがいったいどういう話し合いをしたいのか理解できなかったが、うるさく付きまとわれるのも面倒だった。腕力での話し合いになるなら、それも仕方がないとディランは思っていた。
 呼び出された場所にはアダムの他に3人。いつものメンバーというところだった。
「逃げずにやってきたか」
「何で俺が逃げたりするんだよ」
 呆れるディランにアダムはむっとする。
 そしてそばにいるジョウイに気づくと露骨に顔色を変えた。
「どうしてジョウイがいるんだ」
「別に構わないだろう。ジョウイがいちゃ何かまずいことでもあるのか?」
 黙りこむアダム。
 ジョウイは約束通り、何も言わず、少し離れた場所からこのバカげた話し合いを眺めていた。
 話し合い、なんて言っても、結局は気にいらない相手をやりこめたいだけなのだ。いろいろとつまらないことを言っていたアダムたちだが、ディランが少しも応えていないと分かると、とうとう手を出し始めた。
「お前のその悟りすましたところが気に入らないんだよっ」
 ぐいっと胸元を掴んで、アダムはディランをその場に押し倒した。
「よせよっ!」
 思わず叫んだジョウイが、二人の間に割って入ろうとする。すぐに、他の3人がジョウイに掴みかかった。ばしっと鈍い音を立てて頬を殴られたディランは、体勢を入れ替えて、アダムの脇腹を蹴り飛ばした。体格ではアダムの方がずっと上だったため、身体を押さえ込まれると手が出ない。その代り、身軽なディランは素早い動きでアダムを翻弄する。
 その時、ディランは絶対に負けたくないと思った。
 物心ついた頃から、世の中は不公平なもので、差別に満ち溢れ、正しいことが常に正しいとは評価されないものだと思い知らされてきた。
 理不尽な仕打ちには小さい頃から慣れていた。
 そういうこともあるのだ、と否応なしに理解はしている。だけど納得したわけではない。それを受け入れたわけではないのだ。
 負けたくない。こんなことに、簡単に負けてしまいたくはない。
 胸の中で燻っていた凶暴な想いで、一瞬頭の中が真っ白になる。
「ディランっ!やめるんだっ!!」
 だんだんと本格的になってきた二人の様子に、ジョウイが大声で叫んだ。
 何とか自分に掴みかかっていた3人を振り払うと、揉みあうディランとアダムの間に割って入る。
「やめるんだっ、二人とも落ち着けよっ!」
 つかみ合った二人の腕を解こうとするジョウイ。
「邪魔するなっ!!」
 アダムがジョウイの手を振り払い、その身体を突き飛ばした。バランスが崩れ、ジョウイが後ずさる。足をついたその場所は川へと続く斜面だった。ずるりとジョウイの足元が崩れる。
「っ――っ!!」
 ぐらりと大きくジョウイの身体が後ろへと倒れこんだ。
 あっ、とディランが思わず叫び、咄嗟に手を伸ばした。けれど指先が触れようとするその瞬間、ジョウイの身体は吸い込まれるようにして、暗い川の中へと落ちていった。派手に水しぶきが上がり、急流に飲み込まれたジョウイの身体はあっという間に視界から消えた。
「ひっ………!!」
 アダム以下、その場にいた全員が息を飲んだ。
 誰もが突然の出来事に、どうしていいか分からずパニックに陥った。
「ジョウイ――――っ!!!!」
 ディランは大声で叫ぶと、がたがたと立ち尽くすアダムを押しのけ、川へと飛び込んだ。
 夜の水の中がどんなに危険なものか、誰もが知っていた。
 残された者の脳裏には死の文字が浮かんでいた。
「お、おいっ……!!!」
「大変だっ……早く、早く誰か助けを……」
 ばたばたとその場を逃げ出すように駆け出した3人。
 だがアダムは目の前で起きたことが現実のものとは思えず、ただ呆然と立ち尽くすしかできなかった。



 川の水は凍りつくように冷たかった。水の流れの速さに身体が押し流される。
 もし月夜でなければ、川の中はもっと薄暗くて、何も見えなかったに違いない。
 けれど、月明かりはまるでディランたちに味方するかのように、眩しいほどの光を透き通った水の中に差し込んでいた。
 ディランは必死に目を凝らして、ジョウイの姿を探した。
 息苦しくなる前に、ジョウイの姿は見つかった。
――― ジョウイ…っ
 水の中に落ちた時に意識をなくしたのか、ジョウイの身体は人形のようにゆらゆらと水の中に漂っていた。その姿に、ディランはぞっとした。必死で水をかき、ジョウイに近づく。
 手を伸ばしても届かない。
 流れの速さに舌打ちする。
 何度も何度も手を伸ばし、やっと服の端を掴むことができると、これ以上ないくらいに力を込めて引き寄せ、ジョウイの手を取った。そして、必死に水面へと向かって水をかいた。
 顔を上げて、はぁはぁと空気を吸い込む。さすがにもう限界だった。あとちょっとでも遅かったら、自分も意識をなくしていたかもしれない。ディランは、ジョウイの身体を水面に上げ、何とか川岸の草を掴んだ。
「はぁはぁ……ぅ…」
 げほげほと咳き込み、それでもディランは重くなったジョウイの身体を地面へと引きあげる。
 夜気に触れたとたん、一気に寒さが襲いかかった。いくらキャロが常春の街とはいえ、一年で一番寒い時期の夜。その冷たさは半端ではなかった。
 その場に両手をついて、ぜいぜいと肩で息をしていたディランは、ぐったりとその場に横たわるジョウイに近づいた。
「ジョウイ……?」
 青白い顔。
 ジョウイの下腹部から足にかけて、血で真っ赤に染まっていた。
 どこか怪我をしたのか……
 ディランは思わず胸に耳を当てて、心臓の音を確認してみる。
 生きている。
 だけど……息をしてない??
「ジョウイっ!!!!」
 ぞっと、背筋を寒さではない何かが駆け上がった。
 その時の恐怖を、ディランは今でも覚えている。
 死ぬかもしれない、と。目の前で、ジョウイが死ぬかもしれないと思った瞬間、恐怖とともに湧き上がったのは怒りだった。

――― 許さない

 ディランはジョウイの首の下に手を差し込み上を向かせると、片手で鼻を摘み、顎を掴んで口を開かせた。
 授業で習った人工呼吸法。実践でなんて一度も試したことはなかった。ちゃんとできる自信なんてこれっぽっちもない。だけど、やらないわけにはいかない。ディランは手が震えるのを止めることができなかった。恐くて、どうしようもない。
 けれど、それを振り切るかのように大きく息を吸い込んで、ディランはジョウイに口づけた。
「………ぅ…」
 息を吹き込み、肺が膨らむのを確認して、カウントを始める。
 …2、3、4、5……
 もう一度大きく息を吸って、口を塞ぐ。

――― 許さない…

 冷たい唇の感触に涙が出そうになった。

――― 絶対に許さない。俺を置いて、一人で逝くのは絶対に許さない

 息を吹き込みながら、ディランは何度も心の中で叫んだ。
 許さない。もし、自分からジョウイを奪ったら、神様だって許さない。自分には差し出すものなんて何もないけれど、すべてを無くしてもかまわないから、ジョウイだけは奪わないで欲しい。
 唯一…心から…好きだと思える人だから。
 だからお願い……
「ジョウイっ!!!」
 ディランがぱちぱちとジョウイの頬を叩いた。
 繰り返される人工呼吸の末、やがてジョウイはごぼっと喉の奥から水を吐き出した。とたんに、苦しそうに何度も咳き込み、肩で大きく息をする。
「ジョウイ……」
「…っは…えっ……ぁ…っ」
 ディランの肩をつかんで、げほげほと胸を喘がせる。その身体をディランが抱きしめた。

 助かった―――

 そう思ったとたん、どっと身体中から力が抜けた。
「ディラン………?」
 ジョウイの小さな声に、微かに微笑んだみせる。大丈夫だと、言ってやりたいと思ったけれど、ほっとしたとたんに全身に激痛が走った。
「いって……」
「ディラン?」
 ずきずきと痛むのは左足。
 思わず手を伸ばして、生暖かい温もりにはっとした。べっとりと手を濡らす真っ赤な血。
 ああ、怪我をしたのは自分だったのか。
 ディランは遠のいていく意識の端でそう思った。



 ばちっと暖炉の中で火が爆ぜた。
 寄せられたベッドに横たわるディランのすぐ側で、ジョウイは床に膝をつき、その手を握り締めていた。
 ジョウイを助けたディランは、目覚めたジョウイと入れ替わりに意識をなくした。
 一体何があったのか分からず呆然とするジョウイは、聞こえてきた人々の声に助けを求めた。それは街へ戻ったアダムの取り巻き立ちが呼んで来た大人たちだった。ずぶ濡れのジョウイとディランを見て、大慌てで持ち寄った毛布でその身体を包んだ。
 ディランの左足は、太腿から膝下にかけて大きく裂かれていた。おそらく、川に助けに入った時に、岩場のどこかで切ったのだろう、と医者は言った。
 傷口は縫い合わされ、とにかく暖かくして安静にするようにと厳命された。
 一方のジョウイはどこも怪我はしていなかった。冷え切った身体が温まると、気分も落ち着いた。突然の大怪我に飛び上がらんばかりに驚いたナナミは、一段落するとほろほろと涙を零した。そのナナミの肩をゲンカクが優しく叩いた。
「ばか……いつも無茶ばかりするんだからっ…」
「ごめんね、ナナミ」
 死人のように白い顔をしたまま横たわるディランの代わりにジョウイが答える。
 一向に目を覚まさないディランのことが心配で、ジョウイは家にも戻らずにディランの手を取っていた。冷たい指先。自分を助けるために、一瞬も躊躇わずにディランが水の中に入ったということを知り、ジョウイは何故か泣きたくなった。
 嬉しい気持ちと、情けない気持ち。
 そして腹立たしい気持ち。ディランはちっとも自分のことを大切にしない。それが口惜しかった。
「ん……」
「ディラン?」
 呼びかけられて、ディランはぼんやりとした意識を必死で手繰り寄せた。見慣れた天井に、自分が助かったんだということを知った。
「ディランっ」
 ああ、ナナミてばまた泣いてるんだなぁと思ったり、ゲンカクには怒られるかなぁと思ったり。
 そしてディランは自分の指先を握り締めている温もりに気づいて、顔を向けた。
 そこにはジョウイがいた。
 今にも泣き出しそうなその顔を目にしたとたん、ディランは知った。
 ジョウイのことが好きなのだと。
 ずっと胸の奥に無意識のうちに封印してきた想いは、死を思った瞬間に溢れ出た。

 きみがすき。

 そう思ったとたん、それは確かな形となって、ディランの中で甘い疼きとなった。
 アダムのことがどうしても気に入らなかったのも、理由は簡単なことだった。
 彼がジョウイの幼馴染で、仲が良かったからだ。そして、今でもアダムがジョウイのことを本当はとても好きで、ディランに突っかかってくるのも、ジョウイのことを取り戻したかったからだ。言葉にはしなくても、アダムの気持ちは手に取るように分かっていたのだ。そして、そんなアダムに微かな優越感を味わいながらも、心のどこかで恐れていたのだ。
 ジョウイを奪われてしまうのではないかと思って。
 ジョウイを渡したくなかった。だから負けたくないと思った。
 分かってしまえば簡単なことだ。
「ディラン……どうして…こんな無茶ばかりするんだよ。どうして、飛び込んだりしたんだ…」
 ジョウイの言葉にディランは目を閉じてつぶやいた。
「理由なんてないよ……気がついたら飛び込んでたんだ……」
「………っ…」
 あの瞬間、自分も死ぬかもしれないなんて思いもしなかった。
 ただ、きみのことしか考えていなかった。
 きみが好きだから、だと言えば……きみはどうしただろう?
 きみが好き。きみが好き。
 良かった。
 大切なことに気づくことができて。
 胸に溢れる暖かい想いに、ディランは再び吸い込まれるように意識をなくした。





 ジョウイへの想いの部分は適当にはしょって、ビクトールに事の顛末を話してきかせたディランは、まだ生々しく傷の残る足でぱしゃぱしゃと湯を弾いた。
 ビクトールはじっと黙ってディランの話を聞いていたが、やがて重く溜息をついた。
 それを茶化すように、ディランが明るく笑う。
「まぁそういうことで、怪我をしちゃったわけ。見かけはひどいけど、もう全然何ともないし」
「で?アダムってヤツとは仲直りできたのか?」
「仲直り?あーまぁ、自分が悪かったって言ってきて、それからは何も言ってこなくなったな。さすがに、喧嘩くらいで死なれちゃ困るって思ったんじゃないのかな」
「そうか。でもま、お前もけっこうな情熱家だな。好きな相手を助けるために、川に飛び込むとはねぇ」
 ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて、ビクトールがディランをからかう。二人の仲を揶揄しての言葉に、ディランは舌打ちする。
「いや、お前もけっこういい所があるじゃねぇか。なかなか泣ける話だった」
 うんうん、と勝手にビクトールが納得して満足そうな顔をしている。
 別に美談でも何でもないんだけどね、とディランは思う。
 助かった時は、本当に良かったと思った。
 だけど今は、ジョウイがいなくなった今は、もっと嫌なことを思い始めている。
 それは、あの時、もっと大きな怪我をしていても良かったな、ということだった。
 たとえば足が動かなくなるような。
 たとえば目が見えなくなるような。
 それは「きみのためならこの身を捧げる」なんて綺麗な理由からではなくて、「そうすれば、きみは俺に負い目を感じて、一生そばにいてくれるだろう」という、かなり身勝手な理由からだ。
 本当は、あの時ジョウイが大怪我をしていても良かったとさえ思う。
 誰もが目を覆い、親でさえも見放してしまうような大きな怪我。
 そうすれば、きみのそばには自分だけが残る。
 そうすれば、こんな風に離れ離れになることはなかった。
 きみはずっと俺のそばにいたはずなのに。
 もちろん本気でそうなればいいなんて思ってるわけじゃない。
 本当に馬鹿げた空想だけれど。
 ディランはぎゅっと目を閉じた。
 恐い。
 いつか本当にそうしてしまいそうでとても恐い。
 隠し事をしたら許さない、なんて言っておきながら、簡単に自分のもとを去っていったきみだから、今度会ったら二度と離れていかない方法を考えなくてはいけなくて。
 きみを独り占めできる方法を、あれからずっと考えている。
 だめかもしれない。
 これ以上離れていたら、いつか本当にそうしてしまう。
 きみのことを傷つけてでも、一生そばに縛り付けるための鎖を手に入れようとしてしまう。
 だからジョウイ。
 早く戻ってきて。
 俺が正気でいるうちに。
 きみの温もりを忘れてしまわないうちに。
 でないと、俺は本当におかしくなってしまう。
 おかしくなる……。
「ディラン」
「え?」
 ふいに名前を呼ばれて、ディランは顔を上げた。黙りこんでいたディランを、ビクトールが真っ直ぐに見つめていた。
 その深い瞳にディランはどきっとした。
「何て顔してんだ、お前は」
 まるで叱られた子供をあやすような口調で、ビクトールがディランの頬を軽く叩く。
「今にも死にそうな顔しやがって…。なぁ、お前にとって、ジョウイが大事な人間なんだってことはよく分かった。だが、いいか。絶対に自分の命を粗末にするんじゃねぇぞ。誰かのために命をかけることは、一見誉められることのように見えるかもしれねぇが、そうじゃない」
「………」
「大切なのは生き抜くことだ。この先、何があっても、お互いが一緒に生きることのできる道を選ぶんだ。この闘いを、どちらかが死ななければ終わらないような闘いにはするんじゃない。そのために俺たちがいるんだ。お前一人が、すべてを抱え込むような真似、絶対にするんじゃねぇぞ。そんなことしたら、俺が承知しねぇからな」
「………」
 ふわりと、ビクトールがこれ以上ない優しい目でディランを見た。
「それからな、いろんなことをあんまり思いつめるな。大丈夫だ。お前は自分が思ってるよりもずっと強い。ジョウイもな。だから、どんな運命にも負けたりしない。全部上手くいく。心配すんな」
「………っ」
「分かったのか?ああ?」
「……うん」
 よし、分かればいい、とビクトールが豪快に笑う。
 ああ、一人じゃない。
 全部上手くいくなんて、いったい何を根拠にした言葉なんだか、と呆れるけれど。
 だけど、ビクトールの強引な言葉は、不思議とディランをほっとさせた。
 ああ、この人たちがいる限り、大丈夫なんだと、ディランはわけもなく思った。
 昔とは違う。自分は一人じゃないんだと泣きたくなるほどの安堵感が湧き上がる。
 何もかも上手くいく。
 負けたりしない。
「………ありがと、ビクトールさん」
 素直に礼を言うディランにビクトールはにっと笑った。

――― 俺たちがいるんだから

 それは何て暖かい言葉だろう。
 大丈夫。全部上手くいく。
 願わくば、何も知らなかった昔のように、ただ優しく穏やかな時間が戻って欲しいと思う。
 縛りつけることではなく、ジョウイのそばにいられる日がくればいいと思う。
 いつか、そんな日が来ればいいな、と心からそう思う。

 ジョウイ、俺のそばには、こうして心を満たしてくれる仲間がいる。
 今、きみにも、そんな仲間がいるだろうか?
 ジョウイ、きみは今どうしてる?


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