Sweet  Emotion


「ふ……っ」
 ちゅっと濡れた音を立てて唇が離れると、フリックはゆるゆると目蓋を開けた。
 目の前にはまだどこか欲に濡れたような目をした男がいて、それがどうにも気恥ずかしくて思わず視線を外した。
「何だよ、何でそっぽ向くんだよ?」
 低く耳元で笑い、ビクトールがフリックの首筋に口づけを落とす。
「……お前がやらしい顔してるからだ」
 吐き出すようにフリックが言い捨てると、ビクトールは子供のように唇を尖らせた。
「しょうがねぇだろ、やらしい気分なんだしよー」
 おまけにやけに楽しい気分なのである。
 何しろフリックが夜の誘いを拒むことなく受け入れるなど、珍しいことこの上ない。それに気を良くしたビクトールは、久しぶりに心ゆくまで彼の身体を堪能したのだ。
 もう嫌だとむずがるフリックを宥めすかして、何度も繋がり合った。身体も心も満たされきって、けれどまだ離れがたくて、べたべたとフリックに甘えていたとしても誰も責めることはできないだろう。
 もちろんフリックだけは別である。
 まだ日が暮れて間もない時刻である。酒場からは賑やかな笑い声が聞こえてくるというのに、いったい自分たちは何をやっているのだろう。あまりにも獣じみた自分たちの今の状況に、フリックは今さらながらに眉をしかめる。
 しっとりと汗に濡れた肌や、だるい四肢や、痛む喉や、そんな何もかもがたった今まで自分たちがしてきた行為の名残としてフリックをいたたまれない気分にさせるのだ。何より、妙に満足げなビクトールの顔も小憎たらしい。
「フリック……もう一回するか?」
「冗談だろ、俺はもう十分だ」
「満足したのか?」
「………」
「なぁ、どうなんだよ」
 なぁなぁとフリックの顔を覗き込むビクトールに、フリックはつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「そういうこと聞くのは自信がないせいだって聞いたことがあるぜ」
「けっ」
 言い返せないビクトールに、フリックは薄く笑った。
 どさりと隣に仰向けになったビクトールに背を向けるようにしてフリックが寝返りを打つ。このまま少し眠ってしまおうと目を閉じるが、手を伸ばしてきたビクトールにそれを阻まれる。
「……よせよ、もう満足したんだろ?」
 面倒臭そうにフリックがビクトールの手を払う。
「そりゃまぁなぁ……、何しろお前から誘ってくれるなんて滅多にねぇことだしよー」
「………は?」
 この男は今何と言ったのだろう、とフリックは思わず半身を捻ってビクトールを見た。
「お前、何言ってんだ?俺がいつお前のことを誘ったよ?」
 今夜はビクトールから誘ってきたのだ。それを断らなかっただけであって、決して自分からビクトールのことを誘ったわけではないのだ。
 いったいいつ自分がビクトールのことを誘ったというのだ?フリックの疑問にビクトールは即答した。
「だってよ、俺が誘ってお前が「嫌だ」って言う時は「まぁいいか」ってことだろ、つまりお前は自分の本音よりもちょっとだけ違うことを言うわけだ。だとすりゃ、俺が今日誘って、お前が「そうだな」って言ったってことはよ……」
 俺のことを誘ってるってことだよなーとビクトールはからからと笑った。唖然としたのはフリックである。しばらくビクトールの言ったことをぐるぐると考えていたが、やがてあまりにも阿呆らしいその勝手な解釈に脱力してしまった。
「……くだらない……お前のその勝手な思い込み、何とかしろよ」
「照れんなって、いいじゃねぇかよ、別に恥ずかしいことじゃねぇだろ」
 ビクトールの指先が背を向けたままのフリックの首筋に触れた。人差し指ですっと軽く撫でられて、そのくすぐったさに思わずフリックは肩をすくめた。
 そのまま浮き出た肩甲骨に触れ、背筋を辿り、腰から腹部へ辿っていく男の指に、フリックは低く悪態をついた。けれど、あっさりと無視されて背中から抱きすめられてしまう。まだ熱っぽいビクトールの身体がぴたりと背に触れる。
 たったそれだけで、その熱が伝染ったように熱くなる身体に、フリックはひどく困惑した。自分はこんな風に簡単にビクトールに反応してしまうのだと思い知らされたような気がしたのだ。
「フリック……」
「お前、しつこい……っ」
 ぬるりと濡れたままの其処を探られて、フリックはビクトールの手から逃れようとベッドの端へ逃げようとするが、ビクトールの太い腕で抱えられてはどうしようもない。僅かに火のついた身体を煽るようにビクトールが指を蠢かす。
「ビクトールっ」
「お前が素直じゃねぇからだろ。ほんとはやりたかったくせにしらばっくれやがって」
「別にやりたかったわけじゃ……」
「嘘つけ」
 まだ濡れてるじゃねぇか、とビクトールが喉の奥で笑いながらフリックの耳朶を食んだ。このままなし崩しにされてたまるか、とフリックががっちりとビクトールの手首を掴んだ。
「いい加減にしろって」
「やりたいんだろう?」
「………」
「………」
 はーっとフリックは溜息をついた。
「ビクトール、俺だってな、子供じゃないんだからそういう気分の時だってあるし、別に今さら隠すつもりもない……けど……だから……触るなっ!!!!」
 しゃべっている間にもビクトールの悪戯な指がフリックの下肢を這い回る。まったく懲りない男に、いい加減フリックも腹が立ってきた。
「そういう気分だったんだろ?やっぱり俺のこと誘ってたんじゃねぇか」
「だから……確かにそうだけど、でも誘ってなんかない……っ」
 フリックの意固地なまでの反論の言葉に、ビクトールはやれやれというように溜息をついて、空いた片手をフリックの顎にかけた。
「じゃあ聞くけどな、そういう気分の時は、お前さんはいったいどうやって誘うんだ?あんな目で俺のこと見てたくせに、誘ってねぇなんて言わせねぇぞ」
 どんな目だっ!どんな目で俺が誘ったって言うんだ!とフリックは胸の中で毒づいた。
 この口でちゃんと言ってみろと、からかうように頬を掴むビクトールの指に、フリックは腹立ち紛れにがぶりと噛み付いた。
「いってっ!!!!」
 怯んだビクトールの隙をついて、フリックは身体を反転させてビクトールをベッドに押し付けた。
「お前なー、本気で噛み付きやがったな!」
 恨めしそうに噛み付かれた指を振ってみせるビクトールに、フリックは憮然と言い放った。
「そういう時はちゃんと言う」
「……へ?」
 どこか怒ったように頬を紅潮させているフリックを下から見上げて、ビクトールは一瞬呆けたようにぽかんとしたが、すぐににやにやと笑いを洩らした。そういう気分の時は自分でちゃんと言うなど、口ではいくら豪語しても絶対にフリックにはできない芸当だと見抜いているからだ。
 ビクトールが何を考えているか悟ったフリックは、意趣返しの思いもあって、ゆっくりとその上体を倒すと、ことさら小さく男の耳元で囁いた。
「やろう、ビクトール」
 甘さを含んだ誘い文句にビクトールはぴたりと動きを止めた。
「すごくしたい……もう一回しよう、ビクトール……」
「………っ!」
 名前を呼ばれたとたん、込み上げた情欲に耐え切れずにビクトールは低く唸ってフリックのことを抱きすくめようと腕を伸ばした。けれど寸でのところでそれはかわされた。あっけに取られるビクトールに、たった今までの甘い誘い文句はどこへやらといった涼しい顔つきで、フリックは笑った。
「本気になるなよ。ほんとにやりたくなったら、ちゃんと今みたいに口にするっていうただの見本だ」
「何だとー!」
 もう十分満足したんだろ、とそっけなく言ってフリックは再びどさりとベッドに横になり、もう寝ると言ってビクトールに背を向けた。慌てたのはビクトールである。
「おいフリック!そりゃないだろ!今、もう一回しようって言ったじゃねぇか」
「だからただの見本だ。俺はもう寝る」
 それはあんまりだ、としつこく迫ってくるビクトールには答えず、フリックは目を閉じた。
 
(やっぱり、少しは誘っていたのだろうか……)
 
 フリックはうーん、と考え込んだ。
 確かにそういう気分ではあったけれど……
 いや、絶対に違う……
 でも少しはそういう気もあったのかも……

「なぁ、フリック……」
「………」
 情けない声で様子を窺ってくるビクトールに、フリックはくるりと振り返った。そしてしばらくじっとビクトールを見つめたあと、男の太い首に片手を回すとぐいと引き止せ、その唇に軽く口づけを施した。
 突然のことに目を見開くビクトールに、フリックはつまらなさそうにその唇を指でなぞった。
「言っておくけど、これは誘ってるわけじゃないからな。おやすみのキスだ。さっさと寝ろ」
「ひでぇ…」
 こういう生殺しのような真似を平気でできるフリックに、ビクトールはがっくりと肩を落とした。しかし、フリックの目が何かを訴えているように潤んでいることに気づき、微かに笑いを洩らす。
 やっぱりちゃんと口でなんか言わない男なんだよな、と改めて思う。そんな目で見つめておいて、よくもまぁ誘ってないなどと言えたものだ。言葉よりも雄弁に語るその視線に、ビクトールは面映い気持ちになってしまう。
 そして視線だけで何が欲しいか理解できるのは、愛ゆえだよなぁとつくづく思ったりするのだ。
 無言のフリックにゆっくりと口づける。
 今度は逆らうことなく、フリックもそれを受け入れた。
「あと一回だけだからな」
 唇が離れるとフリックは憮然とした表情でつぶやいた。
「わかってる」
「それから、別に誘ったわけじゃないからな」
「さぁそいつはどうかな」
 思わず吹き出したビクトールに、フリックも笑う。
 どうせやることは同じなのだから、そんなことはたいした問題でもないだろう。
 込み上げた甘い衝動に、二人とも逆らうことなく身を任せる。
 密やかな吐息が部屋を満たした。
 
 


 
  
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