アップル


 こんこんと乾いた咳が止まらない。
 ジョウイはベッドの中で苦しげに身を丸め、大きく息を吸い込んだ。
「………っ」
 引きつるような咳が続き、胸が痛くなるような気がして、しばらくの間息をするのを止めてみる。
 そしてゆっくりと息を吐いてみた。
「ふぅ…」
 やっとまともに息ができるようになって、ジョウイは唇まで引き上げていた柔らかな毛布から腕を出した。部屋の暖炉には赤々と火が焚かれていて、汗ばむくらいに熱かった。
 風邪を引いている時には、しっかり汗をかいて、ぐっすり眠れば治るからと母親は言い、朝から晩まで火を絶やそうとはしないのだ。
 そりゃ確かに汗はかくけどさ…
 ジョウイは手を伸ばしてサイドテーブルの水差しを引き寄せた。
 部屋の中が乾燥していて、やたらと喉が渇く。
 いくら部屋を暖かくすればいいといっても限度があるんじゃないかと思うのだが、ジョウイのために良かれと思っての母親の行為を、面と向かって非難することもできないのだ。
 冬になると必ずといっていいほど風邪を引いてしまうジョウイは、たいてい1週間ほど寝込んで、そのあとはケロリと元気になってしまう。
 それでも風邪を引いている間は死ぬほどの苦しさを味わう。
 高い熱と止まらない咳。
 今回もいつもと同じようにベッドから一歩も出られないほどのひどい風邪を引いてしまったのだ。
「う〜苦しい…」
 毎年恒例のことでもあり、ジョウイにしてみれば、もう慣れっこという感じなのだが、それでも苦しいことに違いはない。
「あ、ひどい…」
 手にした水さしは空っぽだった。
 眠る前に飲んだのが最後だったのだ。
 やれやれ、とジョウイはテーブルにそれを戻した。そしてぼんやりと高い天井を見上げる。

――― いったい今は何時なんだろう?

 どれだけ眠っても眠り足りないような気がして、ひたすらに眠り続けた。薬のせいだと分かってはいても、さすがにこれはまずいんじゃないかと思うくらいに眠った。
 おかげで、ちょっとは熱が引いたような気もする。
 何度か、母が額のタオルを変えてくれたのは覚えている。
 もごもごと礼を言ったジョウイの髪を優しく梳いてくれた。
 けれど、どれも夢の中の出来事のような気がしている。
 
――― ディランは…どうしてるかな

 風邪でダウンしてから、一度も顔を見ていない。
 義父はジョウイがディランと付き合うのを快く思っていない。戦災孤児で身寄りがないディランとナナミのことを義父は意味なく嫌っている。育ての親がゲンカクだということも気に入らないようなのだ。
 もしディランが普通に家を訪ねてきたとしても、門前払いをされている可能性はある。
 でなければ、あのディランが何日も会いに来ないなんて、考えられないことだ。

――― 会いたいなぁ

 ジョウイはそう考えて、くすりと笑った。
 どうやら風邪は間違いなく回復へと向かっているようだ。死ぬほど苦しい時には、さすがに誰かのことを考えているような余裕はなかった。こうしてディランのことを心に思い浮かべることができるのは、それだけ余裕ができているということだ。
 でも今はまだ会えない。
 いくらディランが丈夫だからといっても、今回の風邪はかなりきつい。
 会えば…きっと移してしまう。
 移してしまうようなことを…きっと、我慢できない。
 会えない、と思うとなおさら会いたくなる。
 会いたい。
 一目だけでも、会って…ほんのちょっとだけでいいから、触れて欲しい。
 何となく、そうすれば治るような、そんな気がするから。
 かたかたと窓が鳴る。
 外はかなりの風のようで、見るからに寒そうである。
 いつもなら、あのガラス窓に小石をぶつけてジョウイを誘い出すディランだ。
 けれど、今回はそうはしないだろうと分かっていた。
 風邪でベッドの中にいるジョウイを窓際まで歩かせるようなこと、絶対にディランはしない。
 そんな優しささえ簡単に想像できてしまう。
 離れていても感じる。
 自分はディランに守られている、と。
 自分はディランに愛されているのだ、と。
 そんなことを感じれば、なおさら会いたくなる。
「ジョウイ?起きたの?」
 扉が開き、母親が姿を見せた。
 冷たい水と、冷えたタオル。ジョウイの汗をぬぐい、暖炉の火が途切れないことを確認すると、窓際へ寄りカーテンをしめた。
「何か食べる?」
「……」
 いらない、と首を振る。喉がいたくて食べ物が通りそうにもなかったし、食欲もない。母親は何かあったらすぐに呼んでね、と声をかけ部屋を出て行く。
「ああ、ジョウイ」
「?」
「夜更かししちゃだめよ」
 もうこれ以上眠れないよ、と苦笑する。
 けれど、しばらくすると、ジョウイは再び深い眠りへと引きずり込まれていった。


 ひんやりとした空気がジョウイの頬を撫でた。
 うつらうつらとしていたジョウイは暑さから解放されたような気がして思わずほっとした。羽布団を足で払ってみる。気持ちのいい風が吹いている。ああ、暑かった。さらに布団を取り払おうとジョウイが腕を動かした時、
「だめだよ、ちゃんとかぶってなきゃ」
 呆れたような声が聞こえた。
 聞きなれたその声にジョウイは驚いて目を開けた。
 目の前に会いたかった人の顔。
「ディ……」
「おはよ。起こしちゃった?」
 ぎしり、とベッドを軋ませ、片足を乗り上げその身を屈める。ジョウイの額にちゅっとキスをしたディランはいつもの穏やかな笑顔を見せた。
「ごめんね、来るの遅くなって」
「どうやって…」
 掠れてほとんど聞き取れないような声でジョウイがつぶやく。
「いや〜まいったよ。最初はさ、ちゃんと玄関から入るつもりだったんだけど、なかなか入れてもらえなくてさ。そしたらおばさんが協力してくれたんだ。部屋の窓の鍵を開けておくから、怪我しないように中に入りなさいって。ジョウイが窓から出入りしてるのも知ってるみたいだったよ?」
 くすくすと笑ってディランが説明をする。
 なるほど。
 やはり義父が使用人にディランを入れないように言っていたのだ。
 で、ディランはいつものように部屋のすぐ外にある大きな樹を伝ってベランダへ入り、そこから部屋に入ってきたというわけだ。さっき母親が部屋に来た時に窓の鍵を開けておいてくれたのだろう。
 ジョウイとディランが親友同士であることを知っている母親の、ちょっとした優しさだったのだ。
 ディランに会いたいと思っているのことを見抜いていたのだろうか?
「風邪どう?苦しい?」
 苦しい、と唇を動かす。
 ディランはまた身を屈めると、自分の額をジョウイの額にくっつけた。
「ん〜まだ熱あるなぁ。ちゃんと薬飲んでる?」
「ん…」
「……苦しい?」
「……」
 ディランが無言のままふわりとジョウイの肩に額を押し当てた。
「……代わってあげられたらいいのに…」
 拗ねたようなその言葉。子供っぽい言い草に、ジョウイは思わず笑ってしまった。
 ジョウイの笑顔にディランは嬉しそうに微笑む。ゆっくりとキスしようとしてくるディランの唇を、ジョウイが手のひらで遮った。
「う…つる…から…」
 ちょっと離れて、というジョウイにディランはさらに拗ねたようで、ぎゅーっとジョウイの熱い身体を抱きしめた。
「会いたかったのに」
「……」
「会いたいって思ってたのは俺ばっかり?ジョウイは何ともなかった?」
 そんなわけないだろ。と心の中で溜息をつくジョウイ。
 まったくディランは時々信じられないほど子供っぽいことを言う。ジョウイを困らせて楽しんでるんじゃないかと思うこともしばしばで。
「早く元気になってくれなきゃ困るよ」
「?」
「だってさ、ジョウイのことちゃんと抱きしめられないだろ?キスもさせてもらえないなんて我慢できないよ」
 本気なのか冗談なのか分からないディランの頭をぽかりと叩いて、ジョウイが苦笑する。
 ディランはベッドから離れると、どこからか一個の林檎を取り出した。
「お見舞い持ってきた。食べる?」
 真っ赤な林檎。甘そうで、美味しそうだけれど。ちょっと食べてみたいな、と思うけれど。
 無理だ。ジョウイは首を横に振った。その返事にディランは笑みを浮かべる。
「ふふ、喉が痛くてだめだって思ってるだろ?大丈夫。その辺に抜かりはないよ」
「?」
 ディランはごそごそと持ってきていた袋の中からおろし金を取り出した。
「??!!」
「すりおろしてあげる。それなら食べられるだろ?」
 得意げに小さなおろし金を見せるディランに、ジョウイは思わず吹き出した。
 そりゃ確かに林檎をすりおろしたら食べられるけれど!!
 だけど、だからってわざわざおろし金を持ってくるかな?
 ディランは時々思いもつかないようなことを平気でする。笑いすぎて咳が出てきた。苦しげに身体を丸めるジョウイを横目に、ディランはしゃこしゃこと林檎をすりおろし始める。
「一日一個林檎を食べてたら風邪引かないっていうだろ?」
「……そ…だね」
「できた。さ、食べさせてあげるよ」
 ディランがスプーンですりおろされた林檎の果実をすくい、ジョウイの口元へと運ぶ。
 たっぷりと水分を含んだ林檎の実。冷たいそれは口の中で甘く広がる。こくりと飲み込み、その美味しさに思わず微笑んだ。
「美味しい?」
「……しい」
「良かった。小さい時から、これ大好きだっただろ?」
 嬉しそうにディランが笑う。
 林檎をそのまま食べるより、すりおろした方が好き。すりおろしたジュースはもっと好き。ディランはジョウイの好きなものなら何でも知っているのだ。
「もっと食べる?」
「ん……」
 子供みたいに食べさせてもらうのも悪くない。
 大好きなものを、大好きな人に食べさせてもらうと、どうしてこんなに美味しく感じるのだろう。
 ディランはいつでもこうして小さな幸せを与えてくれる。
 欲しいと思ってるものを、簡単に与えてくれる。
 それが嬉しい。
「早く元気になって、ジョウイ」
 ディランのつぶやきに小さくうなづく。
 大丈夫。
 すぐに良くなるから。
 だけど、こんな風に大事にされるなら、もうちょっとだけ風邪を引いたままでもいいかな。
 そんなことを言えばディランに怒られるだろうけど…。
 


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