出来心


 フリックがそれを見たのはほんの偶然だった。

 その日、いつものように剣の練習を終え、大浴場へ行こうとテラスのそばを通りかかった時のことだった。
 テラスの端に置かれたベンチシートに、仲良く並んで座っているマイクロトフとカミューの姿が視界の端に入ったのだ。
 2人はすっかり寛いでいた。
 膝の上に分厚い本を広げ、熱心に読みふけっているマイクロトフ。
 その隣でベンチに両足を乗せて膝を抱え、ぼんやりと空を見上げているカミュー。
 二人とも、ずいぶんと肩の力が抜けているようだった。
 そういえば、今日は二人そろっての休日だったな、とフリックの顔が思わず綻んだ。
 いつも騎士然として、だらしない姿など決して人前では見せない二人のめずらしいツーショットを、ちょっとからかってやろうかと思った。
 フリックが声をかけようとしたその時。
 ふいにカミューがマイクロトフの肩に手を置いて身体の向きを変えると、耳元で何か囁き、その頬に唇を寄せた。
 いきなりのカミューからの口づけに、マイクロトフは少し眉を顰めて顔を上げた。
 読書の邪魔をされて迷惑だ、というような表情にも見えるし、どういう反応を返せばいいのか分からず戸惑っているようにも見える。
 マイクロトフはカミューに向かって何か小言めいたことを言ったようだが、カミューが何か一言言い返すと口を閉ざした。
 そして、しばらくカミューの顔を見ていたマイクロトフは、諦めたかのように軽く溜息をつき、左の指先でカミューの顎を持ち上げると、その唇にキスをした。
 これでいいか?とでもいうような表情に、カミューが何と答えたかは見えなかったが、柔らかに微笑んだマイクロトフの顔からして、きっとカミューの欲求は満たされたのだろう。
 思いもかけない恋人たちの甘い瞬間を目の当たりにしてしまい、フリックは逃げるようにしてその場を後にした。
 とても声なんてかけれる雰囲気ではない。
 もちろん2人が恋人同士だということは十分に理解していた。
 けれど、人前では決してそんな素振りを見せないから、想像ができなかったのだ。
 マイクロトフに甘えるカミューの姿など。
 カミューを甘やかすマイクロトフの姿など。
「まいった」
 フリックは火照った頬を押さえて吐息をついた。
 とんでもなく甘い恋人たちの時間。
 あいつらは二人だといつもあんな風なのか?とフリックはうんざりしたように溜息をついた。
 けれど、何だか妙に羨ましいような不思議な気持ちにもなった。
 何故なら、さっきの二人はとても幸せそうだったから。
 あんな風に、自分も誰か――ビクトールを幸せにできているのだろうか?
 ふざけて頬にしたくちづけが何倍もの幸せになって返ってくるような、そんな関係が築けているのだろうか?
 フリックはふと、試してみようか、とつまらないことを思いついてしまった。
 それを人は出来心と呼ぶ。


 その夜、めずらしく早く酒場を引き上げたビクトールは、頭の下で手を組んだままベッドに横になり、何かを考えているかのように目を閉じてじっとしていた。
 フリックが先に風呂に入り、部屋に戻ってきてもまだ同じ状態でじっとしている。
 濡れた髪を拭い、めずらしいな、と思いながらフリックはそんなビクトールを見つめた。
 まぁいろいろと考えなければいけないことはあるのだ。
 闘いの状況は日に日に悪くなっているのだから。
 いつも馬鹿ばかりやっているビクトールだが、フリックと二人きりの時は、深く考え込むことがある。決して人前では見せないような顔で、真面目な話をすることもある。
 それはフリックにだけ見せるビクトールの一面だった。
 ビクトールはその外見や行動に反して、ずいぶんといろんなことをきちんと考える男だ。
 そして悲しみや、辛さや、苦しいことは、すべて自分ひとりで抱える男だ。
 決してそれを他人に見せることはないけれど。
 フリックにさえ、見せることをしないけれど。
 それでもフリックのそばにいる時だけは、肩の力を抜いて本当の自分になる。
 心を許しているフリックにだからこそ見せる本当のビクトール。
 そういうビクトールの姿を見ると、フリックは妙に胸が苦しくなるのだ。
 恋愛沙汰に疎いフリックは、そんな気持ちを何と呼べばいいのか分からなかった。だが、カミューあたりであれば、簡単にその答えを出しただろう。
 それは「愛しさ」と呼ぶのだと。
 フリックはぼんやりとビクトールを眺めていたが、その時、ふいに昼間のカミューたちの姿を思い出してしまった。
 そして、どういうわけかそんな気になってしまったのだ。
 試してみようかな、と。
 まったく、魔が差したとしかいいようがない。
 フリックはごくりと喉を鳴らすと、微動だにしないビクトールに近づいた。片膝をベッドに乗せると、身体を屈めてビクトールの頬に唇を寄せてみた。
 近づく体温。
「――――っ!!」
 フリックの唇が頬に触れた瞬間、ビクトールが過剰なまでに反応し、飛び起きた。頭がぶつかりそうになって、フリックは慌てて飛びのいた。
「なっ――何だっ、今のはっ!!」
「な、なに…って…」
 ビクトールが信じられないものでも見るかのようにフリックを凝視する。
 そんな風に驚かれると、こっちの方が恥ずかしくなるだろっ!!とフリックが心の中で叫ぶ。そして急に自分がとんでもない馬鹿なことをしてしまったような気がして、(いや、実際しているのだが)かぁっと頭に血が上った。
「フリック??」
「い、いいんだっ!!忘れてくれっ」
「おいおい、ちょっと待てよ」
 ビクトールが立ち去ろうとするフリックの手首を慌てて掴む。
 そしてぐいと力任せに引き寄せると、その身体をしっかりと両腕で抱きしめた。ぴったりと身体を寄せて、フリックの首筋にキスする。
「ばっ…!!」
「お前から誘ってくれるなんざ、珍しいこともあるもんだ。こりゃ、明日は雨だな」
 くっくっと笑いつつ、ビクトールがフリックの衣服の裾から手を滑り込ませる。
 フリックがあたふたとそんなビクトールの手を必死で止めようと試みる。
「違うっ!!!そういう意味じゃないんだっ!ばかっ、やめろ!」
「はいはい、いいからいいから」
 何がいいから、だっ!!
 いつものことであるが、フリックは自分が馬鹿だったと後悔していた。
 やはり慣れないことはするものではない。
 そして、同じことをするのでも、相手を選ばなければ同じ結果は得られないのだと、今さらながらに思い知らされたのである。

――― ちょっとしたキスが返ってくればいいな、と思っただけなのに…
 
 自分の上で嬉々としてシャツを脱いでいる熊男を見上げつつ、フリックは盛大に溜息をついた。
 つまらない出来心なんて起こすものではないのである。






〜おまけ〜

 マイクロトフがそれを見たのはほんの偶然だった。

 遠征先の宿屋でのことである。
 宿屋の大浴場から戻ってきたマイクロトフが、自分に用意された部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、隣の部屋の扉が薄く開いているのに気づいたのだ。
 そこはビクトールとフリックに用意された部屋だった。
 何とはなしに覗いてみると、二人がベッドに腰かけて、何やら話をしているのが見えた。
 夕食に出た酒を持ち帰っていたようで、二人でグラスを傾けながら、他愛もない話でもしているのだろう。ずいぶんと柔らかい表情で笑うフリックと、それを愛しげに見つめるビクトール。
 思わず足を止め、マイクロトフはその様子に見入ってしまった。
 ビクトールとフリックは3年前の戦争からの腐れ縁で、良き相棒である。そして恋人同士だということは、公然の秘密となっていた。そのことは、マイクロトフ自身は、初めて彼らを見た時には気づかなかったのだ。けれど、カミューは
「あの二人は、恋人同士だな」
 と一目で見抜いた。
 何故分かるのだ、と聞いたマイクロトフに、そんなものは雰囲気で分かるとあっさりと言ったのだ。
 それ以来、そういう目で二人を見ていると、なるほど二人きりでいる時の彼らは、ほどよく緊張が解け、とてもいい感じに見えた。
 ビクトールのフリックを見つめる瞳。
 フリックがビクトールへと笑いかける瞳。
 とても自然で、そのくせどこか照れたようなそんな感じ。
 マイクロトフはいけないとは思いつつそんな二人の様子をじっと観察してしまった。
 二人の声が聞こえる。
「………な、おかしいだろ?」
「確かに。まぁ、ああ見えてもディランもまだガキだしよ、大目に見てやれって」
 何がおかしいのか、フリックがくすくすと笑い続ける。
 そんなフリックの肩を引き寄せ、ビクトールがその頬に唇を寄せた。
「……人の顔、勝手に舐めるな」
 フリックがむっとしてビクトールの身体を押し返す。
「舐めてんじゃねぇって、キスしてんだろうが。なぁ、フリック、いいだろ?」
「よくない。明日早いから却下」
「一回だけ」
「少しは我慢しろよっ!!どうせ、明後日には城に帰れるだろ」
「我慢できねぇ」
 言うなり、ビクトールはフリックをベッドの上に引き倒した。暴れまくるフリックを難なく押さえ込み、ビクトールはフリックの耳元で何かを囁いた。
 しばらくそれを聞いていたフリックは、やがて諦めたかのように抵抗をやめた。
「………たいがい、俺も甘いよな…」
 溜息混じりのフリックの声。
 パタリとシーツの上に放り出される両腕。
 ビクトールが愛しげに、そんなフリックの耳朶を食むようにして囁きを返す。
「仕方ねぇだろ、お前、俺のこと愛してるんだからよ」
「………寒くなるようなこと言うんならやらせねぇぞ」
「はいはい、分かったよ」
 フリックの上に乗り上げたビクトールの姿に、マイクロトフは音を立てないようにそっと扉を閉めた。
 他人の睦言なんてまともに聞いたのは初めてで、マイクロトフは顔が火照って仕方がなかった。
 あのフリックが。
 本当は呆れるくらいにお人良しのくせに、一見人を寄せつけないような雰囲気を持っているフリックが、ビクトールが二人きりだとあんなに柔らかい笑顔を見せるのだ。
 恋人の威力というのはすごいものだ、とマイクロトフは感心した。
 そして、あらためてビクトールはすごい男だと思った。
 だいたい、あんな風に強引にコトを進めるなんて、マイクロトフには考えられないことである。そして、はたと自分とカミューの場合を考えてしまった。自分たちがベッドを共にする時は、たいてい自然とそういう雰囲気になったし、マイクロトフから誘う時はたいていカミューは同意してくれるから、あんな風に暴れる相手を押さえ込んでコトに及ぶことなんてないのだ。
 もしカミューが拒絶したら……と考えた。
 もし、嫌がるカミューを強引に押さえ込んだらどうなるのだろか?
 さっきのフリックのように、最後には呆れながらも受け入れてくれるだろうか?
 マイクロトフはふと、試してみようか、とつまらないことを思いついてしまった。
 それを人は出来心と呼ぶ。


 部屋に戻るとカミューはベッドに横になって、何やら書物を読んでいるところだった。
「何を読んでいる?」
「ああ…さっき食堂で会った行商人がくれたんだ……なかなかおもしろい小説だ」
 ベッドで横になって本を読むのはカミューの癖だ。行儀が悪いと、何度注意してもやめようとはしないので、今ではマイクロトフも諦めている。
 マイクロトフは意を決してベッドへ近づくと、カミューの手から本を奪い取った。
「………何をする」
 とたんに不機嫌になるカミュー。
「カミュー、いいか?」
「何が?」
 むっとしたまま問い返す。その低い声に一瞬マイクロトフはたじろいだが、しかしここで怯んではいけないとばかりにカミューの身体へと覆い被さる。
「カミュー……」
「ば、ばかっ!!!お前、何を考えているんだっ!」
 マイクロトフの意図に気づいたカミューが慌てて自分の上にいる男の身体を引き剥がそうとする。明日の朝は早いのだ。今から体力を使うことなんてやりたくない。
「好きなんだ、カミュー」
「分かってるっ!!いいから私の上からどけっ!!」
「嫌だ。我慢できない」
 そこでマイクロトフはふと思った。そういえば、このあと、ビクトールはフリックの耳元で何を言ったのだろうか?その言葉でフリックは抵抗をやめたのだ。
「マイクっ!!怒るぞ」
「………」
 カミューの首筋に顔を埋め、マイクロトフは考えていた。
 好きだとか、愛してるとか、そんなありきたりな言葉で、あのフリックがあっさりと抵抗をやめたとは思えない。何か決定打となる言葉があるはずだ。
 しかし肝心のその台詞は聞こえなかったのだ!
「マイクっ!!」
 なかなか離れようとしないマイクロトフにカミューが小さく舌打ちをした。
 そして次の瞬間、強烈な痛みがマイクロトフの腹部を襲った。
「〜〜〜〜〜〜っっ!!!!!!」
 マイクロトフは声も出せずに、カミューから離れ、両腕で自分の腹を抱えこんだ。
 どうやら蹴り飛ばされたようである………。
「っ!!!!〜〜カ、カミュー〜〜〜」
 最愛の恋人をここまで本気で蹴り飛ばすか?普通??
 マイクロトフは小さく唸りながら恨めしげにカミューを見上げた。カミューは乱れた髪を直して、そんなマイクロトフを冷ややかに見つめた。
「マイク、私はやりたくない時は絶対にやりたくないと、前に言ったはずだな?そろそろ学習して覚えてもいい頃ではないか?」
「そ、そうだったな……」
 息も絶え絶えにつぶやき、マイクロトフはがっくりとその場に突っ伏した。
 やはり慣れないことはするものではない。
 同じことをするにしても、相手は選ばなくてはならない、と今さらながらにマイクロトフは痛感していた。愛しの恋人はそんなマイクロトフの手から本を奪い取ると、再びベッドに横になって続きを読み始める。
 マイクロトフは大きく溜息をついた。
 つまらない出来心など起こすものではないのである。
 
 


BACK