憧憬


ナナミの死を告げられた時、彼は何を思ったのだろうか。



「シュウ」
 呼び止められて歩みを止めると、いつも人を食ったような飄々とした雰囲気を漂わせているビクトールが、やけに神妙な顔つきで立っていた。
 直感的に、やっかいなことを言われそうだと思い、それでも避けるわけにもいかず、シュウは小さく吐息をついた。
「何か用か?」
「いや、用ってわけじゃねぇんだが、ちょっと付き合えよ。少しくらいなら時間はあるだろう?」
 ビクトールが強引なのはいつものことだ。何か言いかけたシュウを遮るようにぐるりと辺りを見渡し、彼は柔らかな光の差し込む窓際へとさっさと一人、場所を移した。
 仕方なくシュウもビクトールの隣に並び立つ。
 石造りの本拠地はどうしても内部が薄暗い印象が否めない。冷えた空気はいつものことだが、今日はいつもより寒い気がしてシュウはそっと両腕を掌で包み込むようにして腕を組んだ。
「久しぶりに晴れたな」
 窓の外を眺めて、ビクトールがぽつりとつぶやいた。つられるように視線を向けると、雨に濡れた木々の緑が光を弾き、目に痛いほどだった。その眩しさにシュウは目を細めた。
 ナナミの死が伝えられてから、まるで涙雨のようにしとしとと冷たい雨が降り続いた。
 明るく元気だった彼女のことを思い、誰もが涙を流し、義弟である盟主のことを憂慮した。血は繋がっていなくとも、彼らはこの世でたった二人きりの姉弟だったのだ。
 ナナミがいなくなり、彼は本当に一人になってしまった。
 そう、遠く敵国にいる友を除けば。
「ディランのやつ、どうしてる?」
 まるで天気の話でもするように、ビクトールがシュウに尋ねた。
 どうして俺に聞く?と聞き返したシュウに、ビクトールは悪びれない笑顔を見せた。
「仲いいだろ?」
「……?」
 言っている意味が分からず、シュウは微かに眉をしかめ、まじまじと目の前の大男を見た。

(仲がいい?)

 それはまるで友達にでも使うような言葉ではないかと思った。
 シュウにとって、年齢も育ってきた環境も全く違うディランとの関係は、あくまでも盟主と軍師というものであって、気軽に世間話をするような関係ではない。
 それなのに、この男はいったい何を見てそんなことを言うのだろうか。
 ビクトールは人を見る目があると評判だが怪しいものだ、とシュウはこれからの諸々の人選を彼に任せるのは考え直さなくてはいけないな、とため息をついた。
「で、どんな様子なんだよ」
「会っていないから分からんな」
 ナナミの死後、ディランの姿を城中で見かけることはほとんどなくなった。
 どんなに闘いが辛い時でも、可愛げがないと言われるほどに一人泰然自若としていた彼だけに、ナナミの死が彼に与えた衝撃の大きさは計り知れないものがあるのだろうと誰もが心を痛めた。
 どんなにしっかりしていても、彼はまだ二十歳にもならない少年なのだ。
 そのことを、今回のことでやっと周りの人間は気づいたのかもしれない。
「あいつは……何でも自分で抱え込むからな……」
 ビクトールが、がつっと踵で石の床を蹴り飛ばす。
 窓の外から子供たちの笑い声が聞こえてくる。
 久しぶりに雨が上がり、待ちかねたように外へと遊びに出たのだろう。賑やかな声を聞いていると、こうして二人がいる場所の暗さが一層際立つような気がした。何も知らない子供たちの無邪気さは、悲しみをより深くしていく。
「辛いことは絶対に人には言わないだろ。リーダーとしては必要なことかもしれねぇが、それじゃあ、いつか壊れちまう」
「………」
「今までいろんなことがありすぎて、それが当たり前になってるのかもしれねぇが……ちゃんと泣けてるならな、それならいいんだ。人間ってのは泣けるうちはまだ大丈夫だ。けど、あいつはまた一人で抱え込んでるんじゃねぇかって心配になってな」

(彼は泣くだろうか……?)

 シュウはふとディランのことを思った。
 同盟軍のリーダーという立場からか、彼はいつも笑っている。たとえそれが彼の本意ではないにしろ、彼は誰もが寄せる期待に笑って応える。迷いながら、時にはつまづきながら、それでも応えるだけの力があるから、彼の中にある弱さに誰も気づかない。
 彼が泣いているところなど見たことはない。
 彼が愚痴を零す姿も。弱音を吐く姿も。
 恐らく誰も…シュウでさえもそれは目にしたことがない。
 そんな彼も、ナナミの死には、やはり涙を流しているのだろうか。
 当たり前のようでいて、シュウにはその姿がどうしても想像できなかった。
「シュウ」
「何だ……?」
 ぼんやりとディランのことを考えていたシュウは呼ばれて顔を上げた。
「俺はまだ信じられなくてなぁ……」
 ビクトールはどこか遠くを眺めていた視線をシュウへと移した。
「あのお転婆娘が死んだなんて、まだ信じられない。本当はどこかで生きてるんじゃねぇかって、そんな気がしてならねぇ……」
「………」
 つまんねぇ感傷だな、とビクトールは笑う。
 だが顔は笑っているが、目は笑っていない。まるで何かを試すかのようにシュウを見つめるビクトールに、何故か胸の奥が苛立った。この傭兵の妙な勘の鋭さは、時々シュウを嫌な気分にさせる。おそらく、自分にはない「本能で真実を見抜く力」に、圧倒されるからなのかもしれない。
 だが……。

(気づいているはずはない……)

 いくらビクトールでもそれはない、とシュウは思う。
「用はそれだけか?」
 なるべく感情を表さないようにビクトールを見ると、彼は軽く肩を竦めた。
「あー、まぁな。こんなこと、あんたに言うまでもねぇとは思うけどよ、残るはルルノイエへの出陣だけだ。……あいつがいなけりゃ話にならない」
「………」
「ひどいこと言ってる自覚はあるぜ」
 ビクトールは、少しばかり気まずそうに窓の外へと視線を移す。
 ナナミの死で泣いている暇はないと。
 最後まで闘えと、泣いている暇などないと、今、義姉を亡くして傷ついている彼にそれを望むのがどれほど残酷なことか自分でもよく分かっている。けれど、共に闘ってきた仲間…命を落とした仲間のことを思うと、ここで立ち止まることができないのも事実なのだ。
 これまでに失った命は一つや二つではない。ナナミだけが特別なのだと、それは立ち止まる理由にはならないのだ。
 皆、心のどこかでそう思っていても、口に出すにはあまりには冷たいその言葉。
 それを口にしたビクトールのことを冷たいなどとは欠片も思わない。シュウ自身、それは嫌というほど自覚していることだから。むしろ言わせてしまった己の不甲斐なさを責めるほどだ。
「……確かに言われるまでもないな」
「シュウ、あんたなら分かるだろう。今、あいつに何が必要なのか……」
「………」
「あんたにしか頼めねぇと思ってな……」
 ぽんと肩を叩き、シュウに「何を」と問い返す間を与えず、ビクトールは片手を上げて歩き出した。しかし、すぐに思いついたように振り返り、にっと唇の端を上げた。
「ああ、シュウ……さっきのアレはちょっと違ったな……」
「……?」
「仲がいいんじゃなくて……」
 続けられた言葉に、シュウはその秀麗な眉を顰めた。





 かつ、かつ、と小さな靴音をさせて目指すのは本拠地の一角にある執務室だ。
 ビクトールとの会話は、シュウのことをずいぶんと疲れさせた。やるべきことをやっていないと、暗に責められているような気がして、そしてそれが事実だけに言い返すことすらできなかった。
 一人になりたくて、なるべく静かな場所をと、先ほどあとにしたばかりの執務室に戻ることにした。長い廊下を進む間も、外からは楽しそうな子供たちの声が聞こえる。いつもなら心を和ませるその声は、今はただ気持ちを苛立たせるだけのものだった。
 シュウは抱えていた書類を片手で支えると、冷たいドアノブに手をかけた。小さな音をたてて扉が開く。一歩中に踏み込んだ瞬間、ゆらりと動いた人影に、シュウはぎくりと足を止めた。
 シュウの真正面にディランがいた。
 彼は天井までの届く大きな窓のそばに立ち、外を見ていた。差し込んだ午後の光に白く縁取られた横顔には何の表情も浮かんでいなかった。
 まさかディランがここにいるとは思わなかったので、思わず立ち尽くしたシュウだったが、すぐにほっと肩の力を抜いた。
「……驚かせるな」
 低く言い捨て、扉を閉める。
 シュウは執務机に歩み寄ると手にしていた書類を置いた。
 ビクトールに妙なことを言われ、まだ心の準備もできないままにディランの姿を目にして、少し動揺している自分がいる。

(らしくもない……)

 それでもそんな自分を表に出すことはせず、シュウはいつもと同じようにディランへと話しかけた。
「ずいぶん久しぶりに姿を見るような気がするな」
「そう?ああ、そうかもね……」
 その声さえも久しぶりに聞く。
 シュウはゆっくりとディランに近づいた。微動だにせず窓辺に佇み窓の外を見つめるディランは、傍らにシュウの気配に、ふと視線を上げた。
「やっと雨が上がったね」
「………」
「雨の音が耳についてさ、眠れなかったよ」
 眠れなかったのは雨のせいではないだろう。
 だが、それを口にすることはせず、シュウはそうか、とだけ言った。
「貴方がずっと部屋に閉じこもっていたから、城の者がみな心配をしていた」
「………」
「どうせろくに食べていないんだろう?」
「……ねぇ、シュウさん」
 ディランはくるりと身体をシュウの方へと向ける。
 ディランはシュウよりもまだ背が低く、痩せていて、まだ少年の域からいくらも出ていない。まだ子供だと言ってもおかしくないくらいなのに、彼は時々10近くも年上のシュウを圧倒することがある。
 それは闘いに出る直前だったり、同盟軍の命運を決める賽を振るう時だったり。
 普段はごくごく普通の少年が、何のためらいもなく進むべき道を指し示す度、シュウは彼がある種の選ばれた人間なのだと感じるのだ。
 例え彼がそれを望もうと望むまいと、それはやはり定められた運命なのだと感じるのだ。
 今、シュウを見つめるディランの瞳は、揺るぐことなく真っ直ぐにシュウを見つめていて、それはシュウの居心地を悪くさせるには十分だった。知らぬうちに視線を外したシュウに、ディランはくすりと笑った。
「何だか隠し事しているみたいな顔しているよ?」
「………っ」
 咄嗟に言葉を発することができず、シュウは息を飲んだ。
 彼が知るはずもないと分かっていながら、それでもふいを突かれて狼狽を隠せない。
 するりとシュウの脇を抜け、ディランは部屋に置かれたソファの上に座り込んだ。そこはいつもディランが好んで座る場所だった。暖かな午後の光が当たるその肘掛に、顔を伏せるようにして彼がゆっくりとその身を伏せる。
「何だか、少し疲れちゃったよ……」
 ぽつりとディランが口から出た、それはシュウが初めて聞く彼の弱音だった。
 まさか彼がそんなことを口にするとは思っていなかったシュウは、一瞬戸惑い、やがてその戸惑いが胸の奥で別の形を成していくのを感じた。
 それは怒りとも呼べるほどの醜い想いだった。
 焼け付くほどの胸の悪さはいったい何なのだろうか。
 彼がこんな風に弱っている姿を見たくないという嫌悪感と、彼は自分にだけその姿を晒すことができるのだという優越感が交差する。
 そんなことを思ってしまう自分に、シュウは吐き気さえ覚える。
 目を閉じたディランの隣に座り、しばらく無言のままでいたシュウは、そんな複雑な思いを振り切るかのように、ディランへ進言した。
 誰もが心の中で思っていても口には出せないでいるルルノイエへの進攻。
 今、この時を逃せばもうそのチャンスはないと、誰かがディランに告げなければならないのだとしたら、それは自分の役目なのだろう、とシュウは自覚していた。
 軍師である以上、それはシュウの義務なのだ。
 目を閉じて、シュウの話を聞いていたディランは、話が終わったあとも、しばらく無言のままでいたが、やがてゆっくりとその身を起こした。
 どこか焦点のあっていないような瞳で、シュウを見つめる。その痛いほどの視線に気づかないふりをして、シュウはなおも続けた。
「貴方が、今やるべきことが何なのかを、考えていただきたい……」
「………」
「何のためにここまで頑張ってきたのかも、そして…彼女が命を落とした理由も」
 卑怯な言葉だ、とシュウは思う。
 命を落としたナナミのために、哀しみを乗り越え、再び闘えと。それが必要なこととはいえ、こんな形で彼女の名を口にしたいとは思わなかった。
 ディランは片脚をソファに引き上げると、シュウの方へと身を乗り出した。
「大変だね…シュウさん……」
 立てた膝の上に顎を乗せ、真っ直ぐにシュウを見つめるディランは、それまでシュウが知らない表情をしていた。
「きっと皆そう思ってるんだろうけど、誰も恐くて言えないだろうな。ナナミが死んで、俺が悲しんでいるだろうって思うと、言えないよね。シュウさん、仕事とは言え、損な役回りだね」
「………」
「闘えって言うんだね……」
 ぽつりと、ディランが小さくつぶやく。
「ナナミが死んだ今、俺にそれを言うんだ……」
「……それを告げるのが私の義務であり、聞くのが貴方の責任だからな」
「責任?」
 一瞬にして、ディランの瞳に強い光が灯る。
「責任ってなに?誰に対しての?何に対しての?いったいいつからそんなもの…っ…」
 滅多に感情的になったりすることのないディランが声を荒げ、シュウの肩を掴む。
「闘うことが俺の責任だとでも言うつもり?」
「貴方は同盟軍の盟主だ」
「なりたくてなったわけじゃないっ!」
 叫んだディランは勢いのままに、シュウのその場に押し倒した。きつく掴まれた肩の痛みに、シュウは僅かに眉をしかめる。
「自分から望んだ戦いじゃない、自分から望んでリーダーになったわけじゃない!それなのに俺に戦いの責任を押し付けるの?戦うことが責任だって?リーダーだから?だからナナミの死を悼む間もなく、また闘えって言うの?そんなの……っ……」
 言いかけたディランをシュウが遮る。
「なりたくてなったわけじゃないから責任がないなどと、甘えたことを本気で思っているわけじゃないだろうな。貴方は不本意だったにしろそれを選んだ。自分が選んだ道には、必ず何らかの責任が生じる。そんなことくらい分かっているだろうっ」
「分かってるさ、そんなこと。俺はここに集う人たちの命を預かってる。そうさ、彼らを死なさないことは俺の責任だ。だけど、戦うことは俺の責任じゃないっ!俺は…っ…」
 言葉を詰まらせたディランの瞳にいっぱいの涙が浮かび上がる。
 そのこと自体が自分でも不思議なのか、ディランはしばらく大きく目を見開いていた。やがて、無表情なままひとつ瞬きをすると、ぽたりとシュウの頬に涙が零れ落ちた。
 その熱い滴りに、シュウは息を飲んだ。
 一度溢れた涙は止めようもなく、次から次へとシュウの頬を濡らす。
 肌を伝い、耳の後ろへと流れる熱い雫の奇妙な感触に、シュウはそれまで抱えていた想いが一気にあふれ出した。
「何故泣くっ……」
 思わずシュウが声を上げた。
 いけないと理性が叫んだが止めようがない。
 その瞬間、シュウの中に生まれたのはどうしようもない憤りだった。怒りの理由はわからない。ただ突如として生まれたその感情に流されるままに、シュウは自分の肩を押し付けるディランの手首を掴み、出会ってから初めて彼に対して声を荒げた。
「何故泣く?貴方は言ったはずだ。自分はジョウイのために、ただ彼を取り戻すためだけに戦うと、そう言った。いいだろう、戦う理由は人それぞれだ。そのためにリーダーとなり、戦いに身を置いたのだろう。貴方が彼のために戦うというのなら、何故泣く?ナナミが死んだことは、貴方が戦いをやめる理由にはならないはずだっ、貴方はまだ戦わなければいけないはずだっ」
「そうだよっ!」
 ディランはぎゅっと目を瞑ると、大きく肩で息をした。
「そうさ、俺はジョウイを取り戻すためだけにリーダーになった…、ジョウイだけでいいっ、ジョウイさえ俺の元に戻ってくれればそれで良かった…だけど……だけどそれはナナミが死んでもいいってことにはならない……っ!!……そんなこと…望んだわけじゃな……っ……」
 とん……っとディランがシュウの胸にその額を押し当てる。大きく息を吸い込み、そのあとに続いた嗚咽に、シュウは半ば呆然と空を見つめた。




(ディランは…きっとすごく泣くから……)



 シュウはそう言ったナナミに目を細めた。
 ホウアンに呼ばれた医務室で、彼女は自分は死んだことにしておいて欲しいと言った。彼はここで立ち止まってはいけないのだと。
 彼の中に未だ残る弱さを乗り越えなければこの戦いには勝てないのだ。
 だから、これは必要なことなのだと彼女は淋しそうに笑った。
「ディランが……泣く……?」
 シュウはその姿が想像できずにナナミに問いかえした。
 うん、とうなづいて、ナナミは首を傾げた。
「ディランはね、きっとすごく泣くから。でも……一人で泣くかな……。強がって、誰かの前じゃあ涙は見せないかな……きっと、平気な顔してみんなの前に立つんだろうな。でもね、シュウさん」
 ナナミが顔を上げ、まっすぐにシュウを見つめる。
「ディランは……そうは見えないだろうけど、あの子はシュウさんたちが思ってるほど強くないから。本当は笑っちゃうくらいに臆病で、すごく…すごく愛情に飢えた子なんだよ」
「………」
 ナナミはシュウとホウアンの視線に少し躊躇しながらも続けた。
「あのね、ディランは…いつもどこかで足りないって思ってるんだと思う。私がどれほどディランのことを好きだと思っても、この本拠地でたくさんの仲間に囲まれて、どれだけ楽しく笑っていても、たぶんディランは足りないと思ってるの。ジョウイじゃなきゃだめなのかなって最初は思ってたんだけど、だけどそうじゃないんだよね」
 困ったようにナナミが片手で前髪をかきあげる。
「私もディランも、親がいないでしょ。それでもね、私には少しだけお母さんとかお父さんの記憶があるんだけど、ディランにはそれが全然ないの。覚えてられないくらい小さい時に一人ぼっちになって、ゲンカクじいちゃんが引き取ってくれたから。だからね、ディランは……無償の愛情ってものをすごく欲しがってるの」
「無償の愛情?」
「うん、上手く言えないんだけど……血の繋がった親だと黙っていても愛してくれるでしょ?もちろん、親だから絶対ってこともないし、血が繋がらなくたって同じくらいの…ううん、それ以上の愛情だって相手にあげることはできるんだって、私はそう思うんだけどね、でもディランはそうは思ってないの。この世には何かの代償としての愛情しかないんだって思ってる。だから、もういい、もういらないってくらいの無償の愛情を、一度でいいから欲しいって思ってるんだと思う」
「………」
「私は、ディランに気づいて欲しいと思ってる。血の繋がりが大切なんじゃないってことに。前にシュウさんが言ってたみたいに…大切なのは一つだけじゃないってことに。私が死んだら、ディランは気づくんじゃないかな」
 最後のつぶやきは小さかった。
「……上手く言えないけど、ディランはきっと……きっとすごく泣くと思うんだ……ううん、泣いて欲しいって、私が思ってるんだ。ずるいよね、ひどいことしてるよね」
 ナナミはそう言って、くしゃりと笑った。そうやって泣いて、本当に大切なものが何なのかを知ることが彼には必要なのだ。そして、それを振り切って最後まで戦う強さを彼は手にしなくてはいけない。今の彼にはそれが必要なのだ、とナナミは言う。
 ずいぶんと自分勝手なお願いだけど、シュウさんにしか頼めない、とナナミは言った。
 うつむくナナミの肩を、そっとホウアンが労わるように抱き寄せた。
「大丈夫ですよ、ディランさんの哀しみは、私たちがちゃんと受け止めます。だから心配しなくていいんですよ」
 ぽんぽんと小さい子供をあやすように背を叩かれ、ナナミはうなづいた。

(無償の愛情……?)

 無償の愛情とはいったいどういうものだろう、とシュウは思った。
 人が何か得ようとした時、必ずそこには代償が伴うものではないのか。与えることなく、ただ与えられることだけを望むのは愚かなことだ。
 彼は本当にそんなことを求めてるのだろうか、と考えたところで、シュウはひどく混乱した。
 何かが強烈な違和感としてシュウの心に重く沈み込み、その先を考えることができなくなったのだ。そして気づいた。

(そうじゃない…彼は……)








「…っ…」
 胸元で聞こえた嗚咽に、シュウは我に戻った。
 しっとりと衣服を濡らす涙の暖かさに胸が痛んだ。それは彼に真実を告げることのできないことへの自責の念なのだろうか。
 ナナミの「ディランは泣くから」と言った言葉には、正直半信半疑だった。
 それは当たり前のことのようにも思えたし、まったく予想外のことにも思えた。いつも大人びた表情で、物事を冷静に見ているディラン。
 冷たい人間だと思ったことはなかったけれど、歳に似合わぬ醒めた考え方や、シニカルな物言いや、そんな目に見えている彼の姿が本当の彼だと思っていた。
 けれどそれは…彼の精一杯の強がりだったのだろうか?
 時折見せる照れたような笑みや、思いもかけない優しい仕草、そして、駄々をこねるように責任を押し付けるなと叫び、こうしてナナミを思い涙を流す彼。
 今、自分の胸で涙を流す彼が本当の彼なのだとしたら……

(俺は……何も見抜けていなかったのか……?)

 一体今まで、彼の何を見てきたのだろうか。
 誰よりも彼のことを知っているつもりでいた。優しげな彼の顔に、周りの人間こそが騙されていると、そんな風に思っていた。
 けれど、それこそがシュウの勝手な思い込みだったのだとしたら……
「……っ」
 シュウはそっと腕を上げ、痩せた身体をゆっくりと抱き締めるようにして、ディランの背中に回した。
 何も分かってなどいなかった。
 彼が、こんな風に涙を流すことのできる人間なのだと。
 今になって初めて、シュウは自分の怒りの理由を知った。
 彼にはどこまでも盟主として、悠然としていて欲しかったのだ。
 たとえ冷たい人間だと思われようと、涙など見せずに、彼にはいつものように戦いの場に立ってほしかったのだ。
 ジョウイだけでいいと言い捨て、いっそ呆れるほどに利己的な彼でいてほしかった。
 それが、シュウが望む『ディラン』という人間の姿だった。
 シュウ自身が勝手にディランに押し付けていた希望と理想。ただ自分の望むものだけを彼の中に見出そうとしていたエゴイスティックなその考えに、シュウはどうしようもなく怒りを感じたのだ。
 シュウにとって、彼は特別な存在だった。
 彼には他の誰とも違う、特別な存在として、そこに在って欲しかったのだ。

(愚かな……)

 自分は、いったい彼に何を求めようとしていたのだろうか。
 何を押し付けようとしていたのだろうか。

(仲がいいんじゃなくて……)

 先ほどビクトールが去り際にシュウに言った言葉が脳裏をかすめる。

(仲がいいんじゃなくて、お前ならディランのことを理解ってるからなぁ……)

 だから、ディランのことをよろしく頼むぜ、といって去っていたビクトール。
 やはりビクトールの人の見る目は頼りにならないと、シュウは自嘲する。
 そうじゃない。
 自分は彼のことなど何一つ分かっていなかったのだ。
 分かろうとさえしていなかった……。
 シュウの胸にその顔を埋めていたディランは、やがてゆっくりと顔を上げた。そこはもう涙はなかった。まるで、それまでのことを嘘だったように、彼はもういつもの彼だった。
「……ルルノイエへの進攻の準備をしよう」
 つぶやいたディランが横たわったままのシュウに視線を落とす。
 恐いほどに感情の抜け落ちたその表情からは、彼が何を考えているのは読み取れない。
「シュウさん、みんなを集めて。話をするよ」
「……承知しました」
 うん、と笑うディランはどこか遠い存在のような気がして、シュウはひやりとした。
 ほんの一瞬触れ合ったと思った心はまた離れてしまったのだろうか。
 自分は何か大きな間違いを犯してしまったのではないだろうか。
 何も見えていなかった。
 見ようとはしていなかった。
 
(もう遅いのだろうか……)

 彼のことを知りたい。本当の彼のことを知りたい。
 そう思うことは、確かに何かが始まる前兆だった。


 

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