LADY 自分の剣に大切な人の名前をつけるというのは、戦士の村の習慣みたいなものらしい。 フリックの剣は「オデッサ」という。 彼女の名はすでに伝説的な響きを持って、俺たちの間では受け継がれている。 だが、彼女がフリックの恋人だったことを知っている者は少ない。 それは、すでに彼女がこの世にはいないから。 そして、フリックが人前では決して彼女の名を口にすることがないからだ。 「ん?」 扉の閉まる小さな音に目が醒めた。 「あ、悪い。起こしたか?」 うっすらと目を開けるとそこにフリックがいた。ビクトールは腕を伸ばしてフリックの肩を引き寄せる。 「何だよ、寝てたんじゃないのか?」 「ああ…」 風呂上りのフリックの肌の匂いに、ビクトールはうっとりと目を瞑る。 フリックはビクトールの髪に小さくキスをすると、半分眠ったビクトールをベッドに横たえた。 「ずいぶん今夜は優しいじゃねぇか」 「人聞きの悪いことを言うな、俺はいつだって優しいだろ?」 フリックはおかしそうに笑う。そうだな、と言うと、ビクトールは再び眠りに引き込まれていった。 ――― 彼は優しい人だから ああ、そうだった。 オデッサ、あんたの言うことはいつも正しかったな。 初めてオデッサと二人きりで話したのは、ビクトールが解放軍に参加するようになって1週間目のことだった。隠れ家のような本拠地の入り口で、滅多に吸わないタバコをふかしていたら、そこにオデッサがやってきたのだ。 「あら、ビクトール、みんなと飲んでたんじゃないの?」 「ああ…」 歯切れの悪い返事に、オデッサは少し微笑むとそのままビクトールの隣に腰をおろした。 「どうかした?」 「いや。俺がいると誰かさんの機嫌が悪いもんでな」 「フリックね…仕方のない人ね…」 オデッサは小さくため息をついた。 ビクトールは肩をすくめるとタバコを地面に落として靴のかかとで踏み潰した。 「ごめんなさいね。彼も悪気はないんだけど」 「そう願いたいもんだな。あれで悪気があったらたまったもんじゃねぇ」 ビクトールを解放軍に誘ったのはオデッサだ。どこの誰かも分からない人間を解放軍に入れることを最後まで反対したのはフリックだった。それでも結局はオデッサの意見に他のみんなが賛成をし、こうしてメンバーとして加わっている。しかし、今でもフリックはビクトールのことを信用はしていないようで、ことあるごとに、ビクトールに突っかかるのだ。 ビクトールもまた、そんなフリックをおもしろがって必要以上に構うものだから、収拾がつかない。 「ねぇフリックのこと、怒ってる?」 「いや、まぁ逆の立場なら、俺だって同じようなことをしてるだろうさ。どこの馬の骨とも分からない人間を、そうそう簡単に信用はできねぇだろ、普通は」 ビクトールは持ってきていた酒を一口飲む。 「だからよ、あんたがどうして俺のことを簡単に解放軍に参加させる気になったのかが不思議でならねぇ」 「そう?だって、私にはわかったもの。あなたがとてもいい人だって」 「いい人ねぇ。そりゃどうかな。案外、簡単にあんたらを裏切るかもしれねぇぜ」 「それはないわ。私には分かるもの」 オデッサは静かに微笑むとビクトールの飲んでいた酒に手を伸ばして一口飲んだ。どうやらオデッサも相当酒は強いらしい。 彼女はもとは帝国の貴族の娘だ。名軍師マッシュ・シルバーバーグの妹で、レオン・シルバーバーグの姪だと聞いている。彼女は何不自由ない貴族の暮らしを全て捨てて、この解放軍を創設したのだ。見かけの優しさからでは図りきれない強さが彼女の中にはある。 「あなたは嘘はつけない人だわ。強くて、優しい。フリックも本当は分かっているのよ。ただ、それをすぐには受け入れられないだけ。私のことを心配してくれているだけなの。私が無鉄砲すぎるから、余計に心配性になってるのね」 「なるほど。だったらいいがな。俺もあいつに嫌われたくはない」 「どうして?」 「……どうしてって、そりゃ人から嫌われるのは嬉しいこっちゃない」 「フリックのことが好き?」 何気ないオデッサの言葉にビクトールはすぐには返事ができなかった。 初めてフリックを見た時、どういうわけか一目で気に入ってしまった。あの青い瞳に吸い込まれるような気がした。しばらく一緒にいると、なかなか腕のたつことも分かった。面倒見がよく、仲間からの信頼も厚い。少々不器用な所もあって、決して愛想がいいとは言えないが、まだ若いからそれも仕方がないことかもしれない。 とにかくフリックのことは気に入っていた。オデッサの噂を耳にして、実際に会って、その志と気性が気にいったことと、オデッサがビクトールのことを強く誘ったため、こうして解放軍に参加することになった。もっとも、誘われた時は、しばらくは飯の心配をしなくてもいいな、くらいにしか思っていなかったのだ。 けれど、フリックと出会い、彼のことがもっと知りたくなった。どういうわけか興味が湧いたのだ。 もっともフリックの方ではビクトールのことなど、頭から信用していないだろうが。 「好きっていうか…まぁそうだな。嫌いじゃねぇよ。嫌う理由もないしな」 「そ。良かった。仲良くしてほしいのよ。彼とは」 「どうしてだ?俺みたいな男、あいつとは正反対だろうが」 「あら気づいてないのね。あなたとフリック、とても似てるのよ?」 くすくすとオデッサが笑う。 似てる?ビクトールは自分の耳がおかしくなったのかと思った。 どう考えても自分とフリックは似てるところなんてない。体格も、性格も、考え方だってまったく逆と言ってもいい。 「似てるから反発しちゃうのかもしれないわね。あなたもフリックも自分のことよりも相手のことを先ず考えてしまう人。辛いことも悲しいことも全部自分の中で貯めてしまって、決して表には出さない。人の痛みを嫌ってほど知ってるから、だから他人に対して優しくできるのかしら?」 「ずいぶん買いかぶってくれたもんだな。聞いてて痒くなっちまうぜ」 ビクトールはわざとふざけて言う。こんな風に誰かから自分のことを分析されたことなんてない。おまけにずいぶん良く言ってもらっている。自分のことは別として、オデッサの言うことはまんざら的外れでもないのだろう。確かにフリックを見てるとそんな感じはするのだ。 「ねぇビクトール」 「あん、何だ?」 「もし私に何かあった時は、フリックのことお願いね」 「……縁起でもねぇこと言うもんじゃねぇよ」 ビクトールは心底嫌そうな顔をした。 「死ぬつもりなんてないけど、だけど大きな戦いになるわ。何があってもおかしくない。私はね、解放軍を作った時に、それまで持っていたものはすべて捨てたわ。何も持ってなかったから失うものもなかった。だけど、フリックと出会って、私にはまた失いたくないものができてしまった」 「………」 「彼は優しい人だから、だから心配なの。私は彼にいつも支えてもらってる。私は彼の優しさにどれだけ救われたか分からない。だから私にもしものことがあった時、彼がどんな風になるか…心配なのはそれだけ。本当よ」 オデッサは真っ直ぐな瞳でビクトールを見る。ビクトールは何と言っていいか分からず戸惑っていた。 「お願いね、ビクトール」 「あ、ああ…だがなぁ、あいつは俺のことを嫌ってるからなぁ」 「ふふ、でもね、誓って言うけど、あなたとフリックはけっこうお似合いだと思うわ」 「お似合いってなぁ…あいつの恋人はあんただろぉが」 ビクトールが呆れたように言った時、ふいに目の前に影が落ちた。顔を上げると、そこには今まで噂していた張本人が立っていた。 「オデッサ、こんなところで何をしてるんだ」 「フリック…ちょっと風に当たってたのよ…もう戻るわ」 オデッサが立ち上がると、フリックはジロリとビクトールを睨んだ。 「お前一人が風邪を引くのはかまわないが、オデッサまで巻き込むな」 「お前、ほんとに可愛くないな」 ビクトールが眉をしかめたが、フリックはぜんぜん気にした風はなく、オデッサの肩を抱くとさっさと宿へと戻ってしまった。 残されたビクトールはやれやれと苦笑する。 あれで本当に相性がいいって言えるか?オデッサ。 けれど、ビクトールは知らなかったのだ。 フリックがやってきたのは、オデッサを迎えにきたわけではなく、自分のせいで酒盛りの場から出ていってしまったビクトールを心配して様子を見にきたということを。 それに気づいたのはオデッサだけだったが、そのことをビクトールに教える前に、彼女はこの世から姿を消すことになる。 ビクトールは暗闇の中で瞼を開けた。 「夢…か…?」 まるで今まで本当に話をしてきたかのような気がする。オデッサの声は今でも鮮明に覚えている。今まであの夜のことなんて思い出しもしなかったのに、こんな風に夢に出てくるなんて。疲れてるせいかな。ビクトールは軽く頭を振って、起き上がろうとしたが、右腕が重いことに気づいて顔を向けた。 ビクトールの傍らにフリックがいた。ビクトールの腕を枕代わりにぐっすり眠り込んでいる。その横顔に思わず微笑んでしまう。 オデッサの願い通り、彼女が亡くなったあと、ビクトールはずっとフリックのそばにいる。それが当たり前のようになっている。 そっとフリックの前髪に触れてみた。 自分だったらとてもフリックを残しては死ねないだろうと思う。 「なぁフリック…お前も同じように思ってくれてるか?」 ビクトールはつぶやいて、そっとフリックの額にキスをする。ぴくりとフリックが反応して目を開けた。 「ん…なに?」 「起こしちまったか?よぉ、今から一発やるか?」 「………寝ろ。俺は明日早いんだ」 フリックはビクトールに背を向けると顔が隠れるくらいに、ブランケットを引き上げてしまう。ビクトールはそんなフリックに身を寄せ、両腕を回して引き寄せる。 「しないぞ」 「分かってるって。お前のこと抱いてたいだけだ」 ビクトールがフリックの髪に鼻先を埋める。ぴたりと寄り添った身体の温かさに、フリックはまた深い眠りへと落ちていく。 離さない。 何があってもこの温もりだけは。 ビクトールは腕の中のフリックをきつく抱きしめ、目を閉じた。 |