ピーチ


「あ、ハンフリーさん」
 声をかけられ、ハンフリーは振り返った。
 


 ここ数日続いていた痛いくらいの日差しも今日はちょっと和らいでいた。といっても、じっとしていると汗ばむくらいの暑さに変わりはない。ハンフリーは自室の扉を開けると、マントを脱ぎ捨て、襟元を寛げた。締め切られていた部屋の中はさぞかしむっとしているだろうと覚悟をしていたのだが、どうやら侵入者がいるようで、中庭に面した窓はすべて開け放たれていた。
「………」
 奥にあるベッドへと近づくと、案の定そこではシーナが大の字になって寝ていた。
 やはり暑いのか、脱ぎ捨てられた上着が床の上に放り出されている。ハンフリーはそれを拾い上げると、イスの背にかけた。
 付き合い始めてから、シーナが自分の部屋で眠ったことなど数えるほどしかない。
 それが当然だと言わんばかりにハンフリーの部屋でくつろぐシーナは気まぐれな猫そのものだ。ふらりと外へ遊びに出て行っては、夜遅く帰ってきてベッドにもぐりこむ。時折誰のものか分からない香水の匂いをさせては、憎めない笑顔で「ヤキモチ焼く?」などと平気で聞く。
 無視すると擦り寄ってくるくせに、少しでも手を伸ばそうものなら凶悪な笑顔を見せて身を翻す。恋の駆け引きなんて、シーナにはお手のものだ。自分よりも16も年上の恋人を翻弄することを何の苦もなくやってのける。
 どちらかと言えば恋愛沙汰は苦手なハンフリーはそんなシーナに振り回されっぱなしだ。それでも手離せないのは何故だろう。切り離してしまえば、こんな理不尽な苦労をすることもないのに。
 ハンフリーは分かりきっている答えを認めるのが何となく癪で、思考を止めた。
 シーナはスースーと穏やかな寝息を立ててぐっすり眠っていて、ハンフリーがベッドに腰掛けても気づく様子がない。
 こいつは奇襲にあったら真っ先に死ぬな、とハンフリーはため息をつく。
 汗ばんだ前髪をかきあげてやると、シーナは小さく身じろいで目を開けた。さすがに触れられて目を覚まさないなんてことはないらしい。そこまで鈍感ではとてもじゃないが戦いには連れていけない。
「あ〜おかえり…早かったね」
 むにゃむにゃと目元を擦りながらシーナが身体を起こす。
「一日中寝てたのか?」
「ん〜だって昨夜帰ってきたの5時だったんだ」
「それは朝のか?」
「うん…」
 それは昨夜とは言わないのではないか?と言いたくなったがやめた。シーナの夜遊びは今に始まったことではない。
「それなに?」
 ハンフリーが手にしていた袋を目ざとく見つけてシーナが首を傾げる。
「ああ…さっきナナミからもらった」
「なになに?」
 ハンフリーの肩に手を置いて、袋の中を覗いてみる。
 中には綺麗なピンク色の桃が3つ。
「うわ、桃だ!俺大好きっ!!」
「食べ頃だそうだ。食べるか?」
「うんっ」
 まるで小さな子供のようにはしゃぐシーナに苦笑しつつ、ハンフリーは桃をテーブルに置く。見るからによく熟れた桃の甘い匂いが部屋中に満ちた。確か果物ナイフがどこかにあったはずだ。ハンフリーが机の引出しを探っている間にもシーナは桃を手にして満面の笑顔を浮かべる。
「いいよ、ハンフリー、ナイフなんてなくても」
「皮ごと食う気じゃないだろうな」
「そんなことするかよ」
 シーナはけらけらと笑うと、手にしていた桃を素手で剥きはじめた。柔らかい桃の皮はちょっと爪を立てれば簡単に剥ける。
 やがて熟れた桃の柔らかな果実が手の中で姿を現した。
「美味そう〜」
 舌なめずりをして、シーナは桃にかぶりつく。
 ぐちゅりと口の中で蕩ける桃の果実はまさに食べ頃で、たっぷりと蜜を含んでいた。口の中で広がる桃の味。蕩けた果実は噛まなくてもそのまま喉の奥へと流れていく。唇の端から零れた桃の汁が顎を伝い喉元を流れる。唇の周りの蜜を舌で舐めとり、シーナは満足そうに微笑んだ。
「美味しい!すっごく甘い」
「シーナ、汚い食べ方をするな」
 半分呆れ顔でハンフリーがタオルを放り投げる。
「ばっかだな、果物なんて上品に食べると美味さが半減するんだぜ?」
「根拠のない話だな」
「何ごとも自然のままがいいってこと」
 ちゅっと音を立てて桃の汁を吸い上げる。
 柔らかい果肉を口の中で十分に味わう。
 ハンフリーは桃を一つ手に取ると、シーナの真似をして手で皮を剥いた。
 とろりとした実が指の間から落ちていきそうな気がして慌てて口をつける。
 シーナの言う通り、それはとても甘く口の中で溶けた。
「美味いだろ?」
「ああ」
 ぽたっと桃の蜜がシーナの細い腕を滴り落ち、肘のあたりを濡らした。それを舌で舐めとる様子は猫のそれを見ているようだ。
 シーナはこう見えてもトラン共和国の大統領の一人息子だ。それなりの教育をされているはずなのに、どうしてこう野生児のようなことばかりするのだろう、とハンフリーは首を傾げる。
「桃のシャーベットとかも美味しいんだよなぁ。あと桃プリンとか」
 どうやらシーナは相当桃が好きなようで、あれこれと好きなものを言い募る。甘いものが苦手なハンフリーとしては言われたものの半分も分からない。それでも適当に相槌を打つ。
「甘いものばかり食べてると太るぞ」
「平気平気、まだ育ち盛りだもんね〜。それに、あんた言ってたじゃん、もうちょっと肉つけた方がいいって。あんまり痩せてると抱き心地悪いだろ?この前そう言ったよな?」
「………」
「でも、そういうあんたこそ、そろそろ中年太りを心配した方がいいぜぇ。だいたいさ、あんた重たいんだよ。脂肪よりも筋肉の方がうんと重いのは知ってるけど、上に乗られる方の身にもなって欲しいよ。ただ乗られてるだけならいいけどさ、脚は思い切り開かされてるし?容赦なくがんがん動かされるしさぁ、時々痛くて泣けてくるんだからな」
 シーナは臆面もなくセックスの最中の文句を口にする。
 あからさまな話題に、渋い顔で黙り込んだハンフリーをからかうようにシーナはにっと笑うと、身を乗り出してさらに続けた。
「これ以上あんたが太ったら、痩せるまでセックスはしないからな。俺とえっちしたかったら、健康管理をちゃんとして、太んないでよね」
「………シーナ」
「なに?」
「じゃ、お前が上になれ」
「へ?」
 大きく目を見開くシーナに、ハンフリーはにこりともせずに続ける。
「お前の言い分はよく分かった。今夜からお前は上になれ。それなら重くはないから文句はないだろう?お前の体重くらい、俺は何ともないからな」
「………き、騎乗位オンリーかよ。それもあんまりだと思うけど」
 シーナはどさりとイスにもたれて、むぅと唇を尖らせた。
 やりこめるつもりが逆襲されてしまい、何とも納得いかない気分だった。
 ハンフリーはそんなシーナに小さく笑うと、残った桃の一つを手に取った。
「食べるか?」
「食べる」
 ハンフリーは先ほどと同じように皮を剥くと、ぱたぱたと蜜を滴らせながらシーナに手渡す。受け取ったシーナは
「半分こしよう」
 と立ち上がり、ハンフリーの膝の上に座った。ハンフリーの目の前で桃の実を半分もぎ取ると、片方を自分の口へ、もう片方をハンフリーの口へと放り込む。何とも幸せそうに桃を食べている姿を見ていると、ハンフリーの方まで優しい気持ちになる。
「……ん〜美味しかった♪」
「……良かったな」
 桃くらいでこんなに幸せそうな顔をされると、まだまだ子供だな、と思う。
 けれど、そんな子供みたいな素直さに、ハンフリーは心魅かれるのだ。
 恐らくシーナはいくつになっても嬉しいと思ったことや、悲しいと思ったことを素直に言葉にして態度で表すのだろう。
 嬉しい時には笑い、悲しい時には泣く。腹が立てば怒り、反省した時は素直に謝る。
 そんな当たり前のことを、人はなかなか簡単にはできない。けれどシーナはそれができる。
 何の駆け引きも必要ない。シーナには何も隠す必要はないのだ。
 それがハンフリーの心をとても楽にする。とても穏やかな気持ちにする。
「ね、甘いものばっか食べて、俺が太ったらどうするの?それでも上に乗せてくれる?」
 悪戯っぽい瞳で尋ねたシーナに、ハンフリーが苦笑する。
「……そうなったら、痩せるまでセックスはなしだ」
 あっさりと言い捨てるハンフリーにシーナが思い切りブーイングをする。
「うわ〜ひどい。っていうかさ!絶対あんたの方が我慢できなくなると思うんだけどな〜。あ、じゃあ、どっちも下にならない体位を考えよう!うん、俺ってあったまいい!!」
「…シーナ」
 呆れ顔のハンフリーにシーナはくすくす笑う。
「今からでもOKだけど?」
 ちゅっとハンフリーを誘うように唇にキスをするシーナ。
 そのまま両腕をハンフリーの首に回し、ぺロリと舌で唇を舐める。
 触れ合ったお互いの舌は甘い桃の味がした。
 とりあえず、太るまでの間はいろんなことして楽しもう、と囁いたシーナの身体をハンフリーはすくい上げベッドへと向かった。



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