接吻の理由 遠く皇国にいる友のことを誰よりも愛しているくせに、彼は簡単に他の人間に口づけることができるのだ。 静かな部屋にさらさらとしたペンの音だけが響いていた。 シュウは昼間のうちに提出されてきた報告書をすべてチェックし終えると、アップルから出された次回の戦略に関する調査書に手を伸ばした。しかし、そこでふと気づいて顔を上げる。 部屋の中央に置かれたソファに身を沈めていたディランが、いつからかじっとこちらを見ていたことに気づいたのだ。 「……何か用か?」 「仕事熱心だなーって思ってさ」 「まず私が決めなければいけないことが多いからな。その代り、決めたあとは貴方たちの仕事だ」 「うん……そうだね」 うーんと伸びをして、ディランが身を起こす。 何時からか、その日の仕事が終わるとディランはシュウの部屋を訪れるようになった。最初の頃こそ、用も無いのにやってくるディランに眉をひそめていたシュウだが、最近ではそれが当たり前になっていて、そこにいても存在を忘れてしまうことすらある。 「シュウさん、仕事はそれくらいにしたら?もう遅いよ」 言われて机の上に置いたままにしていた懐中時計を見ると、なるほどもう深夜といってもおかしくない時間だった。 今日中に仕上げてしまおうと思っていたが、別段急ぐこともないかと思い直して、シュウは書類を片付けた。静かに席を立ち、ディランが横になるソファの前で足を止める 「……部屋に戻ったらいかがです。明日早いのでしょう?」 明日は確かビクトールたちと一緒にクスクスの街まで行くと言っていた。いつまでもこんなところで時間を潰している理由はないはずだ。 「ディラン殿」 いつまでたっても動こうとしないディランに、シュウが厳しく声をかける。同盟軍の誰もが思わず緊張してしまうというシュウの一声に、ディランはまったく動じることがない。 「うーん、まだ眠くないんだ」 「では、お好きに。私は休ませてもらいます」 「シュウ」 「……っ」 立ち去ろうとしたシュウの手首を、素早くディランが掴んだ。その手を支えに、ディランが身を起こして立ち上がる。 怒っているのか、と思うような目でディランがシュウを見つめた。 その突然の視線に動けなくなる。 自分よりも遥かに年下のこの少年は、時々こんな風に自分を圧倒する視線を向けることがある。 その視線が何を意味するのか、もう分からないシュウではなかった。あの日、初めて口づけを交わしてから、二人の間の何かが少しづつ変わり始めたのだ。 あの時、これ以上近づいてはいけないと頭の中で警鐘が鳴った。 そしてそれは今も鳴り続けている。けれど、いったい何に対しての警鐘なのだろうか。 「どうしてそんな顔してるの?」 シュウの心の内を見透かしたように薄く笑い、ディランがそっとシュウの腕に触れる。何かを確かめるようにゆっくりと肩へと移り、そのままさらりとした髪の先に触れた。 自分はいったいどんな顔をしているのだろう、とシュウはぼんやりと思う。自分でも分からない。ディランの前で、もう自分を装うことが困難になってきているのだ。 「そんな顔されたら、何もできないじゃん……」 「なら、何もする必要はない」 憮然と言い返したシュウに、ディランはぷっと吹き出した。 「そりゃまぁ、そうなんだけどさ……」 くすくすと笑いながら、ディランはシュウの肩を引き寄せて、とんとその上に額を乗せた。 「シュウ……」 小さな声で、ディランが囁く。 耳元で続けられた言葉に、シュウは唇を噛んだ。 ぱさっと白いシーツの上にシュウの黒髪が広がる。しっとりとしたその髪を片手で掬い上げて、ディランがそっと唇を寄せた。指の間を零れ落ち、頬にかかった黒髪を乱暴に払いのけると、ディランはシュウの頬に手を添えて、黒い瞳を覗き込んだ。 「まだいろいろ考えてるね」 「………」 「仕事の続き?それとも別のこと?」 「………」 「とりあえず、今はどっちのことも考えないで……」 何か言い返そうとしたシュウの唇はディランのそれで塞がれた。 かさついた唇を濡らして、きつく閉ざされた合わせ目を解き、熱い舌先が滑り込んでくる。 逃げるシュウの舌を追いかけるようにして口づけを深め、やがてディランの指が着衣にかかった。 その手を押し止めると、何かに焦れたかのように、きつく舌を吸い上げられた。 「……ふ……っ……」 息苦しさに顔を背けると、口づけは解かれ、代わりにその顎に唇が触れる。そのままなぞるように首筋へと辿る唇を、シュウはやんわりと押し退けた。 「そういえば……」 拒まれたことには何も言わず、ディランが何かを思い出したようにつぶやいた。 「初めてキスした時、シュウが意外とキスに慣れてて驚いた。まぁ初めてだとは思ってなかったけど、すごく上手だったからびっくりした」 いったい何を言い出すんだ、とシュウは内心むっとした。 「お前は、俺をいくつだと思ってるんだ」 「二十六。たぶん今までにもいっぱいキスしてきてて、きっと俺なんかよりもいろんな経験してるんだろうけど……」 けど何だ、とシュウが睨みつけると、ディランがにっと笑う。 「けど、シュウは本当に好きな人とするキスは数えるほどしかしてない」 「……っ」 「そして俺とするキスが、シュウにとっての一番のキスに違いない」 自信たっぷりに言い切って、ディランが笑う。 屈託のない、幼い笑顔を見せて、けれど彼が言う言葉は、どれもシュウをひどく混乱させる。 (好きだよ、シュウ……) そう言って、彼はシュウに口づける。 初めての時もそれからも、必ず彼はそう言って口づけを求めてくる。恋人同士であれば、それはただの甘い睦言なのだろうと思う。 けれどディランの紡ぐそれは、どこか後ろめたさを滲ませているからシュウを困惑させる。 ディラン自身、気づいていないのかもしれない。 「好き」という言葉を使うことで、彼はシュウに口づけることへの許しを求めているのだ。 彼には何よりも、誰よりも大切に想っている人がいる。 ディランがこの世で唯一、愛情と呼べる感情を注ぐことのできる人間は、今は遠く皇国にいる友だけなのだ。 それならば、どうしてこんなことをしているのだろう。 「好き」などという言葉をまで使って、ディランはどうして自分に口づけたりするのだろう。 本当に口づけたい相手は自分ではないだろう、それなのに何故? 「すごく不満そうだね。何か言いたいことがあったら言ってよ」 ディランがシュウの手を取り、その指先に口づける。掌に、手の甲に、そしてシャツの隙間から見えた手首に。浮き上がった血管に舌を這わされ、シュウはその生々しい感触に身を震わせた。 「俺には…分からん……」 「何が?」 「どうしてお前がこんなことをするのか……いったいこんなことに何の意味があるのか……」 分からないことはまだある。 どうしてこんな風に口づけられることを許しているのか。 押し倒されて、触れられて、嫌だと言って突き離すことだってできるのに、どうして甘んじてそれを許しているのか。 「意味がなきゃだめなのかな?」 ディランの声に、シュウはゆっくりと視線を上げた。そこにいるのは同盟軍の盟主たる少年ではなかった。どこか見知らぬ表情をした一人の大人びた少年に、シュウは正直逃げ出したい衝動に駆られた。自ら逃げられない袋小路に迷い込んだような気がして、落ち着かない。これ以上はいけないと何かが告げる。 そんなシュウにディランが冷たく言い放つ。 「俺が、シュウとこうしたいって思うだけじゃあだめなのかな。その意味が、本当にシュウには分からないのかな?」 「よせ」 「知りたいなら教えてあげるけど……」 「よせ……っ」 シュウは思わず顔を両腕で覆った。 「シュウ……」 ディランがその腕をそっと掴み、覆い被さるようにして耳元に唇を寄せる。 「好きだよ、シュウ……それじゃあだめ?」 口づけちゃだめ?抱き締めちゃだめ?こうして貴方を抱くことはだめなことなの? 繰り返される言葉に耐え切れず、シュウは振り払うようにしてディランを押し退けた。 「お前は……っ…!」 シュウはそれまで堪えていた何かが堰を切って流れ出すのを感じた。 止められない。 もうこれ以上何も分からないままでいることはできない。 「お前は彼のことを愛していると言った。彼だけだと言った。それなのに、同じ口で俺を好きだと言うのか。彼への想いが薄れたわけでもないのに、それなのに……」 「……うん、俺はジョウイのことが好きだよ」 悪びれることなくディランが言う。 「困ったことに、こんなことになって、遠くに離れ…一応敵同士って立場になってるっていうのに全然嫌いになったりできないんだよね。今でも会いたくてここが……」 そう言って、ディランが胸の辺りをぎゅっと掴む。 「痛くて……ほんとまいっちゃうんだけどさ……」 「だから俺を彼の代わりにするつもりか?満たされない思いを、こんなことで誤魔化すつもりなのか」 「まさか」 違う違うとディランが笑う。 「誰もジョウイの代わりにはなれないよ。シュウが、誰の代わりにもなれないようにね」 「………」 「ジョウイのことを好きなのと、シュウのことを好きなのはまったく別のことだよ。代わりなんかじゃない、誤魔化すつもりもない、俺はね、シュウのことが好きなんだ。だから触れたいと思うし、口づけたいと思うし、抱きたいと思うんだよ」 「……っ」 ああ、とシュウは絶望的な気持ちになる。 どこまでも自分勝手で我侭なディランの言葉に、それでも自分は怒ることもできず、拒むこともできない。 ではどちらが好きなのか言ってみろと言えば、彼は何と答えるのだろう。 どちらか一方だけを選べと言えば、彼はどちらの手を取るのだろう。 考えたくなかった。 考えたくない理由をも考えたくない。 それを知れば、シュウにはもう逃げ場がなくなる。 「シュウ」 ディランが強い力でシュウの手首を掴み、隠していた表情を晒した。 抵抗することなくされるがままになっているシュウに、ディランは再び口づける。ゆっくりと味わうように舌を絡め、何度も角度を変えて深くなる口づけに、シュウはもう何も考えられなくなった。 身につけていた衣服が脱がされ、冷たい指先が肌を這う感触をぼんやりと追いかける。 互いに言葉はなく、ただ密やかな息遣いだけが部屋に響いていた。 濃密な空気や圧し掛かるディランの重みが息苦しくて、シュウは無意識のうちに小さく喘いだ。 (好きだよ、シュウ) 分かっていた。本当は初めから分かっていたのだ。 ディランの言葉に嘘はない。 シュウを好きだという言葉はどこまでも真実だ。けれど、それはやはり子供っぽい独占欲なのだ。 (意味がなきゃだめなのかな?) 少なくとも自分にはそれが必要だった。 不条理な衝動に突き動かされ、この身を開くには、納得できる意味と理由が必要だった。 けれどそれは「彼の理由」ではなく「自分の理由」だったのだ。 「シュウ……っ……」 切羽詰ったようなディランの声に、シュウは目を閉じて彼を受け入れるために身体を開いた。抱き寄せられ、首筋に吐息を感じ、きつく手足を戒められ、泣きたくなるほどの切なさに胸を焦がす。 決して届かない想いなら、気づかないでいたかった。 いつか離れていく温もりなら、手にしたくはなかった。 (その意味が、本当にシュウには分からないのかな) ゆるやかに身の内を満たしていく熱に、もう自分の気持ちを知らないふりをすることは無駄なことだとシュウは知る。 好きだと言われることが心地良いと感じたのはいつからだろうか。 求められることに喜悦したのはいつからだろうか。 彼を好きだと自覚したのはいつからだろうか。 もう遅い。 もう戻る術は無くしてしまった。 「好きだよ…シュウ……」 深く身を繋げたまま、ディランがつぶやいた。 落ちてくる口づけに自ら唇を開く。 遠く皇国にいる友のことを誰よりも愛しているくせに、彼は簡単に他の人間に口づけることができるのだ。 そしてそんな彼のことを、自分は愛してしまったのだ。 |