TIME だんだんだんだんっと激しく扉を叩く音にフリックは飛び起きた。 急に身体を起こしたので、ズキズキと頭が痛んだが、枕もとの時計を見て、フリックは慌ててベッドから抜け出した。椅子の背にかけていたシャツを羽織り、扉の鍵を開ける。 扉が開いたとたん、甲高い声がフリックを怒鳴りつけた。 「フリック!!!遅いっ!!いつまで待たせるつもりだよっ」 厳しい叱責の声に、フリックはすまんと小さくつぶやいた。 扉の向こうにいるのは、年齢にしてまだ10歳。 背丈はフリックの半分にも満たない子供である。 青雷の異名をとる男に容赦なく怒鳴るなど、軍師のシュウでさえも滅多にすることはないというのに、この子供は何の躊躇もなくやってのけるのだ。 まだ寝ぼけた顔のフリックに、子供…レイは信じられないというような表情を浮かべた。 「フリック、約束したよな、今日、9時に練習場でって!!!」 「ああ、約束した……」 「今何時だと思ってんだよっ!!」 10時である。 しまった、とフリックは返す言葉もなくうなだれる。 「すまん……うっかり寝過ごした…」 「ったくよー。さっさと用意して来いよなっ、待ってるからなっ!」 そう言い捨てると、レイはばたばたと廊下を走り、約束していた練習場へと姿を消した。 細く溜息をついて扉を閉めると、フリックは脱ぎ散らかしていた服を慌しく身につけ始めた。 「どうした?フリック」 ベッドの中からのんびりとした声が聞こえる。 「……寝過ごした」 「って、今日は休みだろうがよ」 ふぁー、と大きく欠伸をして、ビクトールはフリックを眺めた。 すらりとした長い手足。引き締まった身体。惜しげもなく裸体を曝しているその姿は、その肌触りを知っている者としては、何とも贅沢な眺めである。 バタバタと身支度を整えていくフリックを、ビクトールは舌なめずりでもしそうな面持ちで眺め回していた。だが、そんな視線に気づかないほどに、フリックは慌てていた。 気づいていたら、ただでは済ませないところである。 「おい、俺のバンダナ知らないか?」 きょろきょろと部屋の中を見渡し、フリックが机の下を覗いたり、散らばった衣服をひっくり返していく。 ビクトールはその問いかけにニヤっと笑うと、ごそごそと枕もとから青いバンダナを取り出して、フリックに向けて振ってみせた。 「おいおい、忘れたのか?昨夜、使っただろ?」 「………っ!!!」 とたんに真っ赤になったフリックが、乱暴にビクトールの手からバンダナを奪い返す。 「くそっ」 フリックは舌打ちしてビクトールに背を向け、慣れた手つきでバンダナを結んだ。 何気ない風を装って、しかし昨夜のベッドの中でのことが脳裏に甦り、フリックは死にたいほどの羞恥心で鼓動が高鳴っていた。 言うまでもなく、原因はこの男だ。 今日は二人とも戦闘に出なくてもいいと分かっていたので、昨夜は遅くまで酒を飲んで、その勢いで肌を合わせた。 それはいい。よくあることだ。 だが、あんなこと……。 バンダナをあんなことに使うなんて一生の不覚だ。言い出したビクトールもビクトールだが、それを受け入れてしまった自分も自分だ。まったくどうかしている。 黙り込んだフリックに追い討ちをかけるように、ビクトールがニヤリと笑った。 「なかなか刺激的だったろ?ん?」 そう言って、フリックの背中をつっと指でなぞる。 嫌味ったらしいくらいに自信たっぷりの台詞。 確かに刺激的ではあった。あったが……。 「………それ以上言ったら…」 「言ったら?」 「………」 フリックはきつい眼差しでビクトールを睨んでいたが、はっと我に返った。 「いかん、急がないとまたレイに怒鳴られる」 「せっかくの休日だってのに、ガキの剣の稽古の相手とはご苦労なこった」 どこかからかうように、ビクトールが低く笑う。 「仕方ないだろう。約束したんだから。お前も一緒に行くか?」 「いや、俺はレイに嫌われてるからな、遠慮しておくぜ」 そんなことはないだろう、とフリックが笑う。 だいたい、フリックよりもビクトールの方が子供たちから慕われているのだ。この城の中でビクトールのことを嫌いだなんていう子供はいないはずだ。 確かにレイはどちらかというとフリックに懐いているが、ビクトールのことを嫌いなはずはない。 「だが、レイはお前にべったりだからなぁ」 浮気すんなよ、とつぶやくビクトールにフリックは吹きだした。 10歳の子供相手に、いったい何を心配してるのやら。 「行ってくる」 青いマントを翻して、フリックは部屋をあとにした。 一人残されたビクトールはフリックの温もりの残るベッドに再び顔を埋めた。 「相変わらず鈍いヤツ」 そこがフリックのいいところだけれど。 思わず顔をニヤけさせながら、ビクトールはとろとろと眠りに引きずり込まれていった。 1ヶ月ほど前、同盟軍の本拠地に流れついた民。 王国軍に村を滅ぼされ、命からがらに同盟軍に助けを求めてきた数十人の村人を、リーダーのディランは何も言わずに受け入れた。同盟軍も決して資金的に潤っているわけではない。それでも、助けを求める人間を見捨てることなどできない。受け入れることを反対する者などいなかった。 レイはその中にいた子供だった。 明るい性格で、すぐに城の子供たちとも仲良くなった。 同じ年頃の子よりも痩せた身体。けれど、気の強さだけは誰にも負けていなかった。 城内にある練習場をしょっちゅう覗きにきていたレイは、どういうわけかフリックに懐いた。 青雷の名はレイのいた地にも届いていたらしい。最初は憧れのヒーローでも見るかのように、フリックに接していたレイだったが、そのうち対等に口をきくようになった。 どうやらフリックが噂よりもずっと親しみやすく、子供っぽい一面があると見抜いたようである。 レイはフリックに剣の稽古を見てほしいと頼み、フリックもそれを受け入れた。 強くなりたい、とレイは言った。 残酷な殺戮を目の当たりにし、生まれ育った村を滅ぼされ、心に深く傷を負いながらも、レイはいつか王国軍と戦えるだけの力が欲しいと言った。 いつもなら子供に剣を教えるなんてことを引き受けたりはしないフリックが、レイの頼みをきいたのは、レイが幼いながらも、いい腕をしていたからだ。 そして、復讐という名のもとに無闇に剣を振るうような人間になってほしくないと思ったからだ。 「レイは将来いい戦士になる」 最初は子供に剣を教えるのは難しいと思っていたフリックだが、乾いた砂が水を吸い込む勢いで上達していくレイに、だんだんと教えることが楽しくなってきていた。 もちろん、教えなければいけないことは技術だけではない。 やがてこの城を旅立つであろうレイに、短い時間でどこまで教えてやれるかは分からなかったが、できる限りのことは教えてやろうと決めたのだ。 今日も約束をしていたのだがすっかり寝過ごしてしまい、先ほどレイに怒鳴られたというわけだった。フリックが練習場へ着くと、レイは何人かの友達と剣の稽古をしていた。 「あ、フリック!!遅い、遅い〜」 「悪かった。何だ、今日はずいぶん人数が多いな」 「みんなフリックに教えてもらいたいんだって」 仕方がないな、とフリックは集まっていた子供たちを集め、本日の剣の稽古を始めることにした。 「なー、フリックてさ、あのビクトールとデキてんの?」 ぶはっとフリックは飲んでいた水を吹き出した。 二時間ほどの稽古が終わり、庭にある水場で汗に濡れた顔を洗っている時だった。 そろそろ昼食の時間ということもあって、他の子供たちはみな母親とともにレストランへと去っていった。残ったのはフリックとレイだけである。 ばしゃばしゃと顔を洗うフリックの横で、レイは今日の稽古でのことをいろいろと話していたのだ。 ふと会話が途切れたと思った次の瞬間、飛び出たのが先ほどの台詞である。 フリックはうつむいたまま、流れていく水を眺めていたが、やがてのろのろと顔を上げた。 「………何だって?」 聞き間違いであってくれとの願いも虚しく、レイはしれっとした顔で言った。 「だからさー、ビクトールってフリックの恋人?」 「…………」 フリックは何と答えたらいいか分からず、無言のまま水道の蛇口をひねった。 そうだ、とも違う、とも言えないではないか。 別にビクトールとの関係を否定するつもりもないけれど、かといって、こんな子供に堂々と恋人だ、と言えるほどフリックは豪胆ではない。 ビクトールならば平気な顔をしてそうだと言うだろうが…… たった今汗を流したばかりだというのに、また嫌な汗が流れてきたような気がして、フリックは頬を引きつらせた。何も言わないフリックにレイが足元の小石を蹴っ飛ばした。 「ちぇ、だんまりかよ、大人ってずるいよなー」 「………レイ、何でそんなことを聞く?」 「フリックって、ああいうのが好みなのかなーと思ってさ」 「ああいうの?」 「うん、筋肉馬鹿で、脳天気で、大酒飲みで、だらしなくて、ちょっと下品で……」 「ひどい言い様だな」 だが、当たってるなとフリックが笑う。 「女にモテて、子供に人気があって、………剣がめちゃくちゃ強い」 「…………」 レイがどこか悔しそうに唇を尖らせた。 俺はレイに嫌われてるからな、というビクトールの言葉をフリックは思い出した。 だが、やっぱり違うじゃないか、とフリックは苦笑する。 「お前、ビクトールに憧れてるのか?」 「なっ!!!!!何でそうなるんだよっ!!!」 レイが顔を真っ赤にして激怒する。 「何で俺があんな熊男に憧れなくちゃならないんだよっ!!馬鹿っ!!俺は!もっとスマートでカッコいい戦士になりたいんだよっ!!」 「まぁ、あそこまででかくならなくてもいいとは思うが、ウェイトはあった方が役に立つぜ」 「でもフリックはウェイトがなくても強いだろ」 「あー俺とあいつじゃ戦い方が違うからな」 「俺はフリックみたいになりたいんだよっ!」 飯にしようと、歩き出したフリックのあとを、レイが慌てて追いかけてくる。 「なぁ、何であんな熊男がいいんだよー」 「何でってなぁ……」 確かに、あの男のどこがいいのだろう、とフリックは首を傾げる。それでも、理屈ではない何かがある。それは口では説明できないものだし、説明して、誰かに理解してもらおうとも思わない。 自分にとってビクトールは…… 「だってさ、フリックてば、いつもいつもビクトールのこと怒ってばかりじゃないか。喧嘩ばかりしてるのに、どうして一緒にいるんだよ」 「どうしてかな……」 困ったように笑うフリックに、レイはちぇっと舌打ちする。 「俺の方がずっと強くなるぜ、なーそろそろモンスター狩りに連れてってくれよ、俺、けっこう強くなっただろ?」 「まだだめだ」 「何でだよっ!!」 レイがフリックの服の袖を引っ張る。フリックは足を止めて、そんなレイの頭に手を置いた。 「確かにお前は同じ年齢の子供たちに比べりゃ強い。それは認めよう。だがな、本当の戦いに出るにはまだ早い」 「何で?」 「……必要なのは剣の腕だけじゃないし、お前はまだ知らないことが多すぎる」 レイはフリックの意味するところが分からず、唇を尖らせる。 「…………フリックが初めて闘いに出たのっていくつン時だよ」 「俺は……いくつだったかな」 「あっ、誤魔化してる!!!!くそー、汚ねぇよっ!!」 ぎゃーぎゃーと怒り散らすレイに笑いながら、フリックはレストランの扉を開けた。 ちょうど昼時で中は混雑していたが、運良く二人は食事を終えたばかりの連中と入れ替わりに席につくことができた。 レイのために冷たいジュースを注文して、フリックはふぅと息をついた。 「なぁフリック」 「何だ?」 「フリックって、雷の紋章を宿してるんだよな、それってさ、大変?」 「扱いがか?そうだな……まぁ紋章は慣れて、コントロールできるようになるまでは大変だけど、慣れりゃどうってことはない」 「ふうん、俺もさ、宿せるかな?」 「うーん、紋章との相性があるから、紋章師にちゃんと調べてもらってからの方がいいだろうけどな。それに、もっと大人になってからじゃないとな」 「ちぇ、また子供扱いかよ………」 「レイ、そんなに急いで強くなろうとしても、一足飛びには強くはなれないぞ」 「うん……分かってる」 レイは上目遣いにフリックを見て小さくうなづくと、運ばれてばれてきたジュースを美味しそうに飲んで、お腹が空いたと定食を注文した。 「よぉ、稽古は終わったのか?」 レイの質問にフリックが答えるという形で楽しく食事をしていると、今起きたばかりという感じのビクトールが姿を現わした。 「…………っ!」 ビクトールは髪はぼさぼさ、頬には無精髭を生やし、服装も休みというせいかだらしなく、いつもに増して熊男という感じがする。戦場ではよく見る姿だけに、フリックは別に何とも思わないのだが、レイは見たとたん、わーっと喚いた。 「おっさん!もっとちゃんと身支度してから外へ出ろよっ!汚いだろっ」 「お前なぁ、いちいちうるせぇこと言うんじゃねぇよ。何が汚ねぇだ、ああ?」 どさりと、わざとレイの隣に腰をおろして、ビクトールは手伝いの女の子に定食の注文をする。レイはビクトールと触れ合わないように、少し身体をズラす。 「今まで寝てたのか?」 フリックの呆れたような声色に、ビクトールはまぁなと返事を返す。 「誰かさんがフリックを連れ出したおかげで、一人淋しくなぁ」 ニヤニヤと笑いながらビクトールがレイを見る。 そんなビクトールの足を、テーブルの下でフリックが思い切り蹴飛ばした。 「ところで、レイ、少しは腕は上がったのか?」 痛みに顔をしかめながらも、ビクトールがレイに声をかける。レイは迷惑そうな顔をしながらも、一応同盟軍きっての猛者であるビクトールには敬意を払って返事を返す。 「当然だろ、青雷のフリックに教えてもらってんだからな。そのうちあんただって追い抜いてみせるからな」 「ほぉ、そりゃ楽しみだ。そのうち俺も一度お相手願うかな」 どこか楽しそうにビクトールが笑い、手を伸ばしてフリックの皿からメインの唐揚げを摘み上げると、ぽいっと口の中に放り込んだ。いつものことなので、フリックも軽く眉をしかめるだけで何も言わない。慣れ親しんだ、そんな二人の様子に、レイは音を立てて立ち上がるとビクトールへと向き直った。 「ビクトール!!」 「んー?」 「俺、絶対にあんたよりも強くなるからなっ!」 「うん?」 「あんたよりも強くなる!あんたにフリックは絶対にやらないからな!!」 レイが顔を真っ赤にして宣言する。 思わずあんぐりと口を開いて、フリックがレイを見上げた。 「あんたみたいな男に、フリックはもったいない!!!フリックは俺が貰う!!」 突然の大告白に、さすがのビクトールもぎょっとしたようで、しかしすぐに我に返ると、これ以上ないというくらいに楽しそうに笑った。 「な、何がおかしいんだよっ!!!!」 「いやいや、そうか、フリックに惚れたか……確かにカッコいいからなぁ。何しろ青雷のフリックだしな。お前、見る目があるよ」 「ビクトール…」 フリックがじろりとビクトールを睨みつける。 「だがなぁ、レイ……」 そんなフリックの視線など全く無視して、ビクトールがのんびりと腕を組んだ姿勢でレイを見る。そして低い声でレイに釘を刺した。 「そうそう簡単にフリックをやるつもりはねぇぜ、こいつは俺のもんだしよ」 「………っ!!」 「奪えるもんなら奪ってみな」 ざまぁみろ、というようにフリックがレイの額をぴんと弾く。 おいおい、とフリックが慌ててビクトールを止めに入るが一足遅く、レイは怒り心頭といった表情でビクトールへと怒鳴った。 「絶対にお前にフリックはもったいないっ!!!絶対、絶対、負けないからなっ!!」 そんなレイに、ビクトールはいーっと舌を出してみせる。 ぐったりとフリックは脱力してイスの背に沈み込んだ。 「どういうつもりだっ!!」 部屋に戻るなり、フリックはビクトールを怒鳴りつけた。 「あんな子供相手に何本気で言い合ってるんだっ!!大人気ないと思わないのか?」 ビクトールはどさりとベッドに寝転がると、頭の後ろで手を組んで目を閉じる。 「おい!聞いてるのかっ!ビクトールっ!!」 「ああ、聞いてる聞いてる」 「まさか…お前、レイ相手にヤキモチ焼いてるなんてことはないだろうな」 「おいおい、俺はそこまでガキじゃねぇって」 喉の奥で低く笑い、ビクトールは半身を起こしてフリックを見る。 「ま、あれだな。レイがあんまり露骨に俺のことを敵視するからよ、ちょっとからかってみたくなっただけだ」 「………お前な……」 いい加減にしろよ、とフリックが舌打ちする。 こっち来いよ、とビクトールに呼ばれるがままに、フリックはベッドの端に腰を下ろして大きく溜息をついた。レイと同じレベルで言いあいをして何が楽しいんだ?もっとも、傍から見ていればビクトールがレイにちょっかいを出して、二人仲良くじゃれ合っているという風にしか見えないのだろう、レストラン中の連中はくすくす笑うだけで、冷やかすようなことはしなかった。おかげで余計な恥はかかなくてすんだのだが。 「女にも子供にもモテて、嬉しい悲鳴だねぇ」 ビクトールがニヤニヤ笑いながらフリックをからかう。 「……ふざけんな」 「でもよ、子供の純情舐めてると痛い目見るからなぁ」 ビクトールの言葉に、フリックわけが分からないというように眉をしかめた。 「別に……レイにしてみりゃ、ちょうどいいアニキでもできた気でいるだけだろう、お前が考えてるようなおかしな気持ちじゃない」 「どうだかな…10年たてば、レイは20歳で、お前は38か…まぁ年齢的にはおかしくはねぇよな」 十分おかしいだろうが、とフリックは思った。 まだぶつぶつと何やらつぶやいているビクトールに呆れつつ、フリックはぎしりと片手をシーツの上につくと、ゆっくりと上体を屈めた。 ビクトールがおや、というように片眉をあげる。 「ビクトール、もしレイが本気で俺を奪うつもりでいたとしても……」 「………」 「お前は……俺を手離すつもりなんてないだろう?」 違うのか?とフリックが試すような瞳でビクトールへと問い掛ける。 薄く浮かべた笑いはどこか楽しそうで。 ビクトールはにっと笑うとフリックの身体を強く引き寄せ、自らの身体の下へと抱き抱えた。 「言うじゃねぇか……ずいぶんな自信だな……」 「俺は……」 フリックが苦しそうにビクトールの胸元を押し返す。 「俺は……ひとつでいいんだ……」 たくさんはいらない。 それがどんなに綺麗で、優しいものだとしても。 好きだという言葉はたくさんはいらない。 たった一つでいい。 そして、それはもう手に入れた。 フリックはくすっと笑うと、ビクトールの瞳を覗き込む。 「……そんなことよりビクトール、せっかくの休日だ、他にやることがあるだろう?」 フリックが手を伸ばしてビクトールの頬をざらりと撫でた。めずらしいフリックからのお誘いに、ビクトールが嬉々として口づけようと顔を近づけた、そのとたん…… 「何ニヤけてんだよっ!!」 「うわっ!!」 フリックがビクトールの身体の下から抜け出し、手元の枕でばんっと顔をはたいた。 「いって……お前、何すんだっ」 「それはこっちの台詞だ。昼間っから変な気ぃ起こすな!休みの日にすることといえば洗濯だろうが!さっさとそこらに溜まってる汚れ物を集めろ。晴れてる間に干すぞ」 フリックが退いた退いたとベッドのシーツを剥がしていく。 「………何でそんなに所帯臭いんだ…お前……」 「何か言ったか?」 じろっとビクトールを睨みつけるフリック。 いや、何でもありません、としおらしく肩を落とし、ビクトールはフリックに言われるがままに床の上に山積みになっている洗濯物をまとめ出した。 それはビクトールとフリックがリーダーのお供で交易の旅から戻って来た夕方のことだった。 「フリックさん!!」 本拠地の門をくぐったとたん、留守番をしていたナナミが飛び出してきた。 「よぉ、どうした、血相変えて」 「あ、ビクトールさん……あのね、えっと、レイたちがいないの」 「いないって?」 フリックがどういうことだ、とナナミに先を促す。 「分からないの、昼過ぎた頃から、姿が見えなくて。レイと……ほら、いつもフリックさんが剣の稽古をみてあげてる子たちがみんないないの。もしかして城の外に遊びに行って、迷子になってるんじゃないかって……」 ナナミが心配そうにフリックたちを見る。 この辺りはさして強いモンスターは出ないが、かといって襲われれば命はない。まずいな、と二人は顔を見合わせる。 「探しに行くか……けど、いったいどこに行ったのか分からねぇんだろ?」 「そうだな……もう日が暮れる、無闇に探すわけにも……」 「フリックさん」 城の中から現われたカミューが城主であるディランに軽く会釈をして、困ったことになりました、と眉をしかめた。 「今、残っていた子供達から聞いたのですが、どうやらレイたちは日頃の稽古の腕を試したいと言っていたようですよ」 「試すって……まさかモンスター狩にいったんじゃねぇだろうな」 ビクトールが冗談じゃねぇぞ、とがしがし頭をかきむしる。 「………カミュー、こんな時間からすまないが、騎士団の連中に力を貸してもらうように言ってくれないか?人海戦術でいくしかないだろ。時間がない」 フリックの言葉にカミューが軽くうなづく。 「ご心配なく、もう赤騎士団の連中は捜索に出しました。マイクロトフが指揮しています」 「分かった、で、子供たちは何人だ?」 「5人だと」 「ビクトール」 フリックがざっと馬に跨り振り返る。 「行くぞ」 「了解」 ビクトールもまた馬に跨ると、心配そうにしているナナミに明るく笑ってみせた。 「安心しな、絶対に無事に連れ戻してくるからよ」 「うん………気をつけてね」 掛け声と共に二人は馬を走らせた。 ほんのちょっとの好奇心と、それからライバル心からだった。 つい最近手に入れたばかりの剣で、自分がどれくらい強くなったのかを試したかったのだ。そして、早くフリックに認めてもらえるような戦士になりたかった。ビクトールに負けないくらい強い戦士になりたかった。それには実践するのが一番だと思ったのだ。 「レイ……もう帰ろうよ」 すっかり日が暮れ、辺りはだんだん不気味な雰囲気を漂わせ始めていた。日中は何てことのないフィールドも、夜になるとひっそりと人影もなく、下手すると方向さえわからなくなる。まだ一人でろくに外で出たこともないような子供たちにとって、夜のフィールドは妙に恐ろしい場所に感じられた。 「恐いよ……」 「早く帰ろう」 モンスター狩をやろうと言い出したのはレイだった。そして、それについてきた子供たち。最初は意気揚揚としていた子供たちも、暗くなるにつれ心細くなってきたのだ。まだモンスターには遭遇していないものの、もし実際に現われたらと思うと、来なければ良かったと後悔をしてしまう。 「そうだな…もう帰ろう…」 さすがのレイも、これ以上ここにいてはまずいと思ったのか、素直に城へと戻るべく歩き出す。幸いなことに、方向感覚はしっかりしていたので、迷うことなく城へと向かった。 その時、背後でがさりと何か音がした。 びっくりして全員が飛び上がって振り返る。そこにいたのは、数匹のひいらぎこぞうだった。悲鳴を上げた子供がレイの背後に逃げ込む。 レイはぎゅっと剣を握り締めた。 ひいらぎこぞうは数は多くても決して強いモンスターじゃない。けれど、足がすくんだ。 初めて一人で多くの敵に対する恐怖はもちろんだったが、それよりも自分の後ろにいる友達の存在が重くのしかかった。 自分よりも弱い人間を守らなくてはいけないということ。 もし自分が倒れれば、他人もまた死んでしまうということ。その事実がレイにはとんでもなく恐ろしいことに思えて、急に泣き出したいほどの恐怖に剣を持つ手が震えた。 だけど逃げるわけにはいかない。逃げれば仲間は死んでしまう。 じりじりとひいらぎこぞうが様子を窺うように距離を縮めてくる。 「レイっ」 涙声で背後の子供が叫び、その声に弾かれたようにレイが剣を振りかざした時、ぐいっと思い切り腕を引っ張られた。後ろへ倒れそうになった身体を力強く抱きとめたのはビクトールだった。軽々とレイの身体を抱きかかえ、その場から遠ざけるように一歩後ろへと下がる。 レイの視界の端に、青いマントが翻った。 あ、っとレイが叫ぶより早く、フリックがあっさりとひいらぎこぞうを一掃した。あまりにもあっけない幕切れに、レイは呆然としてしまった。 「怪我はねぇか?」 ビクトールが抱きかかえていたレイをすとんと下ろした。 ひゅっと空を切ってフリックがオデッサを収め、レイを振り返った。その表情にレイはひやりとした。 フリックはいつも穏やかで、彼が怒ったところなど今まで見たことはなかったし、想像もしたことがなかった。けれど、目の前のフリックが怒っているということは、レイにも分かった。 フリックは本気で怒ると表情がなくなるんだな、とレイは思った。それでもその綺麗な顔に見惚れてしまう。無言のままレイ近づくフリックに、ビクトールがはっと表情を固くした。よせ、と止めるよりも早く、ぱしっと乾いた音が響いた。 「………っ」 まさかフリックに叩かれるとは思っていなかったレイは、のろのろと右手を上げて叩かれた頬に触れ、その熱さに驚いた。 突然のことに言葉も出ないレイに、フリックは何も言わなかった。 近くでまだ怯えたように身を寄せ合う子供たちに声をかけ、レイに背を向けて歩き出す。 その後ろ姿に、胸が締め付けられた。フリックに嫌われたらどうしよう、とレイは小さく震えた。そんなレイに、ビクトールは細く溜息をつき、その場にしゃがみこんだ。 「レイ、どうして殴られたか分かるか?」 ビクトールがレイの両手を取り、その目を覗き込む。 「闘いに出ちゃいけないって……言われてたのに…約束破ったから…?」 「あぁ、そうだ。じゃあ、どうしてフリックがお前に戦闘に出てはいけないって言ってたか分かるか?」 「………」 「フリックはな、お前に本当の意味で強くなって欲しいと思っているからだ」 ビクトールが一言一言、噛み締めるようにしてレイに言ってきかせる。その目は真剣で、決して子供を相手にしている口調ではない。 「お前はずっと強くなりたいって言ってたな。だが、本当の強さってのは、何も剣の腕前だけのことじゃねぇんだ。剣を持って闘うってことは、何かの命を奪うことだ。何かってのは、モンスターだけじゃねぇ。人間の時だってある。殺らなきゃ自分が殺られる。人の命を奪う恐怖と、奪われる恐怖と、そのどちらもお前はまだ知らない」 「………うん」 「もっと怖いのはな、誰かを守ることの恐怖だ」 レイははっとしたように顔を上げた。 「誰かの命を守るってのは、よほどの覚悟がなきゃできねぇことだ。敵を斬る恐怖や斬られることへの恐怖は、長い闘いの中でだんだん麻痺してくるが、誰かを守ることへの恐怖ってのは……俺も未だに乗り越えることができねぇでいる。誰かを守るってのは難しいことなんだ」 「…………」 「特に、自分に守りたい大切な人間がいる時はな」 ビクトールの言葉にレイは大きくうなづいた。 さっき、ひいらぎこぞうを前に感じた恐怖は、初めて何かと戦うことへの恐怖以上に、自分のせいで誰かが死んだらどうしようと思うことへの恐怖だった。ビクトールに言われて初めて知った。そして知ったとたん、涙が溢れた。 「ご……めんな……さい……っ」 「フリックは、一つ一つ教えてやろうと思ってたんだ。お前が嫌いで殴ったんじゃない。お前のことが心配で、大切だから、上辺だけで強くなろうとしたことに怒ったんだ、分かるか」 「……っ」 大きくしゃくり上げながらも、ちゃんとうなづいたレイに、ビクトールはよしとうなづくと、大きな手のひらで濡れたレイの頬を拭った。 「フリックは怒ると怖いだろう、ん?」 こっくりとうなづくレイにビクトールは苦笑する。 「ま、あいつが本気で怒ったらあんなもんじゃねぇけどな」 「……怒られたことあるの?」 「ある。昔、一度だけな。くだらねぇ小言はしょっちゅうだが、一度だけ本気で怒られたことがある」 怒られた話だというのにどこか楽しそうに話すビクトールの気持ちが、レイには分かるような気がした。フリックが本気で怒るのは、それが自分にとってとても大切な存在だからなのだ。 ビクトールに怒ってばかりのフリック。 「何だ……そういうことか……」 「うん?」 何でもない、とレイは首を振った。 おかしなヤツだな、とビクトールが笑う。 フリックがどうしてビクトールのそばにいるのか、少し分かったような気がした。ビクトールの優しさが、やっとレイにも分かった。 「レイ、ちゃんとフリックに謝れよ」 よっこらせと立ち上がり、ビクトールがレイの髪をくしゃりと撫でた。 城に戻ると、心配していた住人たちが無事に戻ったレイたちの姿にほっとした表情を見せた。同じように捜索に出ていた騎士達が戻ると、夜も遅くなってきたというのに、昼間のような賑やかさになった。そんな中、レイはフリックの袖口を引っ張った。 振り返ったフリックはもういつものフリックで、レイは勇気を振り絞って口を開いた。 「ごめんなさい……」 「………」 その一言でフリックは表情を和らげた。少し離れたところにいるビクトールと視線があうと、すべてを理解したのか、仕方がないなというように微笑む。 「お、こらないの?」 「……十分反省したようだしな。ちゃんと分かったのなら、もういい」 「……」 ふわりと、フリックの手がレイの髪を撫でた。 ビクトールと同じ暖かさに、何故か胸が締め付けられた、レイはもう一度ごめんなさいと言うと、ぺこりと頭を下げた。フリックはそんなレイに小さく笑った。 「お互いドロだらけだな、風呂に入るか?」 「うん」 レイはいつもの屈託のない笑顔でうなづくと、フリックの手を握った。フリックがビクトールに声をかけると、俺も行くぞ、とあとをついてきた。 3人で疲れた足を引きずるようにして大浴場へと向かう。とりあえず、早くさっぱりとしたかったのだ。大浴場の入口で、今日はジャングル風呂だというテツの言葉に、レイはやったーと喜び、脱衣場へと駆け込んだ。風呂なら何でもいい、とフリックもブーツを脱いで脱衣場へと入る。 ビクトールが何か言いたそうにフリックを見たが、まぁいいか、というように口を閉ざした。 「おや、早速お風呂ですか」 脱衣場では先に来ていたカミューが、すでにシャツ一枚で立っていた。 カミューも誰よりも早く汗を流したかったのだろう。綺麗好きなカミューらしい、とフリックはマントを外しながら思う。 「先に入ってるぜ」 フリックの隣で、剥ぎ取るようにして服を脱ぎ去ったビクトールが、カミューとともにガラリと浴場の扉を開けて中に入っていった。 やれやれ、とフリックはバンダナを外す。脱衣籠に服を綺麗にたたんで入れていたレイが、備え付けのタオルを手にしてフリックに声をかける。 「フリック、先に入ってるからなっ」 「ああ……あっ、……!」 次の瞬間、城中に響き渡るような叫び声が響いた。 すでに浴場で湯を浴びていたビクトールとカミューがびっくりして飛び出してきた。 「どうした!」 「ビクトールっ!!!!!!」 叫んだフリックは、レイの身体をぎゅっと抱きしめている。大きなバスタオルに包まれたレイはいったい何があったんだ、とばかりに目を見開き、助けを求めるようにビクトールを見ていた。 「何かあったのですか?」 カミューも濡れた髪のままフリックに尋ねる。 そんなビクトールとカミューに、フリックが怒鳴った。 「女じゃないかっ!!!!こいつ……こいつ…お、お、女だったのかっ!!!」 「知らなかったのか?!」 「知らなかったんですか?」 ビクトールとカミューが同時に声を上げた。 真っ赤になって口をぱくぱくさせていたフリックは、やがてがっくりと肩を落とした。 大浴場の向かい側に設置された休憩室で、今だ動揺の隠せないフリックは、ビクトールとカミューにすっかり呆れられていた。 「全く信じられないヤツだな」 風呂上り、上半身裸のままのビクトールが冷えたビール片手に濡れた髪を拭う。 「おかしいとは思ったんですよ。いくら子供だとは言っても、フリックさんがレディと一緒にお風呂に入ろうなんて……」 カミューも笑いを堪えた表情で深くうなづく。 「お、お前ら、知ってたのに俺に何も教えてくれなかったじゃないかっ!!」 「いや、普通は気づくだろ」 なぁ、とビクトールがカミューを見る。そうですね、とカミューも微笑む。 フリックははーっと大きく溜息をついて、ぐったりと壁にもたれた。 レイは本当はレイチェルという名前で、小さい頃から男勝りで今まで一度もドレスを着たことがないという。短い髪と、まだ女らしさの欠片もない体つきと、あの口調から、誰もが最初は男だと思うらしい。だから、フリックが誤解したとしても仕方がない…といえば仕方がない。が、男女の区別もつかないなんて、あまりにも鈍臭すぎる、とビクトールは思った。 レイにとってフリックは憧れのヒーローというだけではなく、きっと初恋の人なのだろう。 もしかすると本人でさえもまだ気づいていないかもしれないが、ビクトールのことをあんなに敵視していたのもそれならうなづける。汚い格好をした男よりも、フリックのように見目のいい男を好きになるあたり、レイが女の子である証拠だ。 だがまぁ、フリックを好きになるのは目が高いと誉めなければいけないかもしれないな、とビクトールは隣で赤い顔をしているフリックをこっそりと眺めた。 そのフリックは、しばらくぼーっとしていたが、ふいにその表情を固くした。 「………見られた」 「ああ?」 フリックが呆然と口元を覆う。 「あいつ……俺達の……見たよな?」 「………」 「………」 ビクトールもカミューも少し考えたあと、あぁと苦笑した。フリックはそんな二人に思わず怒鳴った。 「何だってそんなに落ち着いていられるんだっ!!み、見られたってのにっ!!」 「まぁ、別に見られたって減るもんじゃねぇしよ、それに、見られて恥ずかしいような粗末なもんでもねぇからな」 「私はちゃんと見られないようにしていましたから」 二人の余裕の返事に、フリックは頬を引きつらせる。 「………くそ、あいつには剣よりも先に女としての恥じらいを教えなければ…」 フリックが溜息とともにそうつぶやくと、ビクトールは心底おかしそうに笑った。 数ヶ月後、レイたちは新しい村に向けて旅立つことになった。 いつまでも同盟軍の中で生活するわけにもいかず、助かった者たちで、もう一度力を合わせて生活を始めようと決めたのだ。 別れの朝、フリックとレイは最後の剣の稽古をした。 まだまだ教えてやりたいことがあった、とフリックは残念に思った。もちろん、いつまでもずっとそばにいて教えてやるわけにはいかないのだけれど。それでも、フリックにとって、レイはとてもいい生徒で、いい友達で、そして愛すべき子供だった。 「フリック、いろいろありがとな」 身支度を整えたレイが明るい笑顔をフリックを見上げた。 「俺、フリックに教えてもらったこと、絶対に忘れないから」 「ああ………」 「俺、うんと強くなるから。ちゃんと、本当に、誰よりも強くなるから……」 「ああ……」 「そしたら……俺……」 みるみるうちにレイの瞳が涙で潤み、ぽろりと頬を流れた。 「レイ……」 フリックがその場にしゃがみ、ぐいっとその頬をぬぐってやる。レイは思わず目の前のフリックに抱きつくと、大きくしゃくりあげた。 「俺、フリックのこと大好きだよ。だから、大きくなったら、迎えに行くから。だから待ってて」 「………レイ」 「大好きだよ、フリック」 小さなつぶやきは、やがて嗚咽となる。別れ際になって初めて、レイはフリックの前で初めて子供らしい部分を見せた。 子供の戯言だと分かっていても、それでもレイの気持ちはフリックにはくすぐったく、そしてとても愛しく思えた。何の計算もなく無心に慕ってくれる姿は、フリックを切ない気持ちにさせる。 「元気でな、レイ」 「うん……フリックも。あの熊に愛想尽かしたら、いつでも俺んところに来ていいからな」 「……考えておこう」 相変わらずにレイの台詞に、フリックは笑った。 それはレイが憧れてならない、とても綺麗な笑顔だった。 やがて月日が流れ、再び始まる戦乱の時の中で、フリックたちは美しく成長したレイにめぐり合う。 左手には雷の紋章を、右手には初めて剣を教えてくれた尊敬すべき人の村の風習に習い名づけた「青雷」という名の剣を携えたレイは、フリックが教えたかったことをきちんと身につけた戦士になっていた。 長く続いたハイランドとの闘いの終結から15年後のことである。 |