ラヴバード どこまでも続く地平線。 視界を遮るものは何もなく、下手すると進むべき方向さえ間違えてしまいそうな平原。フリックは前を行くビクトールの背を見つめながら馬を走らせていた。 朝一番から走り始め、そろそろ昼近い。 身体がぎしぎしと痛んでいたし、腹も空いてきた。 先を行く男は放っておけば目的地に着くまで休みなしで駆け通してしまいそうな勢いだ。 フリックは仕方なく馬足を速めて横に並んだ。 「ビクトール、そろそろ昼にしよう」 大声で声をかけると、ビクトールは振り返り、返事をする代わりに馬の速度を緩めた。 さすがに何もない平野で食事をするのは味気ないので、少し方向を変えて、今にも干からびそうな小川の近くで馬を下りた。 ビクトールが携帯していた非常食を用意する間、フリックは少し離れた場所で青いマントをはためかせながら、じっと空を見つめていた。 雲一つない青い空。 「フリック、用意できたぜ」 「……ああ」 声をかけられ、フリックはビクトールの元へと戻った。 小さく焚かれた火をはさんで向かい合わせに座り、少しばかりの食事を始める。 特に話すこともないので、お互いしばらく黙々と食事を進めていたが、 「何見てたんだ?」 「え?」 ビクトールが切り分けた肉をフリックへと差し出す。 さっきからずっと空を見上げていたことを言っているのだと分かり、フリックは小さく笑う。 「ああ…ほら、あの鳥が…」 「鳥?」 ビクトールがフリックの指さす空を見上げる。 なるほど、そこには一羽の鳥が低い位置で弧を描いて飛んでいる。白い羽の小さな鳥だった。 「あの鳥がどうかしたか?」 「さっきからずっとあそこを旋回してるからさ、何かあるのかなって思ったんだ」 フリックがぺロリと指先についた油を舐める。 ビクトールはもう一度目を細めて白い鳥を見上げ、そして納得したように笑った。 「ああ、あの鳥はこの先もずっとあそこで飛んでるだろうな」 「ずっとって?」 「何だ知らないのか?」 「有名な鳥なのか?」 「有名ってわけでもねぇけどな。あの鳥は…メスかオスかは分からねぇが、相手を亡くしたんだろうさ。死んじまった相手が下にいるんだろ」 ビクトールの説明にフリックが首をひねる。そんなフリックへビクトールが淡々と説明を続ける。 「あの鳥は一度ツガイになると、一生その相手と連れ添うことで有名な鳥だ。一度ツガイになると、決して離れたりしないで死を迎えるってわけだ。両方がいっぺんに死ねりゃいいだろうがな、どっちかが先に死んだら、残された方はああやって、その亡骸の上をずっと飛んでるってわけだ」 「ずっと?死ぬまで?」 フリックが驚いて聞きかえす。その表情にビクトールが笑う。 「さぁなぁ…死ぬまで飛び続けてるってのは聞いた話で、本当かどうか確かめたことはねぇがな、そういう話だ」 「それは…」 一度決めた相手が死んだら、決してその場を離れずに飛びつづけるなんて。 胸が痛くなる話だな、とフリックは思った。 本当に死ぬまで飛びつづけるのだろうか?自分が好きになった相手の頭上で。 「何て名前の鳥なんだ?」 「ああ…ラヴバードって言ったかな…」 ビクトールの返事に、フリックは思わず吹き出した。 腹を抱えて笑うフリックにビクトールがむっとする。 「何だよっ!何笑ってんだ」 「だって、お前の口から聞かされるには、ずいぶん甘い名前だと思ってな」 「ふん、俺はこう見えてもずいぶんとロマンティックな男なんだぜ」 ニヤリと笑ってビクトールがフリックを見る。 何がロマンティックだ、とフリックはさらに笑う。 ひとしきり笑って、フリックが落ち着いた頃、ビクトールが急に真面目な表情をフリックへと向けた。 「フリック」 「ん?」 「なぁ、もし俺が先に死んだら…」 フリックがその言葉に視線を上げる。目の前の男の、真剣な表情にぎくりとする。 風が吹き、ふわりとフリックのバンダナが揺れた。 「俺が死んだら…」 「そういう話はしたくない」 ぴしゃりと言ったフリックにビクトールが苦笑する。 「まぁ聞けって。もし俺が先に死んじまったら、お前はちゃんと次を見つけろよ」 次? フリックはビクトールが何を言っているのか分からずに眉を顰める。 ビクトールがコーヒーの入ったカップをフリックへと差し出した。 「あの鳥みたいに、いつまでも死んじまったヤツのことを思って立ち止まるなってことだ。お前は一度…それを経験してるから、ちゃんと乗り越えることができるかもしれねぇがな」 オデッサの死を乗り越えたフリックだから、また同じことが起きても大丈夫かもしれない、とビクトールは思う。 けれど、あの時は自分がいたのだ。 フリックのことを愛している自分がいた。 決して自惚れているわけではないが、フリックがオデッサの死を乗り越えることができたのは、誰かに愛されて、愛することができたからだと思う。 それができたのは、その相手が自分だったからだ。そんなことを言えば、フリックはまた激怒するだろうが、そうであればいいと思う。だが、もしそうだとしたら、その自分が死んでしまったら、次は誰がフリックを救うのだろうか。 その次の相手のことを考えると、胸クソ悪さに吐き気がしそうな気がする。 自分以外の誰かがフリックのそばで、フリックのことを慰め、そして救い上げるのかと思うと、おちおち死んでいられないと、そんな馬鹿なことさえ考えてしまうのだ。 だが、もし自分が先に死んだとしたら… 「俺が死んだら、いつまでもべそべそしてねぇで、さっさと次を見つけろ。そして…幸せになれ。誰よりもな」 ビクトールの言葉をフリックは黙って聞いていた。 何を考えているのか、その表情からは読み取れない。 「………」 「おい、聞いてるのか?」 「……ああ、聞いてる」 フリックはうんざりしたように素っ気無く答えると、カップを地面へと置いた。そして妙にサバサバした口調でビクトールに言ってのける。 「そうだな。お前が死んだら、遠慮しないでそうさせてもらうさ。今度はお前みたいな万年発情期みたいなヤツじゃなくて…もっと大人しくて可愛い女を選ぶことにする」 「ふん」 「お前のことなんて忘れて、さっさと幸せになるから安心しろ」 「………」 見つめるビクトールから逃れるように視線をそらす。 そして、フリックは残ったコーヒーを地面に流した。 思いもかけないビクトールからの言葉に、フリックは腹を立てていた。 どちらかが先に死んだら、なんて考えたことはなかった。 いや、考えても仕方がないことだと思っていたから、あえてその答えは出さないようにしていたのだ。戦場に出れば、死はいつもすぐ隣にある。自分だけは絶対に死ぬことはないなんて、そんな馬鹿げたことを思うほどフリックだって甘くはない。それはビクトールだって同じだろう。自分が死ぬことは想像したことはある。けれど、どちらが先に死ぬかなんて今まで一度として想像したことはないのだ。 もし自分だけが取り残されたとしたら? あの鳥のように、いつまでもその場所に立ち止まり、もういない男のことを思いつづける自分がいるのだろうか? さっさと次を見つけて幸せになれ、とビクトールは言う。 それが本心なのか、それともただの強がりなのか、フリックには分からなかった。 どちらにしても気分は最悪だ。 フリックは目の前の男を睨んだ。 いったいどういうつもりで、こんなことを言われなくてはいけないのか。 この男はいったい自分に何を言わせたいのだろう? 同じ気分を味あわせてやりたくて、フリックは口を開いた。 「ビクトール」 「ああ?」 「じゃあ、もし俺が先に死んだら、当然、お前もさっさと次を見つけて幸せになるんだろうな?いつまでもべそべそと俺のことを思い続けるなんて馬鹿なマネはしないんだな?」 フリックの言葉にビクトールは何も言わない。 黙りこむビクトールに苛立ったフリックが思わず声を荒げる。 「おいっ、何とか言えよっ!ちゃんと俺のことは忘れて幸せになるんだろうな?」 「そうだなぁ…俺はお前と違ってしつこい男だからなぁ、そんなあっさりと次を見つけられかどうかは分からねぇな」 「な…っ…」 フリックは唖然とビクトールを見返す。 そして思わず立ち上がり、ニヤニヤと笑うビクトールを怒鳴りつけた。 「ずるいじゃないかっ!!俺だけ…さっさと次を見つけて…なんて…まるで俺が冷たいヤツみたいだろっ!!」 「まったくだ。お前、そういう時は嘘でもいいから『俺は一生お前を忘れない』って言うもんだぜ」 「ば、馬鹿っ!!ふざけんなっ」 フリックは自分が嵌められたことにやっと気づいた。 さっき、「遠慮せずに次を見つける」なんて言ったが、別に本心だったわけじゃない。 あまりにしつこくビクトールが言うものだから、つい言ってしまっただけだ。 それなのに、この男は言うのだ。 俺は一生お前を忘れない、と。 フリックはあまりの口惜しさに、その場を後にして歩き出した。 すぐにビクトールが追いかけてくる。 「おい、待てよ」 「うるさいっ」 「フリック」 「うるさいっ!!俺に触るなっ!!」 つかまれた腕を振り払おうとするフリックをビクトールが背中から抱きしめる。しばらく暴れていたフリックだが、やがて抵抗をやめた。それでも苛立ったように肩で息をするフリック。 ビクトールがそのフリックの首筋に顔を埋めるようにして囁く。 「怒るなって…悪かったよ、からかったりして」 「………」 「別に嘘じゃないんだぜ…俺が死んだら、お前は次を見つけて幸せになって欲しいってのはな。ムカつくけどな。お前のことを幸せにしてやれねぇのが自分じゃねぇってのは。お前のこの…」 ビクトールが回した手でフリックの身体の線をなぞる。びくっとフリックが身を固くする。 「身体を誰かが抱くのかと思うと腹わた煮えくり返るが…。お前が泣くのを見るよりはずっといい」 「……ない…」 「ん?」 フリックが俯き加減に声を上げる。 「俺はっ…忘れたりなんかしないっ!!」 ビクトールの腕を振り解き、身体を回転させて正面から向き合う。驚いたような表情のビクトールの胸もとを掴み、ぐいと身体を寄せ、フリックは声を荒げた。 「簡単に次を見つけられるほど、俺は器用じゃないからなっ。残念だったな、お前の望むようにはしてやれそうにないっ。お前が本気でそう思ってるとしたら、お生憎様だっ!忘れられないようにしたのはどこのどいつだっ。好き勝手に俺のことを変えておいて、今さら忘れろなんて…俺を馬鹿にするのもいい加減にしやがれっ!!お前なんてっ―――」 振り上げたフリックの手をビクトールが掴み、そのまま強く引き寄せる。 「フリック…っ!」 叫び声と共に、身体がしなるほどに抱きすくめられる。 ぶつかるように塞がれた唇。その隙間から、いつものように熱い舌先が滑り込んでくる。逃げようとするフリックを許さずに、息が止まるほどのくちづけが繰り返された。何度も、何度も。 どうしたら忘れられるというのだろう。 数え切れないほどの熱い抱擁を。熱いくちづけを。熱い吐息を。 忘れたくても…忘れられない。 フリックがおずおずと腕をビクトールの首へと回し、次の瞬間強く引き寄せた。 それが合図かのように、お互いに狂ったように濡れた舌を絡ませる。どれくらい奪いあったか、フリックの膝が崩れ落ちた。力の抜けたその身体をビクトールが支える。 「……フリック…もう一回言ってくれ。忘れないって」 頬を染め、濡れた口元を拭うフリックにビクトールがねだる。 嘘でもいい。忘れないと。そのたった一言が聞きたい。 そうすれば、忘れてもかまわないから。 ちゃんとお前の幸せを祈ってやれるから。 そんなビクトールの思いを読み取ったのか、フリックが両手でビクトールの頬を包み、見惚れるほどの綺麗な笑顔を見せた。 「いや…俺はお前と違って冷たいヤツだからな…忘れちまうかもしれない。だから…忘れられないようにすればいい。不安なら、そうしろ。お前は…俺にそうしていいんだ」 お前にはその権利がある。 何が幸せか、勝手に決められるのはごめんだ。 自分にとって、何が幸せなのかは自分で決める。 忘れてしまうことが幸せだなんて、いったい誰に言えるのだ? フリックは掠め取るようにビクトールの唇にキスをした。思いがけないフリックからのキスに、ビクトールは一瞬泣き出しそうな表情を見せた。そして何か眩しいものでも見るかのように目を細め、お返しとばかりに、フリックの前髪に、瞼に、頬に、唇にキスをした。 忘れられない優しい温もり。 ビクトールの、どこか嬉しそうな顔が目の前にある。 フリックはもういいだろ、とばかりにビクトールの胸を押し返した。 「……抱きてぇな」 ビクトールが離れていくフリックの身体を引き寄せる。今すぐ、ここで抱いてしまいたい。 あんな殺し文句を言われて、何もできないなんて拷問だ。 しかしフリックの返事はつれない。 「調子に乗るな。ほら、さっさと片付けろっ!」 「仕方ねぇな、夜まで我慢すっか。あ〜くそっ、お前の今のキスはかなりキたぜ」 わざとらしく前屈みになってみせるビクトールにフリックが蹴りを入れる。 「最低だな、お前」 「どっちがだよっ。お預け食らわす方が最低だろっ」 「うるさい」 「ちっ、まぁいい。お前のお望み通り、今夜は忘れられないようなことしてやるからな。覚悟しておけよ」 めずらしく、どこか照れたようにビクトールがフリックへと宣言する。 フリックはそんなビクトールに小さく笑った。 「ああ…できるもんならな…」 そうしたいなら、すればいい。 フリックは空を見上げた。 ラヴバードはまだそこにいる。 忘れられない想いがそこにあるのだろうか? 「フリック…そろそろ行くぜ」 だが自分は何があってもあの鳥のようにはならないだろう。 なぜなら、死の瞬間、自分の想いは、この男がすべて持っていくからだ。 だから一人残されても、きっとその場に留まることはないのだ。 それは、不思議とフリックを安心させた。 「フリック?」 「ああ、行こう」 行けるところまで行こう。 一緒に。 再び馬を走らせるフリックは、もう空を見上げることはなかった。 |