第二夜  〜 解放軍の夜 〜


 久しぶりにカクの村で仲間たちと大騒ぎをした夜だった。
 ほろ酔い気分で解放軍の本居地となっている湖に浮かぶ古城へと戻ってみると、さすがに人の気配はなく、しんと冷えた空気だけが辺りを包み込んでいた。
 この本拠地はまだ手に入れたばかりで、毎日のように増築工事がされていて、昨日までなかった部屋が今日突然出来ていたりして、時に迷ってしまうこともあるほどだった。
 ビクトールは酔い覚ましも兼ねて、城の変化を見物でもしようと、のんびりとした足取りで歩き出した。夜空に浮かんだ月がやけに白く大きく見える。
 照らされた水面も波は穏やかで、岸に打ち寄せられる水音を聞いていると眠気を誘われる。要所要所に配置された見張り番の連中と軽く会話を交わして、ビクトールは階段を上った。
 土産代わりに持って帰ってきた酒瓶には、まだ少しだけ酒が残っている。
 部屋で辛気臭く飲むよりは、季節もいいことだし屋上で飲んでやろうと思ったのだ。扉も何もない屋上への出口。一歩踏み出したとたん、生温い風が頬を撫でる。
 ふと顔を上げ、そこに人影を見てぎくりと足を止めた。胸元まである手すりに両腕を置き、じっと身動き一つしない後ろ姿。
 けれど、それがよく知った者のものだと分かると、思わず頬が緩む。
「フリック」
 さほど大きな声で呼んだわけでもなかったが、ビクトールの声にフリックはすぐに振り返った。
 薄闇の中に佇むのがビクトールだと分かると、フリックは不審気に眉をひそめたが、手にした酒瓶を見て納得いったように肩をすくめる。
「また飲んだくれてたのか」
「また、とはご挨拶だな、ずいぶん久しぶりなんだぜ」
 からりと笑ってビクトールはフリックのそばへと近寄る。
「こんな時間に、何してたんだ?」
「いや…別に……」
 眠れないのか、とビクトールは思ったが口にはしなかった。
 ここで、フリックが一人で何を思っていたのか、分かるような気がしたからだ。
 きっと彼女のことを想っていたのだろう。
 解放軍のリーダーだったオデッサ。
 フリックの想い人だった彼女は、もうこの世にいない。
 日々の慌しさに紛れて、人々の記憶の中から彼女の記憶が次第に薄れていく。フリックも彼女のことを口にすることはない。
 そんな風に、次第に彼女の生は消えていくのだ。
 それが、どれほど淋しいことなのか、ビクトールにはよく分かる。だから、流されないようにフリックが必死にその場に立ち止まろうとしていることを、からかう気にはなれなかった。
「飲むか?」
 酒瓶を掲げると、フリックは一瞬の躊躇のあと「もらおう」と手を伸ばした。
 小さなコルクの栓を取り、数口飲んだフリックは顔をしかめて瓶の口から唇を離した。
「きついな」
「上等だぜ、味わって飲めよ」
 どうせ賭場で儲けた泡銭で買ったんだろう、とフリックは胡散臭そうにビクトールを見た。あながち外れてもいないので、ビクトールも軽く笑うだけで、それ以上は反論しなかった。
 二人で並んでその場に座り込み、しばらく無言で代わる代わる酒を飲んだ。
 どちらも話すきっかけを逃したのか、口を開こうとはしない。
 静かな沈黙が二人の間に流れる。下手すると気まずくなりそうな空気だったが、ビクトールはこの沈黙が嫌いではなかった。
 お互いがお互いのことを特別大切にしているわけでもなく、かといって嫌悪しているわけでもなく、そばにいて……肩が触れ合うくらいそばにいて、でもまだどこかぎこちない。
 出会った当初、一秒たりとも一緒にいたくないというオーラを放っていたフリックだが、何時の間にかその刺々しさはなくなった。
 けれど、フリックが何を考え、何を思い、何を大切にしているのか、まだ分からないことが多すぎて、ビクトールはフリックの周りにある壁を乗り越えることができずいた。
「なぁ」
 ごとりと空になった酒瓶を冷たい床に置き、ビクトールはフリックを見た。
「たまには一緒に飲みに行こうぜ、ここも悪くはねぇが、カクにもけっこういい酒場がある」
「……お前と一緒じゃ悪酔いしそうだな」
「冗談だろ、俺は楽しい酒しか飲まない主義だぜ」
 一緒に行こうぜ、とビクトールがなおも食い下がると、やがてフリックはそうだな、と苦笑混じりに同意した。どこか困ったようなフリックの表情。それでもどこか嬉しそうに見えるのはビクトールの気のせいだろうか。
 何となく自分までもが嬉しい気持ちになり、ビクトールははっと我にかえった。
 
(何だって、俺はこんな好きな女を口説いてるような真似してんだ?)

 今まで、こんな風に誰かに必死で振り返ってもらおうとしたことがあっただろうか。どちらかというと誰とでも気軽に話はする方だし、気のあうヤツとはすぐに親しくなれた。もともと一人でやってきたのだから、無理に誰かとつるむ必要なんてどこにもない。
 フリックが自分のことを必要としていないのなら、こんな風にちょっかいだすことなんてないのだ。フリックにしても迷惑に違いないのだから。
 それなのに、どうして俺はこんな風にフリックのことを気にかけてるんだろう?
 ビクトールはしばらく酔いの回った頭で考えたが、そこに明確な理由は思い浮かばなかった。フリックのことは嫌いじゃない。
 剣の腕は確かだし、少々生真面目すぎるところはあるが性格も真っ直ぐで気持ちのいいヤツだ。仲良くしたいと思ってもおかしくはない。
 それだけだ。
 それなのに……。
 それなのに、頑なに自分を拒むフリックを見ていると、何とも言えない焦燥感にかられる。
 フリックが想うのはオデッサのことだけなのだ。
 それは何も今に始まったことじゃない。
 けれど、フリックにとって大切なのは彼女だけなのか、と思うと胸のどこかがじくりと痛む。
 彼女を思うフリックの姿を見るたび、助けられなかったことを責められているような気がするのは愚かな思い上がりだろうか?
 オデッサのことを責められたのは、彼女の死を伝えた時だけだ。それきり、フリックはビクトールには何も言わない。
 何も言わないどころか、フリックが彼女のために涙を流した姿さえ見ていない。
 そこまで考えて、ビクトールは改めてその事実に呆然とした。
 そうだ、フリックは泣いていない。
 人前で泣くようなことがないのは当然としても、恐らく彼は一人になった時でも泣いていないのではないか、と思うのだ。
 この城で、一人になれる場所を探す方が難しい。こんな風に、真夜中に一人で屋上へとやってくる以外に、一人になって涙を流せる場所などないのだ。
 だとすれば、今夜自分はフリックの邪魔をしてしまったのではないだろうか。
 ビクトールはしくじったと思いつつ、フリックに尋ねてみる。
「なぁ、何考えてたんだ?」
「何……って?」
 唐突なビクトールの問い掛けに、フリックは戸惑った表情を見せる。
「こんな時間にこんな所でよ……」
「……別に……ちょっと眠れなくて、風に当たりにきただけだ」
 軽く肩をすくめ、何でもないことのようにフリックが言った。
 眠れない。
 眠れないのは心が満たされていないからだ。それはオデッサの喪失のせいではない。無くしたものを埋める何かがないからだ。
 ビクトールはそれを経験として知っている。
 無くしたくないものを無くしてしまって、ぽっかりと開いた心の傷を埋めることは容易なことではない。自分自身、まだ癒すことのできない傷を抱え、それでも生きていかなくてはならなくて、未だに襲いかかる悪夢に目覚めることがある。
 嫌というほど泣いた。
 泣いてどうなるものでもないとは知っていたし、情けないと何度も思ったが、すべてを無くした夜、ビクトールは声を上げて泣いた。
 今思えば、それは必要なことだったのだと分かる。
 泣けるうちは、まだ心が生きているからだ。
 だから目の前のフリックは……泣けないフリックは……

(こいつは、いつか駄目になっちまうかもしれない……)

 漠然と、ビクトールはそんなことを思った。
 人は、それがどんなに大きな悲しみであっても、きちんとそれを受け止め、自分のものにする必要があるのだ。
 一度は必ずきちんとその辛さに向き合い、それを乗り越える術を見つけなくてはいけない。
 今はまだ、目の前の闘いに没頭していれば時間が流れていく。時折胸の奥を掠める愛しい人の面影に立ち止まっても、やるべきことがあるうちには、恐らくフリックは大丈夫だろう。
 けれど、心に重く沈んだ感情を吐き出さなくては、いつか壊れる。
 けれど、きっかけを無くすと、もう二度と泣けなくなる。
 もちろん泣くという形でなくてもいいのだけれど……
 フリックはそれを分かっているのだろうか?
「フリック……」
「うん?」
「あの…よ……泣いてもいいんだぜ」
「………何だって?」
 突然意味不明のことを言われて、フリックはぎょっとしたように身を引いた。何を言っているんだ?と胡散臭そうな視線をビクトールへ投げかけ、次の言葉を待つ。
 ビクトールはどういう風にそれを伝えればいいか考えていたが、上手い言葉を見つけることができなかった。
 それに焦れたフリックが少々立腹したようにビクトールに詰め寄る。
「どういう意味だ?ちゃんと分かるように説明しろよ、ビクトール」
「あーだからよ、お前……オデッサが死んでから……泣いてねぇだろ?」
「………っ」
 ふいを突かれ、フリックは言葉を無くした。
 大きく見開かれた青い瞳に、ビクトールは何となく加虐的な気持ちになった。
 泣かせてみたい、と。
 今まで一度だってビクトールの前で涙を流したことのないフリックを泣かせてみたいと、どういうわけかそう思った。
 フリックがどんな表情をして涙を流すのか、見てみたいと思ったのだ。
「辛いなら……泣けばいいだろ……」
 ビクトールがつぶやくと、フリックは無表情なままそっぽを向いた。
「無理する必要なんてどこにもないんだし、彼女を亡くして辛いのは当然だろう。ちゃんと泣かないとお前……」
「余計なお世話だ」
 きっぱりと言い捨て、フリックはその場を立ち去ろうと立ち上がる。
「待てよっ」
「うるさい!」
 咄嗟にフリックの手首を掴んで、ビクトールも立ち上がる。振りほどこうとするフリックを引き寄せ、ビクトールはもう一度言った。
「辛いなら泣け」
「………」
 強引なビクトールの台詞に、しばらくフリックはきつい瞳で睨んでいたが、やがて、やれやれというように息を吐くと、片手を伸ばしてやんわりとビクトールの手を解いた。
「ビクトール……」
「………」
「俺は大丈夫だから」
「………」
「俺は、大丈夫だ」
 静かで、それは力強い言葉だった。
 おかしな気負いも、見栄や強がりや、そんなもののない心からの声に、ビクトールはそこにいるのが自分の知っているフリックではないような気がして、言葉を無くした。
 そして、今なら伝えられるのではないか、と思った。
 彼女の言葉を……正確に……
「フリック」
「うん?」
「俺は、お前に伝えなければいけないことがある」
「………?」
「オデッサが……お前にって言った言葉だ。『あなたの優しさは…いつも…いつでも、わたしをなぐさめてくれた』……って」
「………っ」
「そう……お前に伝えて欲しいって……最後に……そう」
 オデッサの最後の言葉。
 彼女の最後を見届けることができなかったフリックに、どうしても、この言葉だけは正確に伝えなければいけないと思っていたのだ。
 それは単に言葉を一言一句伝えるということではなく、あの時の彼女の想いをそのまま伝える必要があったのだ。それが彼女の望んだことだと思うから。
 けれど、それはフリックにとっては辛い言葉かもしれないと、ビクトールのことを躊躇させていた。やっと言えた。やっと彼女の想いを引き渡すことができた。
 彼女の最後の想いを聞いたフリックは、どこか戸惑ったように青い瞳を揺らめかせた。少し困ったように口元に手をやり、深く…何かを思い出そうとするように、きつく目を閉じる。
 やがて、フリックはゆっくりと目を開けた。
「……彼女が…そう言ったのか?」
「ああ……そうだ」
「そうか……」
 フリックの唇がきゅっと引き結ばれる。
 その様子に、ビクトールは彼が泣くかと思った。
 いや、泣くだろうと思った。
 けれど、違った。
 うつむいていたフリックはゆっくりと顔を上げると、ビクトールを見て微笑み、そして何の迷いもない口調で言った。
「……ありがとな、ビクトール」
「………っ!」
 フリックの一言に、ビクトールは何かに打たれたように動けなくなった。呆然としたまま動けないでいるビクトールに、じゃあなと軽く手を上げてフリックはその場を立ち去った。
 残されたビクトールは思わず手で口元を覆った。
「俺は……っ……」
 フリックが見せた笑顔。それは今までビクトールが見たこともないほど穏やかなものだった。綺麗で、儚くて、初めてビクトールはその笑顔を綺麗だと思った。
 ビクトールは自分がとんでもない間違いをしていたことにやっと気付いた。
 ビクトールはどこかで思っていたのだ。
 オデッサの言葉を伝えれば、たぶんフリックは泣くだろう、と。
 本当は泣きたいくせに、泣かないフリックのことを泣かせてみたくて、ビクトールはオデッサの言葉を口にしたのかもしれない。
 どこまでも強がってみせる彼の中にある弱い部分を曝け出させたかった。
 フリックのために、オデッサのために、と言いながら、本当はただフリックの弱い部分を自分に見せて欲しかっただけなのだ。
 そうすることで、自分を特別な存在として認めて欲しかっただけなのかもしれない。
「……最低だな…俺は…」
 こんなことでフリックが自分を見ると思っていたのだろうか?
 こんなことでフリックを救えると思っていたのだろうか?
 フリックは、ビクトールが思っているような男ではなかった。
 ありがとう、と言って笑えるほどに、フリックは強くて優しい男だった。
 多分、彼はどれほど苦しんでも、きっと乗り越える。乗り越えるだけの力を持っている。自分は心のどこかでフリックのことを侮っていた。
 しかし、それは大きな間違いだった。
 何も分かっていなかったのは……きちんとフリックのことを知らなかったのは、自分の方だったのだ。
 自分はまだ彼のことを何も知らない。
 彼の本質の端に触れ、ビクトールはフリックのことをもっと知りたいと思った。
 本当のフリックのことが知りたい。
 知って、その先に何が待っているのか、それが知りたい。
「くそ……っ」
 どうしようもない後悔と、自己嫌悪と、そしてフリックへの想い。 
 ビクトールはまだ気付いていなかった。
 知りたいと思うことがどういうことなのか。
 それが誰かを想うことの始まりだということに気付かないまま、ほんの少し触れ合ったフリックへと一気に心は傾いた。
 それが、あの透き通るような笑顔を見せたフリックのことを知りたいと、ビクトールが思った初めて夜のことだった。


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