STAY(後編)


「ああ食った食った」
 どさりとビクトールがベッドに横たわる。
 フリックのおかげで何とか人のいられる空間となったビクトールの部屋。フリックは無言でイスに座りブーツを脱ぐ。
「なぁフリック、マーシアはほんといい娘だな、まぁちょっと世間知らずなところはあるがな」
 食事中、マーシアはビクトールの話にころころとよく笑った。
 両親に愛情を注がれ、大切に育ったお嬢さん。そのくせ、女の身で一人旅をするほどの無鉄砲なところがあったり。彼女はなかなか興味をひかれる存在ではあった。
 ハイランドへと向かわせたのは愛する人に会いたいがため。
 そんな一途な強さも、ビクトールはいたく気に入ってしまったようだった。
 その日の食事はいつもに増して盛り上がった。
「性格もいいし、おまけにお前にそっくりと来てる。たまんねぇなぁ…」
 フリックはそんなビクトールには目もくれず、片膝をベッドに乗り上げる。
「もっと横につめろ。俺はもう寝る」
「ああ?まだ9時だぞ?酒場に行かねぇのか?」
 熱でもあるのか?とビクトールがフリックの額に手をやる。その手をフリックが振り払う。
「お前、マーシアの監視するんだろ。酒場なんかに行ってる場合じゃないだろうが。扉の前で、寝ずの番でもすることだな」
「寝ずの番ねぇ。お前も付き合ってくれんだろ?」
 ビクトールが横になったフリックの身体に腕を回して来る。その太い腕をうざったそうに払いのけ、フリックはブランケットを引き上げる。
「お前、聞いてなかったのか。彼女が隣にいる間はやらないって言っただろ」
「了解した覚えはねぇがな」
 低く笑ってビクトールがフリックのシャツの裾から手を差し込んでくる。
 慣れたその感触にぴくりとフリックが身じろぎする。
 背中にビクトールの温もり。
「よせっ…て」
「声上げなきゃバレねぇって。お前次第ってわけだな、フリック」
 ぺろりと耳たぶを舐められる。
 差し込まれたいたずらな指がフリックの胸の小さな尖りを撫で回していた。すぐに硬く立ち上がったそれを、爪で引っかくと、フリックは息を飲んだ。
「ここ…弱いよなぁ…」
 どこかからかうようなビクトールの囁き。フリックが行為をやめさせようとビクトールの腕を取るが、逆に手首をつかまれ、そのまま自分の下半身へと降ろされてしまう。
「なっ…」
「ほら、自分でやってみな。手伝ってやっから」
 強引に下着の中へと手を入れられてしまう。花芯に触れるのは自分の指。その指の上からビクトールの手が重ねられる。
「いつも俺がやってるようにやってみな」
「ふざけんなっ…離せ…っ…ひぁ…っ…」
 ゆっくりとビクトールがフリックの指を動かし、その部分を揉みしだいていく。動かしているのはビクトールでも、直に触れているのは自分の指だ。自分自身で慰めることなんて、数えるくらいしか経験がなく、ましてやビクトールと深い仲になってからは、そんなことをする暇さえ与えてもらっていないフリックは、いきなりのこの行為に全身を朱に染めた。
「いやっ…だっ…ああっ…あ…」
「声、出すとマズイんじゃねぇか?」
 ビクトールが笑いを含んだ声で耳元で囁く。その声にもいつにない興奮の色が混じっている。
 手の中で花芯が勃ち上がり、蜜が零れ始める。その生暖かい蜜がフリックとビクトールの指を同時に濡らしていく。すべりが良くなったことに気をよくしたビクトールがさらに扱き上げる。
「んっ…ん、んぁ…っ…」
 必死で声を殺そうとするフリックがたまらなく可愛く思えるが、逆にどうしても声を上げさせたいという欲望をも掻き立てる。ビクトールは空いた右手で再び胸の尖りをいじり始めた。
「ひっ…っ…ん…」
「いったいどこまで我慢できるか見ものだな、こりゃ」
「頼む…も…やめ…っああ…」
 ぐちゅっとぬめった音がして、フリックはビクトールの指が先端を円を描くようになぞるのを感じた。フリックは思わず身体を丸めてこみ上げる快感に耐えようとした。
 いつもなら恥も外聞もなく叫んでいるところだ。
 だが、今は。隣の部屋にマーシアがいる。
「はっ…あ…っん…んん…」
「我慢は身体によくねぇぞ…フリック」
 イっちまいな、と意地悪く言い捨て、ビクトールはぐちゅぐちゅと激しくフリックの花芯を愛撫する。胸の尖りは押しつぶすようにして捏ねくり回され、二箇所から同時に湧き上がる快楽にフリックは耐えきれず声を上げた。
「ああっ…あっ…!ふぁ…っく…」
 背後で聞こえる荒い息づかい。腰の辺りにビクトールの昂ぶりを感じる。
「あうっ…うう…ん…まっ…て」
「何を待てってぇ?」
 震えるフリックの首筋に噛み付くようなキスを与える。
 その瞬間、どくっとフリックの先端から白濁とした蜜が勢い良く溢れた。なおも強く扱き上げられ、二度、三度と吐き出してしまう。フリックとビクトールの指を汚して。
「はぁ…はぁ…あぁ…ふぅ…」
「すっげぇな…びっしょりだ…」
 やっとビクトールがフリックの指を離してくれる。
 自分の指で、いや正確にはビクトールの指に操られた自分の指でイってしまい、フリックは力なく息を吐く。
 内股を濡らしているのは間違いなく自分が放った快楽の印で。
 それは簡単にビクトールの手によって与えられてしまうのだ。
 けれど。
 ビクトールは抵抗をなくしたフリックを本格的に味わおうと圧し掛かってくる。与えられる深いキス。
 フリックは熱を持っていく身体とは裏腹に、妙に心が醒めていくのを感じていた。
 こんな風に、何度も身体は重ねてきた。
 与えられる快楽に、口では嫌だと言いながらもその身を任せてきた。
 だけど、ただそれだけのような気がして。
 自分はビクトールに何を与えてやれるのだろうか?
 暖かい家庭も、ごく普通の家族も、何も与えてやることができない。
 あるのはただ単純な身体の快楽だけ。
 自分と同じ顔をした人間がいて、その人間はビクトールに人並みの幸せを与えることができるとしたら…
「……っふぅ…」
 涙が、頬を伝った。
 こんなことを考えるなんてどうかしてる。
「どうした?」
 ビクトールがフリックの涙に困惑したように目を細める。
 フリックはゆるく首を横に振る。
 急に、例えようもないほどの寂しさがこみ上げ、ビクトールの首に両腕を回した。
 自分ではだめなのだ。
 自分でなくてもいいのだ。
 それは決して見るべきではなかった心の暗闇だった。
 フリックは襲いかかる孤独感に身を震わせ、ただ一時だけでも、その孤独感を忘れさせてくれるであろうビクトールに縋りついた。


 将来のことなんて話し合ったことなんてなかった。
 どうして一緒にいるのか、その先に何があるのか。そんなこと考えたことはなかった。
 振り返れば、いつでもそこにいたから。
 それが当たり前になっていたから。
「フリックさん、どうしたんですか?」
「え?…ああ…」
 ただいま剣の稽古の真っ只中。
 先日カミューと考えたカリキュラムにそって兵士たちの訓練をしているところだ。
 ぼんやりとしていたフリックにマイクロトフが声をかけた。
 ビクトールと違い、フリックはいつでも練習には真面目に取り組んでいるというのに。今日はまったく稽古に身が入っていない様子で、このままで怪我をしてしまうのではないかと、マイクロトフが思わず声をかけたのだった。
「何かあったのですか?いつものフリックさんらしくない」
「悪い、ぼんやりしてた」
 フリックは何でもない、というようにマイクロトフの肩をたたいて、持ち場に戻った。
 今日もビクトールは練習に参加していない。
 マーシアがハイランドへ旅立つ準備のために街へ買出しへ行くというのに付き合っているためだ。
 一緒に行くか?というビクトールの誘いをフリックは断った。
 表向きは剣の稽古のため、けれど本当のところはあの2人が一緒にいるところを見たくなかったのかもしれない。マーシアがどうこうというわけではない。彼女は本当にいい子だが、ビクトールとどうにかなるなんてこれっぽっちも思っちゃいない。
 今心を占めているのは、ビクトールには、違う未来もあるのだという事実。それを選ぶこともできるのだという事実。
 いつか、その日が来た時。
 自分は、ちゃんと笑って別れを告げることができるのだろうか?
 その答えを考えた時、フリックの中に信じたくないような感情が湧きあがってきた。
 どうしよう。
 フリックはその想いに呆然としてしまった。


 クスクスの街で一通りの買物をすませたマーシアとビクトールは、近くの宿屋の一階にある食堂で休憩をとっていた。
「それにしてもたった一人でハイランドへ行こうなんて、ちょっと無茶だったんじゃないか?」
 運ばれてきたビールで喉を潤してビクトールがマーシアに笑いかける。
「そうですね。今思えばそうなんですけど、あの時はいてもたってもいられなくて」
 婚約者が重傷を負ったと聞いた瞬間、思わず家を飛び出してしまっていた。
 すぐに戻るから、という言葉を信じて待っていたマーシアにとって、彼が死んでしまうかもしれないという思いは耐えられるものではなかったのだ。
「私、自分でも驚いてるんですけど、好きな人のためにこういうこともできるんだなぁって。でも実際に彼に会ったらきっと怒られると思います」
「ま、そりゃ確実だな」
「ひどい」
 頬を膨らませるマーシアにビクトールは大声で笑った。
 それにしても、とビクトールは考える。
 マーシアが元気になったのはいいが、どうやってハイランドまで送り届けるかが問題だ。まさか、自分ひとりで行けと城から追い出すこともできない。
 まぁ自分とフリックで送り届けなければならないだろう。
 ディランもシュウもいい顔はしないだろうが。
 ビクトールがつらつらとそんなことを考えていると、
「あ〜こんなところで何やってるの?」
 けたたましい笑い声と共にナナミたちが姿を見せた。
 ナナミ、ニナ、メグ、ミリーという何とも騒がしい集団である。どうやら、息抜きがら買物に来ていたようで、手にはいっぱい荷物を抱えている。
「ビクトールさん、私たちにもお茶ご馳走して〜」
 ナナミがちゃっかりと隣の席に座る。
「あ、私も、私も〜」
「ごちそうさま〜」
 ビクトールが止める間もなく、4人はさっさと席につき、次々に注文をしてしまった。
「ったく、お前ら、タチ悪いな」
 次々と高いケーキやらパフェなどを注文する4人にビクトールが舌打ちする。
「あらぁ、そんなこと言っていいのかなぁ?」
 ニナがずいっとビクトールへ身を寄せる。
「な、何だよっ」
「こんなところでマーシアさんとデートしてるの、フリックさんにバレるとまずいんじゃないんですか?」
「けっ」
 ビクトールがぺちんとニナの頭を叩く。
「いった〜い、何するのよ!」
「つまんねぇこと言うからだ」
 どこがつまんないことなんですかっ、とマーシアを除く4人が一斉にビクトールに詰め寄る。
「これだから嫌なのよね、無神経な男って!!」
「ほんとほんと、だいたいいくら似てるからって、昼間っから堂々と出デートするなんてどうかしてますよっ」
「フリックさんがどう思うか、考えたことありますか?」
「ああ、可愛そうなフリックさん」
「だいたいちょっとフリックさんに似てるからって、さっさと乗り換えるなんてどうかしてるわっ」
「でもこれでフリックさんは完全にフリーになったわけだし」
「やだ、ニナてば、目が恐いわ〜」
「当然よっ、傷ついたフリックさんを私が慰めてあげるのよっ!!」
 ニナがうっとりと目を潤ませる。
 あまりのうるささに耳を塞いでいたビクトールだったが、4人が口にした言葉が引っかかった。
「おい、俺が誰に乗り換えたって?」
「え?フリックさんからマーシアさんに。違うんですか?」
 メグがきょとんと首を傾げる。そしてビクトールと同じように、4人の元気の良さに怯えていたマーシアへと向き直る。
「マーシアさん、ビクトールさんとそういう仲なんですよね??」
「え?ち、違いますっ!」
 いきなりのことにマーシアが顔を真っ赤にする。
「えええ?だって、そういう風に聞いたんだけどなぁ」
「あたしも〜」
「一体誰がそんな噂流してんだ?」
 ビクトールががしがしと髪をかきむしる。
 そういえばリィナたちもそんなことを言っていた。嫁さんが、どうのこうのって。まさか、城中の連中がそんな風に思ってるわけじゃないだろうな。恐ろしい考えにビクトールは身震いした。
「あの…フリックさんて…」
 まだ事情が飲み込めないマーシアがおそるおそるナナミに尋ねる。
 マーシアにしてみれば、ビクトールもフリックも自分を助けてくれた恩人なのだ。今話を聞いていると、ビクトールと自分がそういう仲だと勘違いされているようだが、それ以上に確かめておかなければいけないことがある。
「あの、えっと…ビクトールさんとフリックさんは…」
 マーシアの問いかけに、ナナミたちはお互いに顔を見合わせ、ちらりとビクトールを見てから小声でマーシアに言う。
「ビクトールさんとフリックさんは、恋人同士なの。えっと一応フリックさんは秘密にしたいらしいんだけど、まぁ公然の秘密というか何というか。城中で知らない人はいないの、ね」
「シャイなのよね、フリックさんて」
「そこが可愛いのよ」
 再びきゃあきゃあとニナたちが騒ぎ出す。
 マーシアは目を丸くしてビクトールを見た。
 ビクトールはどこか照れくさそうに笑って見せる。
「まぁ、そういうこった。だが、フリックには黙っててくれよ、お前さんにバレたと分かったら、また何言われるか分かったもんじゃねぇからな」
「ああ、そうだったんですか」
 マーシアはやっと納得できたような気がして微笑んだ。
 ビクトールとフリックを見ていて感じた不思議な暖かさを。ビクトールがフリックを見る時の優しい表情を。フリックがビクトールを見る時の安心しきった表情を。その意味がやっと理解できた。
 マーシアはふと心配になってビクトールに尋ねる。
「あの…こんな風に一緒に買物に付き合ってもらって、大丈夫ですか?何だか、とんでもない誤解をされているような気がするんですけど」
「ああ〜、そうだな。あいつもけっこう早とちりな所があるからなぁ」
 ビクトールが仕方がないなぁというように苦笑する。
 そして、ふとベッドの中で見せたフリックの涙を思い出した。
 あれは…そういうことだったのだろうか?
「ねぇねぇビクトールさん、本当にマーシアさんとは何でもないのぉ?」
 ナナミが上目遣いにビクトールを見る。
「何かあるわけねぇだろ。何だってそんな噂が流れたんだ?」
「え〜、だってマーシアさんてばフリックさんにそっくりでしょ?だから同じ顔なら、女のマーシアさんを選べば結婚だってできるしって。違うの?」
 運ばれてきたケーキを頬張りながら女性群が一斉にうなづきあう。そして疑惑の目をビクトールへと向けた。ビクトールはしばらくぼんやりと何かを考えていたが、やがてやれやれというように笑った。
「お前たちの期待に添えなくて悪いが、俺はフリックを手放すつもりは毛頭ねぇんだよ」
「……」
「俺は別に顔だけでフリックのことを好きになったわけじゃねぇしな。たとえフリック以上の別嬪が現われたとしても、それが女だろうが、金持ちだろうが、そういうことは問題じゃねぇ。人を好きになるっていうのは、そういうこととは全然違うんだ。あ〜、言葉にするのは難しいんだがな、そういうことだ」
「分かんないよ、それじゃ」
 ナナミが唇を尖らせる。
 ビクトールはそんなナナミに苦笑する。
「子供にゃ難しいってことだな、大人になれば分かる。いや、誰か好きな人ができりゃ、な」
「子供扱いして〜、あたしたちはもう十分大人ですっ!」
「いや、まだまだ子供だ」
「どうして?」
「こういう噂を簡単に信じちまうだろ?」
「………」
 ところがもう一人簡単に信じちまうよな子供がいるんだよなぁ、とビクトールはため息をつく。
 フリックがこんな馬鹿げた噂を鵜呑みにしてるとは思わないが、それでも何か思うところがあるには違いないだろう。どうしたものか、とビクトールは頭を悩ませた。
 まるで子守りのようなおやつタイムを終え、全員で城へと戻ることになった。
 道中、マーシアがおずおずとビクトールに尋ねる。
「あの、本当にごめんなさい。私のせいで、フリックさんと喧嘩なんてしないでくださいね」
 フリックそっくりの顔がビクトールを見上げる。
 心配そうな瞳。
 こういう表情をあいつは見せたことはないな、とビクトールはぼんやりと思う。
 決してどちらかに頼っているわけではないから。
 恋人より以前に相棒なのだ。
 自分の足でしっかりと立っているフリックだから好きになったのだ。
 フリックがこんな風に素直になれば可愛いだろうと思うものの、こんな風に頼って欲しいとは思わない。
「はは、大丈夫だって。ああ見えてもフリックだっていい大人なんだ、こんな馬鹿げた噂を信じちゃいねぇよ」
「でも」
「ん?」
「バカバカしい噂だって分かっていても、きっといい気分ではないと思います。それが好きな人のことなら、なおさらに。ちょっとしたことでも心配になって、不安になって、いてもたってもいられなくなります。それが本当に大好きな人のことであれば、とても」
「………」
「あ、そういうのって女の子だけでしょうか?男の人は…そんな心配はしないのかもしれませんね」
 マーシアの言葉にビクトールは曖昧に笑うだけだった。
 まぁどちらにしろ、帰ったらフリックとちゃんと話をしよう。
 信じてなければそれでいい。少しでも不安になっているようなら、馬鹿なヤツだと笑えばいい。
 ビクトールはそう思い家路を急いだ。


 城に着くとビクトールはすぐにフリックを探した。
 ところが部屋にもレストランにも酒場にもフリックはいない。
「おい、フリック見なかったか?」
 通りすがりのハンフリーをつかまえて尋ねる。
「フリック?さぁ見ないな、どうかしたのか?」
「いや、ありがとよ」
 いったいどこへ消えたのだろうか。ビクトールはうろうろと城中をフリックの姿を探して歩き回った。何しろ城はけっこうな広さなので、すれ違いになることもよくあることなのだ。ビクトールは一通りの目ぼしい場所を探してしまうと、再び部屋に戻った。
 こんなに探しても会えないとなると、夕食時までは会えないかもしれない。がっくりと肩を落としながら扉を開けると、そこには探し求めたフリックがいた。
「お前…どこにいたんだよ?」
「どこって?カミューの部屋でお茶をご馳走になってたんだ。今戻ったところだ」
 ビクトールは大きくため息をついた。
 まさかカミューの部屋にいるとは思わなかったのだ。カミューの部屋といえば、すぐそこだ。そんなビクトールを見て、フリックが苦笑する。
「どうした?何か用だったのか?」
「……ああ…フリック、話がある」
「………じゃあ…二人きりになれるところにでも…行こうか」
 こいつは絶対誤解してるな。
 ビクトールはフリックの様子を見てそう確信した。
 どこか心ここにあらずといった感じで、視線を合わそうとしないところが怪しい。つまらない誤解はさっさと解いてしまうに限る。しかし、ここでもし喧嘩にでもなったら、隣にいるマーシアに余計な心配をかけることにもなるのでビクトールはフリックに誘われるがままに屋上へと向かった。
 屋上は風が強かった。
 遮るものがなにもなく、ばたばたとフリックのマントがはためく。
「で?話って?」
 フリックが乱れる髪を押さえながらビクトールに問い掛ける。
「あ〜、お前さ、変な噂聞いてねぇか?」
「噂?」
「だから、俺とマーシアが…その…付き合ってるとか、何とか…」
「ああ…そういやそんなこと耳にしたな」
 フリックが小さく笑う。
 その表情にビクトールはおや、と思う。
 誤解されていると思ったのは間違いだったのだろうか?フリックはどこまでも穏やかで、バカバカしい噂を信じてるという様子もない。ビクトールは拍子抜けしたような気がして、ほっと肩の力を抜いた。
「えっと、まさかとは思うが、信じちゃいねぇよな?」
 一応駄目押しで聞いてみる。フリックはむっとしたように眉を顰めた。
「別に。おせっかいな連中がさんざん忠告はしてくれたがな。俺にそっくりなマーシアにすっかり骨抜きになってる誰かさんは、そろそろ身を固めるつもりだとか何とか」
「おいおい、お前…」
「つまらない噂だ」
 あっさりとフリックが言い捨てる。
 しばらく無言で向き合う二人。
 そこで初めてビクトールはフリックの醒めた目に気づいた。
 怒っているわけでもない。悲しんでるような雰囲気でもない。ビクトールは初めて見るフリックの表情に戸惑っていた。
「フリック?」
「だから言ってるだろ。つまらない噂なんて信じちゃいないって。もういいか?話はそれだけか?」
 先に戻ると言い、ビクトールの横を通りすぎようとするフリックの腕をビクトールが掴む。フリックは足を止め、すいっと視線だけをビクトールに向けた。
「……まだ何かあるのか?」
「お前、何を考えてる?」
 ビクトールがフリックの瞳を覗き込む。
 愛してやまない青い瞳。
 頼りなげに揺れているのは気のせいだろうか?
「ビクトール」
「何だ?」
「本当にあんな噂は信じちゃいない。それは、本当だ。だが…どうしても…分からない」
「だから何が?」
 吹きつける風から庇うようにしてビクトールがフリックの身体を壁際へと押しやる。ふわりとバンダナが揺れフリックはうるさそうにそれを払う。
「分からないって、何がだ?」
「俺は、お前のそばにいても何もしてやれない」
「………何だって?」
 ビクトールが聞きかえす。
 いったいフリックが何を言い出すのが想像もつかない。
 黙りこむフリックにビクトールが痺れを切らし先を促す。
「言ってみろ。どうせまた、つまらねぇこと考えてんだろ」
「つまらないこと、かな。ビクトール、俺はお前が望むものを何ひとつ与えてやることはできない」
「俺が何を望んでるって?」
「結婚したくなったら?子供が欲しくなったら?暖かい家庭と、当たり前の幸せな生活が欲しくなったら?俺は何ひとつ、何ひとつとして、お前にしてやれない」
「はっ、そんなもん、いつ欲しいなんて言った?」
 ビクトールがむっとしてフリックの肩をつかむ。その手を振り解くようにフリックが身を捩る。ビクトールの視線から逃げるようにして顔を反らし、
「だからっ!今じゃなくても、欲しくなったら?お前がそれを求めるようにならないって誰に言える?そうなった時、…俺以外の…誰かならそれができるんだっ。子供だって、暖かい家庭だって、誰もが欲しいと思うような普通の生活を、俺以外なら…」
 フリックが何かを吐き出すようにして叫んだ。
 次の瞬間、堰を切ったようにフリックの瞳から涙が溢れ出した。
「フリック?」
「……っ!」
 次から次へと頬を伝う涙に自分でも驚いているようで、フリックは呆然としていた。けれどそれは止まることなく、フリックの顎を伝い、ぱたぱたと零れ落ちる。
「おい?」
「お前の…愛情を…疑ってるわけじゃない…そういうことじゃない、んだ」
 震える声でフリックが微かに微笑む。
「ただ…マーシアといるお前を見て思ったんだ。俺は…お前に…身体の繋がり以外に…何かしてやれることはあるのかなって…」
「……っ!!」
 だんっとビクトールがフリックの身体を壁に押し付けた。掴まれた肩に食い込む指が痛くて、フリックは小さく声を上げた。
「何言ってんだ、お前は」
 低くビクトールが呻く。
「本当にそう思ってんのか?俺たちの間には身体の繋がりしかねぇって?本当にそう思ってんのかっ!」
「違うっ!そうじゃないんだビクトール…」
 正直なところ、フリックのセリフにビクトールは頭に来ていた。
 今までの時間を、二人で過ごしてきた時間をいったい何だと思っているのだろうか?
 身体の繋がりしかないなんて、そんな薄っぺらな付き合いだと思われているのだとしたら、情けなくて泣きたいのはビクトールの方だ。
 無言で涙を流しつづけるフリックに何を言えばいいのか分からず、ビクトールは唇を噛む。
 口を開けばフリックのことを責めてしまいそうだったから。
 こんなことで喧嘩なんてしたくない。
 こんなことでフリックのことを泣かしたくない。
「違うんだ…ただ分かってるのは…」
 フリックがつぶやく。
「分かってるのは、お前がそういう幸せを欲しいと思った時に、俺が何もしてやれないってことと…そうなった時でさえ、俺は…きっと笑えない。笑って、お前を自由にしてやることなんて…きっとできない。だから、どうしたらいいのか分からない…」
 その瞬間、ビクトールの中から怒りは消えた。
 掴んでいた手を離し、そのまま強くフリックを抱きしめる。
 肩に触れたフリックの頬。
 涙でシャツが濡れていくのを感じて、ビクトールは身体を離しフリックの両頬を手のひらで包んだ。
「お前は、ほんとに馬鹿だな」
「…っ…何で…」
「泣くな。お前が泣くと、俺はどうしたらいいか分からねぇだろ」
 閉じたフリックの瞼にビクトールが唇を寄せる。
 たったそれだけのことなのに、どうして涙が止まるのだろうと、フリックはぼんやりと思った。
 

 風をよけて二人で建物の壁際に座った。
 辺りはすっかり暗くなってしまっていた。不覚にも涙なんて見せてしまったことで、フリックはうつむいたまま顔を上げることができずにいた。
 自分には何もできない。自分ではビクトールに何も与えてやることができない。そう思ったフリックの中に湧き上がったのは「それでもきっと離れることなんてできない」という気持ちで、それがすべての答えだった。
 笑って別れることなんてできない。
 そう思ったとたん、どうしたらいいのか分からなくなった。
 そして恐くなったのだ。こんなにも自分は弱かったのか、と。
 黙り込むフリックに、ビクトールはただぼんやりと夜空を眺めていたが、やがてポツリと言った。
「なぁ、俺も分からないんだがよ」
 フリックは隣に座るビクトールを見る。
「もしも、お前がこの先誰かと結婚したいと思ったり、子供が欲しいと思ったり、暖かい家庭と当たり前の幸せな生活ってヤツを欲しいと思っても、俺だってそれをお前に与えてやることはできねぇし、だからってお前のことを手放してやることもできねぇんだぜ」
「!」
「俺以外のヤツなら、お前にそういう普通の幸せってやつを与えてやれるんだろうがな」
 その言葉にフリックが目を見開く。
 困ったように笑って、ビクトールがフリックの頬に触れる。
「同じだろ?お前が俺に対して思ってることは、そのまんま俺がお前に対して思うことだ。どうして、自分ばかりがって思う必要がある?お前に何もしてやれねぇのは、俺も同じだ。いや、俺の方が何倍もあるかもしれねぇな。何しろ、俺はお前のことをめちゃくちゃに愛してっからよ」
 ビクトールの言葉にフリックは何かが溶けていくような気がした。
 心の奥にあった…小さな刺がゆっくりと消えていく。
 どちらかが犠牲になっているわけではないのだ。
 どちらかが自由を奪っているわけでもなく、どちらかが負担になるわけではなく。
 だからいいのだ。
 こうして隣にいることも、温もりを独り占めすることも、すべて許されることなのだ。
 何もできないなんて、どうして思う必要があるのだろう?
「…ばかだな、お前も…」
 俺も。
 フリックは小さくつぶやくと、ビクトールの肩に額を押し当てた。
「すまない、反省してる」
 フリックの言葉にビクトールは喉の奥で笑った。殊勝に謝ってみせるフリックをそれ以上いじめるつもりはさらさらなくて、うつむいたフリックの顎を持ち上げると唇を重ねた。
 甘いキスの味にフリックはそっとビクトールの首に腕を回した。
 

「で、結局ビクトールさんが送り届けることになったんですね?」
 昼下がり、カミューの部屋でフリックは掘り出し物だという紅茶をご馳走になっていた。
 久しぶりにいい天気で、空には雲一つ浮かんでいない。
 フリックは気持ちのいい風の吹くベランダから部屋の中へ戻り、テーブルへと座る。
「ああ、ディランが先にハイランド周辺を調べてくれてたんだ。近くの村にハイランドへ行き来している行商人がいるらしくて、そいつにいくらか金を渡してマーシアをハイランドへ連れていってもらうことにしたらしい。ビクトールはその行商人と渡りをつけるってことで、な」
「なるほど。どうして一緒に行かなかったんですか?」
「行けるわけないだろう?」
 フリックが不機嫌そうにカミューを睨む。
 あのあと、ビクトールからマーシアに二人の関係を知られたと聞き、フリックは真っ青になったのだ。あれだけ隠せといったにも関わらずあっさりと関係を認めたビクトールをさんざん詰った。
 けれど、どこか嬉しかったりする自分に余計に腹が立ったりで。
 自分とビクトールの関係を知られてしまったのに、平気な顔をして一緒に旅を共にするなんてことはフリックにはできない話なのである。
 マーシアには出発の朝、別れを告げた。
「元気で。婚約者の人と幸せにな」
 フリックがそう言うとマーシアは満面の笑みを浮かべた。
「フリックさんもお元気で。いつか、いつかこの戦いが終わって、平和な時代が来たら、必ずもう一度会えると信じてます。その時まで、ビクトールさんとお二人で生き延びてくださいね。ご武運を祈ってます」
「ありがとう」
 自分にとっては敵になるであろうフリックへのマーシアの言葉は、深く胸に響いた。
 戦いが終われば、笑って会えるときが来るのだろうか。
 会えるように、戦いを終わらせたいと思う。
「それから、あの、ビクトールさんと喧嘩なんてなさらないでくださいね」
「〜〜〜!!あ、ありがとう」
 頬を引きつらせながらフリックが礼を言う。
 とばっちりを受けそうな気配を感じたビクトールはマーシアを促し城をあとにしたのだった。
「戻ってくるまで1週間ほどですか?心配ではありませんか?」
 カミューがポットの紅茶をカップに注ぐ。
 城中でビクトールとマーシアのことが噂になっていたのはカミューも知っていた。もっとも、それが根も葉もない噂だということもわかっていたし、今だって本気で心配しているわけではないのだが、ちょっとフリックをからかってみたくなったのだ。
 けれど、フリックは少し考えたあとで笑って言った。
「あいつの方が心配してるかもな。俺がこうしてカミューの部屋に出入りしてるのを知ってるから」
 その言葉にカミューの手が止まる。
「フリックさん、あんまり変なこと言わないでくださいね。マイクが誤解しますから」
 いつもやられてばかりのカミューを困らせることができてフリックは満足そうに紅茶を口にする。
 そして1週間後に戻ってくるビクトールのことを考え、思わず微笑むのだ。
 会いたかったと言えば、どんな顔をするだろうか。
 たまには甘えてみるのも悪くない。
 もっとも、実際顔を見てしまえば、そんなことは口にはしないけれど。
 そんなことを思いながら、フリックはカミューと午後のひと時を過ごすのであった。



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