指先の魔法



「こういうの、何て言うんだっけ?」
ぎしっと音をさせてベッドの端に座り、スラリとした長い脚を無造作に組んだフリックが天井を見上げてつぶやいた。
「……鬼の霍乱……サルも木から…いや、熊も木から落ちる…か」
くすっと笑ってベッドに手をつき、横たわるビクトールの顔を覗き込む。
 ビクトールはだるそうに額に手を置いて目を閉じていたが、しばらくすると、
「下手な冗談だ……」
と、しゃがれた小さな声で言い返した。
確かにな、と笑って、フリックがビクトールが口に銜えていた体温計を手に取る。
「38度9分か……こりゃだめだな。お前、今日は寝てろ」
やれやれと言った感じで立ち上がり、フリックはビクトールの代わりに本日の戦闘メンバーに加わるべく準備を始めた。
ビクトールが風邪を引いたのである。
これぞまさに青天の霹靂というべきか。
昨日までぴんぴんしていたくせに、突然発熱したのだ。
一緒に眠っていたフリックが、隣で眠る男のあまりの体温の高さに目を覚まし、発熱していることが分かったのだ。
夜中に起こされたビクトールは、喉が腫れて声もロクに出せず、自分でもびっくりしているようだった。
だがフリックが気づかなければ、ビクトールはそのまま朝まで眠っていたに違いない。人の体調は敏感なくせに、自分の体調には鈍感なのだ。
もっとも風邪なんて生まれてこのかた引いたことがないのが自慢だったのだから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。
風邪を引いたというだけでもがっくり来ているのに、熱の高さを聞かされ、ビクトールはさらにがっくりしてしまった。

情けないったらありゃしねぇ……

初めて体験する高熱に、どうにもこうにも頭がぼんやりしてしまう。
喉も痛い。関節まで痛いような気がする。
「フリック……」
「ん?大人しくしてろ。あとでホウアンに往診してもらうよう頼んでおくから」
淡々と返事をするフリックに、ビクトールが情けない声を出す。
「行くのか?」
「………仕方ないだろ。お前がダウンして、メンバーが足りないんだ。俺が行かなきゃ、ディランたちが困るだろ」
当然だろうと言わんばかりのフリックに、ビクトールは低く唸った。
本当なら今日はフリックは休日のはずだったのだ。
10日ほどの遠征から昨日帰ってきたばかりで、入れ替わりでビクトールが出かけるはずだったのに、こんなことになってしまい、フリックは休む間もなく再び戦闘に借り出されることになってしまった。
疲れているだろうに、そんなことは少しも匂わせないフリックに、ビクトールは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「……すまん」
ビクトールが溜息とともに紡いだ言葉。
思いがけない言葉に、フリックの方が目を丸くした。
「ずいぶん殊勝だな。だが、気持ち悪いからそういうことを口にするな」
フリックがきゅっとバンダナを結び、にやっと笑う。

 さすがのビクトールも病気には勝てないか。

熱は高いがただの風邪だし、ホウアンに薬をもらえば、体力のある男のことだ、すぐに回復するだろう。だが、病人というのは妙に気弱になるものである。
ビクトールの口から「すまん」なんて言葉を聞けるとは思わなかったな、とフリックは珍しいものでも見るかのように、ぐったりと目を閉じる男を眺めた。
「大丈夫か?」
「ああ……」
とても大丈夫とは思えない様子に、フリックは一人にしても平気だろうか、と少し心配になった。だが、ビクトールが心配だから戦闘には出ないなんて、みっともないことと言うのは真っ平ごめんだ。子供じゃないんだし、そばにいなきゃ飯も食わないなんてことはないだろう。
「ま、薬を飲んで大人しく寝てろ。すぐ治る」
「フリック……」
「ん?」
「お前がキスしてくれた治るかも」
「…………お前な、俺に風邪を移しちゃ悪いとは思わないのか?」
ふざける元気があるくらいなら大丈夫だな、とフリックはベッドサイトに置いてあった洗面器にタオルを浸してきつく絞ると、ビクトールの額から頬の汗を拭ってやった。
「熱いな……」
手の甲でビクトールの首筋に触れたフリックは、思わずつぶやいた。そうか?と微かに笑う男の無精ひげの伸びた頬をざらりと撫でると、フリックはそのまま、その指先を口元へと運んだ。
「フリッ……ク?」
ビクトールがゆるゆると目を開け、困惑気味にフリックを見つめる。
フリックのひんやりとした指先が唇に触れ、親指の腹がゆったりとビクトールの下唇をなぞった。軽く触れる程度に数回なぞったあと、フリックはその指先を自分の口元へと運んだ。
たった今、ビクトールの唇に触れていた指先に、フリックは目を閉じ、ちゅっと音をさせて口づけた。
「………っ!」
うっとりと、まるで何か大切なものにでも触れるかのようなフリックの仕草。
その妙な色気に、ビクトールはぎょっとした。
「ま、予約ということで」
目を開けたフリックは、言葉のないビクトールとは裏腹に、あっけらかんとした表情で微笑んだ。
「帰ってきて回復してたら、ちゃんとホンモノをしてやるよ」
せいぜい養生しろ。
そう言い捨てると、フリックはオデッサを手にした。
「ずいぶん洒落た真似するじゃねぇか……」
赤面もせず、こんな甘い誘い方をするなんて。
いったいどういう風の吹き回しだ、とビクトールが苦笑する。そんなビクトールの揶揄に、フリックが、ふんと鼻を鳴らした。
「最近分かったことがある」
「ああ?」
「こういうことは、自分から仕掛けた方が恥ずかしくないってな。つまり、お前からキスされるよりは、自分からした方がマシだってことだ」
「………へぇ…」
ずいぶんと開き直ったもんだな、とビクトールは感心する。そして、締まりのない顔でニヤニヤと笑った。
「その意気込み、ベッドん中でも発揮されることを期待してるぜ、ダーリン」
「………それとこれとは話が別だ」
調子に乗るな、とフリックが頬を染めて釘を刺す。
同じだろうが、とビクトールは熱で朦朧としつつも反論した。
何にしろ、死に物狂いで風邪を治す必要があるようである。
ご褒美はフリックからのホンモノのキスと、ベッドの中での大胆なお誘いだ。
薬よりも休養よりも、フリックの言葉が一番風邪には効くようだ。
「……大人しく寝てろよ」
「了解」
部屋を出て行くフリックに、ビクトールがベッドの中から軽く手を振った。
唇に残るフリックの指先の感触。
その切ないほどの甘い感触は、しばらく熱のあるビクトールを苦しめた。
ホンモノの口づけが与えられるまで。
そして、与えられたそのあとも……。
 
 
 


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